事態は静かに動いていた
己の不甲斐なさに一晩泣いて、翌日の十月十一日。
俺の様子がおかしいからと心配する楊と朝の八時に一緒に署に入るや、すぐに楊は髙に連れ去られ、取り残された俺は一人寂しく自分の部署に向かうしかなかった。
「おはようさんです。」
室内に一歩踏み入れて挨拶をしたが、誰からも帰しの返事がない。
どうしたものだと見回せば、課の小部屋はガランとしていた。
「山さん、遅ようさん。」
葉山は居残りしているかのようにして、一人寂しくデスクに向かっていた。
一人寂しくではないようだ。
彼は書類でぎっしりの数箱を足元に置き、机の上も書類束だらけだった。
「お早う!友君!誕生日オメデトウ。なのにこれはどうしたの?」
相模原東署の混乱の序章は、前日の十日の早朝に始まったと考えて良いだろう。
俺が楽しく祝日を謳歌していた一方で、ろくでもない計画が進行していたのだ。
祝日の朝一に通報が入り、葉山と新人が飛び降り自殺の現場に向かった。
新人とは、特定犯罪対策課、通称特対課に九月の一日付けで加わった加瀬聖輝である。
それ程身長は高くなくほっそりした印象の加瀬であるが、顔の造形は大作りだ。
しかしそれが不細工に見えるどころか、人柄の良い彼自身の器の大きさを体現しているかのように、誰もが好感を抱く顔付なのである。
また、加瀬は内面が良いどころか仕事ができる。
大卒の二十五歳の巡査の、刑事に昇格して一年弱とは思えないほどだ。
しかし、仕事が出来すぎると同僚には妬まれることもある。
警察内では、同僚間でのいじめや嫌がらせは、普通の会社よりも多い。
稽古と称しての肉体的な暴力もあるいじめだ。
現場の凄惨な遺体にショックを受けるよりも、このいじめで精神を病む人間の方が多いのは一般の人にはわからないことだろう。
加瀬はその点恵まれていた。
彼を妬みいじめる男が間抜けだったからだ。
その男は加瀬をいじめ抜くよりは、神奈川県警の島流れ署と名高い相模原東署のそのまた掃き溜めと噂される特対課に流すことを思いついたのである。
加瀬はそれで俺達の同僚になり、普通だったら掃き溜めに埋もれてしまうだけだったろうに、ここには髙という百戦錬磨の男がいた。
髙は気に入った男がいれば、今後の自分の布石にするために、鍛えて持ちあげるのだ。
楊を鍛えて課長にまで押し上げてしまったように。
ついでに言えば、人柄がよい加瀬が特対課で虐められる事などありえず、楊などは初日から彼に「マッキー」とあだ名を付けて彼を可愛がっている。
あれ、マッキーは……嫌かな。
だが、加瀬は、人好きのする笑顔を俺達に向けているではないか。
きっと、楊には他意が無いとわかっているはずだ。
楊に可愛がられて嫌な気がする人はいないはずだ。
ほら、俺のクロトだって楊に可愛がられて喜んで、いや、彼を彼を可愛がりたくなるのは当り前だろ?
だってクロトは、天使だ、俺のものだ。
あのぷっくりとした唇がなんと柔らかったことか。
あの俺を見つめる潤んだ黒曜石の瞳の煌めきが、人間のものであって良いはずがない。
あれは絶対に、天使だ、妖精だ。
あ、話がそれた。
凄く逸れている。
話を戻そう。
葉山が昨日出向いた現場の話だった。
「飛び降り自殺の通報はここだよね。」
葉山と加瀬が辿り着いた現場は、一戸建てが立ち並ぶ住宅街でしかなく、死ぬために飛び降りられる四階建て以上の建物が皆無な場所であった。
葉山は見回すが、通報を受けた住所には何も無い。
血の跡どころか何も無い住宅前の道路なのだ。
「プレジール街区って、この住所で間違っていないですよね。救急車も人通りもないですし。いたずら、ですか?」
加瀬は葉山にそう伝えるなり、スマートフォンで位置確認をして通報の住所に間違いはないか再確認をしはじめた。
「あ、違った。同じ名前でもう一つありました。プレジール二番街の方かもしれません。それならば、一本向こうになります。」
加瀬の示す方角を見つめながら葉山は呟くように返した。
「それでも、向こうも同じような住宅街だったら、飛び降りられそうな高さの建物がないわけだよね。」
「そうですね。ですがそうしたら誰も死人がいなかった事になりますからいいですね。」
加瀬のポジティブな言葉に葉山は相好を崩していた。
「そのとおりだね。」
現場は三階建ての同じような外見の建物が立ち並ぶ住宅街にあったのだが、葉山達が今度は迷わずに目指す一軒辿り着けたのは、怒りに満ちた救急隊員達と現場となった一戸建ての前に駐車してある救急車が目印となっていたからである。
「遅い!鑑識も連れて来ていないじゃないか!」
彼らは最初と違う明るい心持ちでやって来たはずだったのだが、殺気だった救急隊員に怒鳴られた事で一瞬で浮ついた気持ちは下降してしまった。
それどころか、救急隊員がここまで厭う現場に思いをはせて、心の中で大きなため息を出した程だという。




