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お前を地面に貼り付けて背中を踏みにじってやりたい(馬11)  作者: 蔵前
八 事態は酸化する鉄のように真っ赤に急変していく
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喪失

 昨日は口にするのもおぞましい日でもあった。

 折角の玄人とのひと時が台無しだ。

 彼は怯えて何時も以上に、それどころか初めてというほど俺に縋りつき、俺はその幸せのために彼をもっと自分に引き寄せたいと思うのに、あの時の場面が脳裏によぎるのだ。


 俺の左腕はダイゴによって砕かれたはずだった。


 腕には二本骨がある。

 とう骨と尺骨だ。

 俺はミシリと頭に響いた骨の折れる音と激痛に、二本とも折れたと確信した。

 俺の腕を噛み砕いた嫉妬に狂った狂犬は、次には確実に俺の喉笛をも噛み砕くだろう。


「ちくしょう。ダイゴ。このくそ犬が!」


 先に嫉妬したのは俺の方だ。

 犬と変わった呉羽大吾は、その犬と変わった肉体を利用して、玄人の体を恋人の如く我が物顔で蹂躙していたのだ。

 百目鬼がダイゴをバター犬と罵るその通りだ!

 玄人の恋人である俺が、そんなスケベ犬に大事な彼を舐め回させるなど、とても許せるものではない。


 けれど人間であった時ならばいざ知らず、犬神となって人外の力を持った存在に俺が太刀打ちできるわけは無く、俺は簡単に床に押し倒された。


 今や、殺される一歩手前だ。


 ところが、殺される筈の俺は急に解放された。

 ふっと消えたダイゴが、次にはベッドの玄人がいる所へと飛び掛ったのである。


「おい!クロトに何をするんだ!」


 痛みを堪えながら身を起こすと、ダイゴは楊に押さえつけられていた。

 正確には楊によく似ている男に、だ。

 髪は楊よりも長く、全て後ろに流して額を出しており、服は楊が着そうもない煌びやかなベストにベージュ色のスラックスだ。

 ベッドの上にいるにもかかわらず胡坐をかいている足は靴を脱いでおらず、その靴は先のとがった高級のイタリア製の革靴だった。


 俺は公安だった手前、薄給で自分は持てはしないが、高級品か安物か、それがどこの店のものかは大体わかる。


「お前は何者だ?」


 男は俺に気安い笑顔を見せた。

 俺がダイゴのように彼に向かっていかないのは、彼が左手でダイゴを押しつぶしているからではなくて、右腕に気絶している玄人を抱きしめているからだ。


「クロトを放せ。」


「放すよ。生贄と交換で。君とこの犬、どちらが僕に隷属する?」


「わたくしが。」


 俺が答えるよりも呉羽の方が早かった。

 警察の制服を着た呉羽大吾の姿に戻っていた彼が、押さえつけられながら擦れた声で答えたのだ。


「わたくしをいかようにもお使いください。若様を傷つけること以外、わたしは何でもあなたに従います。どんな事でもいたします。」


 しゅんっと呉羽の姿はかき消すように消え去り、美少年を腕に抱いた男は空になった左腕の肘を胡坐をかいた膝において手の甲に顎を乗せると、気だるそうに俺を見下した。


「クロトを開放しろ。呉羽を手に入れたのだろう?いいよ。呉羽を使って俺の喉笛を噛み切らせればいい。だが、クロトから手を放せ。彼を傷つけるな。」


「ブラボゥ。騎士道精神溢れる君達にはうっとりするね。台詞がつまんないけど。」


 男は右腕にいる玄人の唇にチュッと軽く口付けると、完全に意識を失っている彼を優しく、悔しいぐらいに恋人であるかのようにしてベッドに優しく横たわらせたのである。


 俺が奴に玄人にキスさせる行為を許したのは、俺の喉笛が奴の左手で押さえつけられているからだ。


 玄人に口付けようと奴が動いた瞬間に、俺は奴に飛び掛っていた。

 それが、何の成果も得られないまま、食肉工場のブタみたいにして、奴に首を掴まれて片手でぶら下げられている。


 元公安の人間兵器が笑わせる。


「くっ。」


「苦しいね。これが死人の苦しみ。死んでいるのに死ねない彼らの共通した苦しみ。」


 歌うように男は口ずさみ、なんということだ、奴は俺にも口づけたのだ。

 舌を入れないマウストゥマウスであったが。


「君にご褒美だ。」


 俺の咽喉にはぅっと空気が流れ込み、支えを失った俺はがくんと下に落ちた。


「つっ。」


 床に打ち付けた両膝への痛覚で一瞬頭まで痺れ、だが玄人へと意識を向けた時には男はおらず、目の前には美しい寝顔で横たわる玄人だけだ。


「クロト!」


 彼を救い上げるように抱きしめて、俺は左腕に何の怪我もしていない事に気がついた。

 夢か?

 しかし、その後の玄人の怯えを知るにつけ、俺が起きたと思う事が事実で、その上、玄人の見たものを感じ取る俺の力をあの男に奪われた事を知ったのである。


 それは、玄人が俺よりも早い死を迎えたその時に、俺が彼の姿を見つけてあげることが出来なくなったということだ。

 玄人が俺を恋人に選んだ理由は、確実に誰よりも早く逝く自分を慰めるための俺の力、ただそれが俺にはあるからでしかないかもしれないのに、だ。

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