忘れてた忘れていた事
「クロト起きて。」
ドクドクと鼓動を打つ者は生きている証で、生きているその証の音が僕の頭の中に響き、頬に当たるのは生きているものの温かな感触だった。
きっと、母親の胎内の中のような安住の場所だ。
夢うつつの僕は覚醒してそれを手放すことはしたくはないと、とにかくそれにしがみつこうと両腕にぎゅうっと力を入れた。
「いや。このまま。とても温かで幸せなの。」
「もう!クロトったら。でも起きて。」
くすくす笑いの山口の声にしぶしぶ目を開けると、僕は彼の背中に担がれていた。
あの白い男のせいで再び気絶した僕は、情けなくもラブホテルから彼の背に揺られて自宅まで運んで貰っていたらしい。
「あ、ごめんなさい。重かったでしょう。」
「いいよ。本当は家の中まで運んで添い寝をしたかったけれど、仕方が無いね。」
僕は彼の背から降り、彼が残念に思いながらも僕を起こした原因を知った。
家の前には二人の般若が待ち受けていたのである。
一難去ってまた一難だ。
僕を睨みつけるのは、真砂子と梨々子である。
彼女達は大事なメールの返信がないことに怒り心頭で、二人とも問いただすためにと我が家まで押しかけてきたのだ。
真砂子は僕の返信が、梨々子は婚約者楊のものが、である。
真砂子は弟の葉山に似ているが彼よりも繊細な顔立ちで、良純和尚風に言うと物凄く色っぽい目をした気の強そうな美人である。
葉山の自宅近くの専門病院で、それも著名な神経外科医の手術室で働いている彼女は、優秀な看護師でもあるのだ。
「玄人君も淳平君も、友紀にちょっと冷たくない?」
色っぽい目元を鬼の目に変えて、彼女は僕達をギロっと睨んで来た。
確かに彼女の言う通り。
僕達は葉山をすっかり忘れていた。
どうしたことか。
僕はあらゆることを忘れている。
違う。
真砂子を目にして気付いたのだが、僕は相模原の方へ考えが及ばなかったようなのだ。
これは一体どうした事か。
あの男に呪いでも掛けられていたのか?
「ご免なさい、お姉さん。僕がクロトを独占したいから返信させなかったの。」
事実だけども、僕が庇って貰っているようにしか聞こえ無いのはなぜだろう。
悪人になった模様の僕は、無言で真砂子に頭を下げるのが精一杯だった。
「ごめんなさいは良いから。今日か明日は来れるかな?この間みっちゃんが倒れちゃったでしょ。その後も彼女が元気ないから友紀にかこつけて元気付けようかって。」
水野と佐藤が来訪した被害者宅は、一週間以上も締め切ったワンルームの中で共食いし合っていた十数匹の犬猫の残骸で溢れていたと聞く。
あの気丈な水野が倒れたと山口は驚いていたが、水野は誰よりも優しい人なのだから哀れな犬猫の残骸に動揺する当たり前だ。
そう、当り前なのに!
僕はいつも僕に優しくしてくれる水野に対して、彼女が倒れたのに気遣う事さえも考え付かなかったなんて!
「ご免なさい。真砂子さん。僕はそんなことも考え付かなくて。今日は駄目ですが明日なら伺えます。ううん。絶対に行く!」
僕の返事に真砂子はふっと笑い、山口にはお尻をキュッと掴まれた。
きゃう、新しい攻撃だ。
こんな性的な揶揄いをしてくるとは、僕が彼にキスを許したからか?
僕は声が裏返りながらも、淳平君も一緒で、となんとか付け足した。
真砂子は僕の様子に吹き出して、顔つきをかなりほころばせた。
僕は彼女の顔つきの変化を見て、彼女が彼女の元夫によって葉山が大怪我をさせられた時の、病室で葉山に付き添いをしていた時の青い顔を思い出したのである。
「ねぇ、真砂子さん。友君も辛いの?この間の事件は淳平君は現場の家の二階に絶対に上げて貰えなかったと言っていたから。」
僕の言葉に身を乗り出す感じで真砂子に迫ったのは山口だ。
「そうです。僕は駄目だって、見るなと言われた遺体を彼は見ているんです。僕には普通に振舞っていますが、彼は大丈夫なのですか?最近、……あれ?」
「どうしたの?淳平君。」
「いや、最近自分を霊的なものからガードが出来るようになったから気にしていなかったけれど、霊的な事に鈍感になっていた事にも気がついて。どうしてだろう。」
急に考え込み始めた彼に、僕も相模原に意識が動かないのはなぜだったのかと思いを馳せて、そしてラブホテルでの謎の男の姿が脳裏に閃いた。