上位者
トン。
僕は自分の真後ろに急に現れた男に後ろから抱き寄せられ、その男のおそらく胸に僕の背中がついた時、そこで全てが真っ暗に落ち込んだ。
つまり、僕はあろうことか、姿の分からない奴に気絶をさせられたのだ。
数分後なのか数秒後なのか、気づいた時にはダイゴの姿は消え去っており、僕の視線の中には僕を覗き込む山口の顔があったが、彼は悲しそうに微笑んで僕を見つめていた。
「目が覚めたなら帰ろうか。大丈夫?」
「大丈夫です。あの、ダイゴは?あの男は?」
「え?君にキスした途端にバタンだったから。大丈夫?気分が悪いの?」
「え?ダイゴが僕達の邪魔をして、淳平君がダイゴに襲われて……え?」
「ダイゴは居ないでしょう。神無月には神様が消えちゃうものじゃない。」
「そんな事は……。だって、ダイゴは。」
僕は目を瞑り、彼を呼ぼうとダイゴの姿を思い浮かべようとして、彼の存在がぽっかりと穴が開いたように感じられない事に気がついた。
「ダイゴが感じられない。うそ、ぽっかりと消えちゃった。」
「あぁ、泣かないで。ごめん、本当にごめん。君にキスはまだ早かったね。君はもともと異性愛者だって言っていたものね。ゴメン。本当に。」
彼は僕をぎゅうっと抱きしめた。
彼の腕中で彼の鼓動を聞きながら、こんなにも彼の腕の中にいることをすんなりと受け入れている僕にも、僕を本気で慰める時にはこんな抱き方をしなかった彼が手馴れたように僕を抱きしめている事に僕は違和感が湧き出ていた。
「大丈夫?帰ろうか?」
僕は自分を抱きしめている彼の顔を見上げ、その顔がいつもの柔らかな彼の生来の表情に戻っている事を知ったそこで、平常な日常にいるとようやく人心地がついた気がした。
「ごめんなさい。淳平君。でもね、君とのキスは素敵だったよ。」
彼は喉を振るわせる心地よい笑い声を立て、僕は彼を笑わせられた事にホッと安堵して、彼を自分から抱きしめた。
彼の頭は僕に抱えられて僕の左肩上にあり、僕の目の前は視界が開けた。
そこで見えた風景が、僕の心臓を止める程の衝撃を与えたのである。
あの時の、僕が拷問された時の、思い出したくもない記憶の中の男がいた。
白いスーツ姿のその男は、ガラス戸を開け離したバスルームに佇んでいた。
楊の姿をあの日と同じように纏ったその男は、彼の姿に凍り付いた僕ににっこりと微笑んで、口元に左手の人差し指を当てた。
楊の姿をしたこの男の左人差し指が真っ赤なのは、山口がダイゴに噛まれた場所と同じ場所から血が滴っているからだ。
あれは本当に起きた出来事で、山口は記憶操作されている?
「クロト、本当にごめん。俺が不甲斐ないから、君を傷つけてしまった。ダイゴは大丈夫だよ。あいつは絶対に大丈夫。」
山口のセリフが男にはツボだったらしく、先程よりも深い微笑を顔に刻んだが、彼の左人差し指はそのままだ。
いいや、共感力のない僕に眼つきだけで語っている。
シーだ。
「淳平君、帰りましょう。ねぇ、ここからすぐに帰りましょう。」
僕は帰りたいと騒ぎながら、山口が行動を起こせない位に強く強く抱きしめていた。
それはとてもとても怖かったからだ。
楊そっくりな目の前の男が、僕を殺しかけた事があるあの男だからというだけでなく、僕には彼の素性どころか、彼のことが何一つ全く見通せないのである。
それは、僕よりも上位の力をそいつが持つという事実そのものであり、彼がその気になれば僕達はひとたまりも無いであろうと僕は本気で脅えているのだ。
あぁ、男の左腕から映像の逆回転のようにみるみると赤い血が引いていき、いつの間にか真っ赤な袖口までも白く、染み一つない真っ新な状態に戻った。
「あぁ。」
「クロト?」
「あぁ!」
散々に僕を脅しておいて僕を完全に怯えさせた男は、口に当てていた指を四本にして僕に投げキッスをするや、その忌まわしい姿をパッと消した。