あおてんもく事務所にて
男は与えられた仕事にウンザリしていた。
ブラインドの隙間から注ぐ太陽光をストライプ模様に浴びている男は、整っていると言えなくもない強面の顔にがっしりとした体格を持つ長身の男である。
大柄な体の割には体の動きが滑らかでしなやかなのは、男が武道を幼少時から嗜んでいるからであろう。
そんな強面の顔をした男が黒いシャツを纏い、シャツの裾をグレーのスラックスから出している姿は、表の看板にある「あおてんもく探偵社」という社名の業種の従事者として相応しいといってもよい。
その強面の男は見た目的には余裕綽々の雰囲気を出してはいるが、実際の彼の内心は負け犬と自分を罵る声で一杯であり、それでも彼は生きて行く糧のために言うがまま仕事を請け、今日という期日までに何とかこなして、彼の自宅であり事務所にクライアントを迎えているところであるのだ。
彼の心の内を知ってか知らずか、事務所の黒皮を張られたソファにクライアントは悠然と座っていた。
否、座っているというのは御幣がある。
その男は優雅にソファに転がっているのである。
平均身長程度の細身の体にしては長い足を投げ出して、嫌味なほどに我が物顔で事務所に居座っているのだ。
それも仕方が無いと彼は苛立ちを抑えた。
彼の事務所兼自宅も、それどころか彼が乗り回している高級外車も、このクライアントが彼に与えたものだからだ。
彼は目の前の男の子飼いの調査員でしかない。
看板に「あおてんもく」とあるが、彼の本名である青天目は「なばため」という読みであるのに、敢えて「あおてんもく探偵事務所」と掲げているのはこの男の悪戯だ。
あ行の名前の方が依頼者が探偵を電話帳で調べる時に有利だからと言っていたが、絶対に自分に対する嫌がらせだと彼は確信している。
あに拘るなら青空でも良いのだし、何よりも、今時電話帳で探偵を調べる人間などいないからだ。
彼自身ここ数年は電話帳など、それ自体も目にした覚えがない。
しかしこの男は大事なパトロンなのだと、彼は諦めを持って受け入れている。
嘘吐きで気分屋の老人、それも大金持ちになら従うのが正しい行為だからだ。
気分屋のクライアントに頼まれた報告書の中身は、反吐が出るものでしかなかった。
贈賄という汚職で家族を惨殺された過去を持っている自分に他人を断罪する資格など無い筈だと彼は自嘲するが、それでも、彼は報告に纏めた数人、特にその反吐の出る行為を取りまとめている人物を許しがたく思っているのである。
これは自分が以前は警察組織の人間だったものとは関係ない。
不条理な暴力を受ける被害者の話に、人間である限り怒りを持たずにいられないだけだ。
おそらく目の前のクライアントは彼らを断罪するつもりなのだろう、と彼はぼんやりとした希望も抱きつつ、クライアントに報告書と淹れたばかりのコーヒーを差し出した。
「どうぞ。」
「なかなか上手くなったね。よしよし。」
ほくほく顔で彼の報告書を受け取った男は、彼がその報告書に費やした一ヶ月など何の足しにならないという風に、受け取った書類を一顧だにもせずに読み飽きた雑誌のようにティーテーブルにどさっと放り投げた。
その代わりに、彼が差し出したコーヒーカップを大事そうに手に取ったのだ。
「青天目君は覚えが早いから好きだよ。」
数分掛けて淹れたコーヒーよりも一ヶ月の苦労を労って欲しいと思いながら、青天目当麻は自分の中で目の前の男に褒められたことを喜ぶ自分がいる事に気づいていた。
これでは本当に奴隷ではないか、と自分自身に驚いた青天目は目の前の男を見返した。
白に近いクリーム色の三つ揃いのスーツを着て、ボタンを掛けない上着からビーズと刺繍で煌びやかなベストが覗く。
オールバックに流した豊かな髪は白銀で、少々皺のある老けた顔から彼は相当な年齢にも見え、しかしながら若い俳優が老人のメイクをした様でもある。
彼は輝くオーラを纏った貴公子然として、いつの間にか見惚れてしまっている青天目の視線に「分かっているよ。」という目線で返してきた。
「あなたに会う度に物凄い脱力感と、そしてなぜか思い出せない誰かに似ているといつも思うのはどうしてでしょうか?」
男は答えずに鼻で笑い飛ばした。印象的な彫の深い二重の瞳は意地悪そうにキラリと輝き、青天目に奴隷の立場を思い知らせるだけだ。
青天目が自分を奴隷だと考えるのは、白い男が青天目に生活を与えただけでなく命さえも与えてくれたからである。