死んだノラ猫の町
枯れ葉が舞う十月の終わり。
銀のお盆のような満月が、海に陸にまんべんなく光を降り注いでいます。
ここは港町の海岸近くの公園。
源二さんはなにやらもの思いに沈み、先ほどから片隅にあるベンチでつくねんとしていました。
――どうしたもんかな。
ため息をつき、天をあおいだとき、
――うん?
ふと、源二さんは我に返りました。自分の名前を呼ぶ声が足もとでしたのです。
「おう、ハチ助じゃねえか」
そこにはよく見知った猫がいました。
毛並みは白と黒のまだら、鼻の頭がピンク。源二さんがハチ助と呼んでいる若いノラ猫です。
ハチ助と会うのはひさしぶりのこと。ひと月ほど前から、とんと姿を見せなくなっていました。
「どうしたんです? そんなにふさぎこんで」
「近ごろ、どうも商売がな」
源二さんはなんとはなしに答えてから、あらためてハチ助を見たのでした。
「オマエ、いつからしゃべれるように……」
「あっちの町に行ってからです」
「あっちの町だって?」
「わたしら、死んだノラ猫の町です」
「なんと、そんな猫の町があるのか。だがどこへ行こうと、言葉をしゃべれるとはたいしたもんだ」
ふむふむとうなずき、源二さんはたいそう感心していましたが、はたとハチ助の顔を見ました。
「死んだノラ猫だって? じゃあ、オマエ……死んじまったのか?」
「先月、車にはねられましてね」
「そいつは知らなかったなあ。で、それがどうしてここにいるんだ?」
「昔の仲間に、ちょっくら用がありましてね。ついさっき、こっちの町にやってきたんです。ところがたまたまここで、源二さんのさびしそうな姿をお見かけしたもんですから」
「で、わざわざ声をかけてくれたのか」
「はい、つい気になりまして。こんな夜ふけに、しかも深刻な顔で……」
源二さんの沈んだようすは、ハチ助にもひと目でわかったようです。
「近ごろ、お客がへってな。さっぱり魚が売れなくなっちまったんだ」
「それはまた、どうしてなんです? 魚丸、あんなに繁盛してたのに」
「三カ月ほど前、うちの近くに大きなスーパーが開店しただろう。そこにな、お客をみんなとられちまったんだよ」
「じゃあ、魚丸はどうなるんです?」
「このままじゃ、そのうち閉めることになっちまうだろうな」
「そんなあ!」
ハチ助がヒゲをピクピクふるわせます。
「やれることはみんなやってみたんだ。それでもうまくいかなくてな」
つい先日も、広告会社を使って新聞にチラシを入れてみました。けれどいっこうに、客足は店にもどってこなかったのです。
「そういうことであれば、わたしらにおまかせください。もとどおり、お客をふやしてみせますよ」
「オマエたちが?」
「こちらにいるときは、たいそう源二さんにお世話になりましたからね。それに、地上にいる仲間のためにもですね」
ハチ助の言うとおりでした。
源二さんは売れ残った魚を捨てないで、公園に集まるノラ猫たちにいつも与えていたのです。
「わたしらの町には、とれたての魚が山ほどあるんです。それを店に並べたら、お客さんはきっともどってきますよ」
「なるほどなあ。でもほんとに、そんなことができるのか?」
「もちろんです。なんでしたらこれから、わたしらの町に遊びに来ませんか。ちょうど今晩、海のお祭りがあってますので」
「海のお祭りか……。そうだな、気晴らしに行ってみるかな」
「みんなもよろこびますよ」
「ところで、その町ってのはどこにあるんだ?」
「この公園と今の海の間にあるんです。水も空気もきれいな、そりゃあとてもいい町ですよ」
「そうかい、そんな近くになあ」
「では源二さん、これから案内しますので、わたしについてきてください」
ハチ助が噴水の方へと歩き始めます。
噴水のほとばしる水しぶきが、月明かりに反射してキラキラと輝いていました。
噴水の裏には共同溝のマンホールがありました。
ふたが少しずれて、猫が通れるほどのすき間ができています。
「源二さん、ここから入ります」
ハチ助がスルリと飛びこみました。
――こんなところを通っていくのか……。
源二さんはふたをさらにずらして、入れるすき間を大きくしました。それから鉄のハシゴに足をかけながら降り、穴の底におり立ちました。
穴の深さは背たけにちょっと足したほど。壁には水道管、電話や電気のケーブルといったものがはりついています。
「ふたを閉めてもらえませんか?」
ハチ助に言われ、源二さんは下から持ち上げるようにして、マンホールのふたをもとにもどしました。
穴の中が真っ暗になります。
「なにも見えんぞ。ハチ助、どこにいるんだ?」
「こっちです。じきに明るくなりますので」
それからはずっと、先を歩くハチ助が声を出しながら道先案内をしてくれました。
闇の中。
ハチ助の声をたよりに十分ほども歩いたでしょうか。
ガチャッ、ガチャッ。
金属音がして、ちょっと先の壁がほのかに明るくなりました。
「ここがわたしらの町の入り口です」
ハチ助が鉄の扉を開けて待っています。
――ここから地上に出るんなら、うちの店にあんがい近いのかもしれんな。
源二さんが扉から顔を出してのぞくと、遠くない場所に松林の防風林が見えました。
――うん? どこかで見たことがあるぞ。
なぜだかその風景が、源二さんにはとてもなつかしく思われたのでした。
空に白い月が見えました。
「ここがわたしらの町です。なかなかすばらしいところでしょう」
ハチ助がじまんげに言います。
「なあ、ハチ助。そんなに歩いた気はせんのだが、ここは魚丸から遠いのか?」
「いえ、すぐ近くですよ。でも地面の下ですから、まったく別の場所なんですがね」
ハチ助は扉を閉め、それから源二さんをせかせるように言いました。
「この扉が開くのは夜明けまでなんで、それまでにもどらないと。さあ、早く行きましょう」
涼しい風に潮の香りがほのかにしました。
源二さんはハチ助のあとについて歩きました。
松林のそばまでやって来ると、潮の香りがいちだんと強くなりました。
「近くに海があるようだが?」
「はい。そこの松林のすぐ先が海でして、港もあります。お祭りはそこでやってるんです」
「なあ、ハチ助。さっき、ここは地面の下だと言っておったが、なんで月が出ていたり、松林や海があるんだ?」
「子どものころを思い出してみてください」
「子どものころだと?」
「ほら、あの松林だって」
「そうか、思い出したぞ。海が埋め立てられる前、ワシらの町もこうだったんだ」
当時は源二さんの家からも、松林が遠くに見えていたのです。その松の木も海岸の埋め立てで、一本残らず切り倒されてしまったのですが……。
今では海と浜辺はすっかりなくなり、埋立地には工場が立ち並んでいます。松林だったところには道路が走り、数え切れないほどの家やビルが建ちました。
先ほどの公園もそのときにできたのです。
「埋立地の下に、昔のままの海や松林が残っていたとはなあ」
まわりの景色に目をうばわれているうち、潮風に乗って、なつかしい太鼓の音が聞こえてきました。
松林を抜けると、そこには海が広がっていました。
よせる波が心地よい音をたてています。
「あそこでお祭りがあってるんです」
ハチ助が指さす先、そこには小さいながら石垣の防波堤と港があり、大漁旗を飾った漁船がより集まっていました。さらに灯りのともった提灯がいくつも下がっています。
ハッピ姿のノラ猫たちの姿もありました。
――こいつはおどろいたな。
源二さんは大きく息をのみました。
海岸が埋め立てられてから、いつしか地上ではお祭りが消えてしまいました。それがここでは、死んだノラ猫たちによって、今もなお続けられていたのです。
「おーい、源二さんが来たぞー」
ハチ助が港に向かって大声で叫びました。
「源二さんだ!」
「源二さんだぞー」
口々に叫びながら、ノラ猫たちがこぞって走りよってきました。
どのノラ猫も、死んでいるということがうそのようで、毛なみがビロードのように輝いています。
「おー、みんなここにいたのか」
源二さんはノラ猫たち一匹一匹の顔を見て、そのなつかしさに目を細めたのでした。
防波堤の上には、海の料理がふんだんに並べられていました。
お祭りの間。
見覚えのある顔が次から次にやってきました。
源二さんは海の幸をいただきながら、ノラ猫たちと昔話に花を咲かせたのでした。
やわらかな潮風のなか。
それぞれの提灯で、ローソクの炎がチラチラとゆれていました。
東の空がにわかに白み始めました。
「夜が明けてしまうと、扉が開かなくなってしまいます。源二さん、そろそろ出かけましょう」
ハチ助が帰りを告げます。
「おう、そうだったな」
「店に並べる魚は、あちらに用意しております。どうか、ご安心を」
「そいつはすまん。楽しかったもんで、かんじんなことを忘れておった」
「みんなあ、源二さんが帰るぞー」
ハチ助が声をかけると、十匹ほどのノラ猫たちがトロ箱をかかえて集まってきました。
「こいつはすげえや」
源二さんはおどろきの声をあげました。
トロ箱は魚であふれんばかりです。
さらにそれには、サザエや海草といったものまで入っていました。それも、とれたての新鮮なものばかりです。
「どこの市場に行ったって、これだけの仕入れ、とてもじゃないができねえ」
「こちらの海では、いつだってこんなにたくさんとれるんですよ」
ハチ助が、ずらりと並んだトロ箱を指さします。
「ワシらの海も、昔はそうだったんだがなあ。みんな埋め立てられちまったからな」
「ここには昔のままの海があります。毎日、これと同じくらいお届けできますので」
「いいのかい、毎日こんなに」
「もちろんです。みんな、源二さんに恩返しするんだって、はりきっていますからね」
源二さんとの別れをおしむように、港にいたノラ猫たちがぞくぞくと集まってきました。
「みんな、ありがとう。ほんとにありがとうな」
ノラ猫たちの顔が涙でにじみます。
源二さんは港を出発しました。
ハチ助とトロ箱をかかえたノラ猫たちがあとに続きます。
「源二さーん、いつまでもお元気でー」
「また来てくださいよー」
ノラ猫たちの見送りの声に……。
何度も何度もふり返りながら、源二さんは港をあとにしたのでした。
夜明け前。
源二さんたちは、死んだノラ猫の町から共同溝に入りました。
公園のマンホールまで来ると、
「お届けできるのはここまでです。ここから先に行けるのは、お祭りの夜だけなものですから」
ハチ助が申しわけなさそうに言います。
「ああ、あとは自分でやる。みんな、すまんな」
「では、また明日の夜明け前に」
魚の入ったトロ箱を残し、ハチ助たちは死んだノラ猫の町に帰っていきました。
源二さんはハシゴを登り、マンホールのふたを大きくずらしました。
月の光がマンホールに射しこみます。
夜明け前の東の空には、スリガラス色の薄い満月が残っていました。
毎朝。
死んだノラ猫の町から、新鮮な海の幸がふんだんに届けられました。
ひと月が過ぎるころ。
魚丸は以前のようにお客がもどっていました。
いえ、それ以上の繁盛でした。
そんな、ある日。
ハチ助たちと別れる決心をして、源二さんは夜明け前の公園にやってきました。
「世話になったな。でも、今日で最後だ。明日からは届けなくてもいいぞ」
「魚丸、だいじょうぶなんですか?」
「ああ、もう安心だ。で、こいつはワシからの心ばかりのお礼だ。オマエたちのハッピ、ずいぶん古くなっていたんでな」
源二さんは用意をしていたダンボール箱をハチ助たちに渡しました。
それには真新しい祭りのハッピが入っており、白地に紅花の明るい赤と、草色の深い緑の二色で染められていました。
死んだノラ猫たちに会う。
それは、今日が最後。
源二さんは涙があふれて止まりませんでした。
鮮魚店魚丸は、今も魚が売りきれるほど忙しい毎日です。
しかし……。
どんなに売りきれそうになっても、源二さんは何匹かの魚をかならず残しておきました。
公園に集まるノラ猫たちのために……。