狐の赤いハイヒール
桜の花がほころび始めた三川村。
川の両側には田んぼや畑が広がり、林の緑にそって民家がちらほらとあります。
暖かな昼下がり。
ビニールハウスの並ぶ細い農道を、車体に三川村農協と記された軽トラックが走っています。
軽トラックはハウスの間を抜けると、やがて一軒の農家の前で止まりました。
「農協でーす」
淳太郎さんは庭先に向かって呼びかけました。
肥料の配達に来たのです。
「やあ、こんにちは」
庭の奥にある倉庫から、川野さんが腰を伸ばし伸ばし顔を出しました。
「たのまれていた肥料を届けにまいりました」
「すまんが、こっちに運んでくれるかな」
「いいですよ」
軽トラックの荷台から、淳太郎さんは十袋ほどの肥料を倉庫へと移していきます。それが一段落したところで、川野さんが淳太郎さんに声をかけました。
「農協に勤めて、もう何年になる?」
「まる三年です」
「それで、まだ本雇いにならんのかね?」
「ええ、農協も経営がなかなかきびしいらしくて。それで通勤、いまだに自転車なんです」
大学を卒業後。
三川村にもどって農協に勤め始めたのですが、淳太郎さんは今も給料の少ない臨時雇いなのです。
庭先に咲いた菜の花が、春の風にゆらゆらとゆれていました。
月明かりのもと。
畑と雑木林にはさまれた狭い道路を、一台の自転車がふらふらしながら走っています。
家に帰るとちゅうの淳太郎さんです。
じつはつい先ほどまで、農協の先輩たちといっしょに花見をしていました。たっぷりお酒を飲まされ、ずいぶん酔っぱらっているのです。
道路はくねくねとしたカーブだらけ。それでもなんとか倒れもせず、畑に落ちもせず、ここまでやってきました。
家まであとひと息というときでした。
「あのー、すみません」
道路ばたの薄闇から女の人の声がします。
淳太郎さんはあわてて自転車を止め、声のした方に目をこらしました。すると道路のはしの暗がりに、若い女性がなぜだか座りこんでいました。
「どうしました?」
「カカトがとれちゃったんです」
女の人が手にした片方の靴を見せます。
それはエナメルの赤いハイヒールでした。
「ほんとだ、根っこからおれてますね。それでは歩けないでしょう」
「ええ。だから車でも来ないかと、ずっと待ってたんですけど……」
「こんなに夜遅くじゃ、ここは車なんかめったに通りません。それで、駅の方に行かれてたんですか?」
「いいえ、駅からこちらに」
「なら、方向がボクと同じだ。よろしければ、うしろに乗りませんか。送っていきますよ」
「じゃあ、乗せてもらおうかしら」
女の人は立ち上がると、自転車の荷台にちょこんとおしりを乗せました。
「靴、ここに入れておきますので」
前のカゴにハイヒールを入れ、淳太郎さんは自転車をこぎ始めたのでした。
赤いハイヒールは月の光に照らされ、いっそう赤く見えました。
二人を乗せた自転車は、右に左に何度もよろけそうになりながら、それでもなんとかのろのろと前に進んでいました。
「今晩はどちらに?」
「わたし、家に帰るところなんです」
「えっ、そうなんですか?」
淳太郎さんは女性に見覚えがなく、よその町から来た人だと、てっきり思いこんでいたのです。
「でも、何年ぶりかしら。急用があるからって、父さんから連絡があったものですから」
長いこと、女の人は村を離れていたようです。
――女の人って、ずいぶん変わるそうだからな。それにしても、どこのうちの人だっけ?
本人に聞くのもはばかられ、淳太郎さんはなんとか思い出そうとしましたが、どこのだれなのかどうしてもわかりません。
「あのー、どちらのお宅でしたかね?」
「ほら、農協の組合長さんのおうちがあるでしょ。あのすぐ近くなの」
それを聞いても……。
女の人のことはおろか、そこらに家があることすら思い出せません。
――飲みすぎたかな。
淳太郎さんは二度三度と頭をふったのでした。
赤い月は黒々とした雑木林の真上にありました。
道路がゆるやかな上り坂となり、この坂を越えたところに組合長の家はあります。
淳太郎さんはもくもくとペダルを踏んでいました。
ハァー、ハァー。
呼吸が荒く、そして短くなります。
自転車はふらふらよろよろしながら、ゆっくりゆっくり坂道をのぼってゆきました。
やっとこさ上り坂を越え、自転車がなだらかなくだり坂を走り始めました。まわりが暗いせいか、家らしきものはいっこうに見えません。
――まあ、行けばわかるだろう。
淳太郎さんはとにかく、組合長の家のそばまで行ってみることにしました。
組合長の家のすぐそばまでやってきました。
屋敷は石垣がある分だけ、道路から見上げる高さにありました。すでに寝ているのか、窓の明かりはすべて消えていました。
淳太郎さんは組合長の家をあおぎ見て、とりあえずそこでいったん自転車を止めました。
「ここだわ」
女の人がうれしそうな声をあげます。
だけど、そこらにほかの家はありませんでした。左側は組合長の屋敷の石垣、右側はうっそうとした竹やぶが続いています。
「ありがとうございました」
女の人が荷台から降りて、頭を下げたまさにそのときです。
「おう、帰ってきたか」
低い声がして、暗い竹やぶのあたりがカサカサと音をたてました。
竹やぶの奥に家があるなんて、淳太郎さんにはまったく覚えがありません。
――まさかこんなところに?
首をひねって女の人に確かめようとしました。
ところが……。
今の今までそばにいた女の人がいません。かわりに一匹の狐がいて、しかもその狐が口をききました。
「父さんよ」
「そっ、そんな……」
もうびっくりです。
酔いと疲れがどっと押しよせてきて、淳太郎さんはそのまま道の脇でのびてしまったのでした。
そこには二匹の狐がいました。
「父さん、この人どうしようかしら?」
「ほっとけばいい、そのうち目をさますだろ。それよりオマエにさっそくたのみがある」
「そんなに急ぐことなの?」
「ああ、早い方がいい。じつは組合長さんのことなんだが、ここ三日ほどとんと顔を見せねえ。ワシと同じでひとり暮しなんで、心配で心配でな。ようすを見に行ってほしいんじゃ」
「それって、父さんじゃダメなの?」
「ワシは年老いちまった。足も腰もボロボロで、今では化けることもままならん」
「えっ?」
娘狐はおもわず父親狐の顔を見ました。
まさか父親がそんなに弱っていたとは、これまで一度だって考えたことがなかったのです。
「最近はやっと歩いておる」
「そうだったの……」
「ちょうどいい、コイツに化けろ。たまに組合長さんの家に来るんで、あやしまれることもなかろう」
「わかった、すぐに行ってみるわ」
娘狐がクルンと宙返りをします。
するとそこには、もうひとりの淳太郎さんがいたのでした。
それからほどなくして……。
一台の車が組合長の屋敷から降りてきました。
運転しているのは、淳太郎さん――いえ淳太郎さんに化けた娘狐です。
「たいへんよ! 組合長さん、倒れてたわ」
娘狐が車の窓から叫びます。
「なんじゃと!」
父親狐が車の中をのぞきこむと、うしろの座席で組合長は横たわっていました。意識がないのか、目は閉じられ、体はぐったりしています。
「わたし、これから病院へ」
娘狐はすぐに車をスタートさせました。
テールランプの明かりが小さくなり、遠い闇の中に赤い点となって消えてゆきます。
夜明け前。
森が白い朝もやを吐き出すたびに、あたりはしだいに明るくなっていきました。
竹やぶの奥で話し声がします。
「組合長さんには、長い間ずっと世話になってきたからな。恩返しができてなによりじゃ」
「よかったわね、父さん」
「よかった、よかった」
父親狐は何度もうなずき、自分のことのようによろこびました。
「わたし、もう町にはもどらないわ」
娘狐が神妙な顔になって言います。
「どうしたというんじゃ。オマエ、町の暮しが気に入ってたんだろう」
「心配なの、父さんのこと。組合長さんみたいに、いつ倒れるかもしれないし……。もう決めたの」
娘狐がポロポロと涙をこぼします。
父親狐は胸がいっぱいになり、そしてやはりポロポロと涙をこぼしたのでした。
山鳥たちがさえずり始めました。
――なんでこんなところに?
目をさました淳太郎さんは、なぜか道路のはしの草むらに寝ていました。シャツもズボンも朝露でしっとりぬれています。
――そうだ! 女の人が狐に……。
淳太郎さんは夕べのことを思い出しました。
――たしか竹やぶにもうひとりいて……。あの人、父さんだって言ってたな。
道路にそって調べると、竹やぶに入る細い道がありました。その道を奥に向かって、露でぬれた青笹をかき分けながら進み入ります。
――これかも……。
十メートルほども入ったでしょうか、淳太郎さんはそこで小さなほこらを見つけたのでした。
――まちがいないな。
それはお稲荷様でした。
ほこらの中には二匹の石の狐が並んで鎮座していました。一匹はがっしりとして、もう一匹はスラリとしています。
――そうだ、かかとのとれた靴が……。
淳太郎さんは自転車に引き返し、赤いハイヒールを手にもどってくると、ほこらの中に置きました。
「これ、とりあえずお返しします」
三川村農協。
朝一番、淳太郎さんは課長の席に呼ばれました。
「夕べは、ごくろうだったな」
課長がねぎらうように言います。
「えっ?」
淳太郎さんには、なんのことだかさっぱりわかりません。
「組合長、三日前から休んでるだろう」
「はい、体調が悪いって」
「娘さんから、ついさっき連絡があったんだ」
「智子さんからですか?」
組合長の娘さん、智子さんとは幼なじみで、淳太郎さんもよく知っています。それに今、智子さんが近くの町に住んでいることもです。
「おちついたらきみの家に、あらためてお礼にまいりますってさ」
お礼だと言われてもピンときません。
淳太郎さんは首をかしげました。
「お礼って?」
「今日のところはとりあえず、電話でということなんだろう」
「それがどうしてボクに?」
「だから組合長のことでだよ。娘さん、病院から連絡を受けて、あわててかけつけたそうだ」
「病院って? 組合長、どうかしたんですか?」
「自宅で倒れていたのを、きみが助けて運んだそうじゃないか」
「ボクが?」
淳太郎さんはおどろきました。
ますますちんぷんかんぷんなのです。
「そうだよ、きみが車で病院に……。そうじゃないのか?」
「夕べは病院なんて行ってませんが」
「じゃあ、きみじゃなかったのかな。娘さんは、きみだと言っておったが……」
課長がけげんそうな顔をします。
「智子さんなら、ボクもよく知ってますが、夕べは会っていません。それに組合長にも」
「じゃあ、娘さんの思いちがいかな?」
「課長もよくご存知でしょう。ボク、夕べは花見でへべれけに酔ってたんです。そんなことができるはずありません」
「じゃあ、だれだったんだろうな?」
「ただ花見の帰り、女の人に呼びとめられまして。それでボク、自転車のうしろに乗っけてですね、組合長の家のそばまで送ってあげたんです。それが着いたとたん、その人がいきなり狐になって……」
「女の人が狐に?」
「はい、そうなんです」
「その狐がきみに化けて、組合長を病院に運んだとでも。それも車を運転してか?」
課長が大声で笑い出しました。
二人の話を聞いていた近くの席の者たちも、みなが声をあげて笑いました。
――こんな話、だれも信じないだろうな。
淳太郎さんはうつむくようにして、すごすごと自分の席にもどったのでした。
淳太郎さんはめでたく、三川村農協の正職員として採用されました。病気で退職した組合長が、一名抜けた分として推薦してくれたのです。
車も買うことができました。
助手席にはときどき智子さんが乗っています。入院している組合長にかわって、二人でお稲荷様の世話をしていたのです。
そして……。
お稲荷様のほこらには、かかとが修理された狐の赤いハイヒールがありました。