ミツバチのふるさと
春一番が吹きぬけた三月なかば。
灰色の雲が地上近くまでたれこめています。
この日は午後になっても、いっこうに暖かくなりませんでした。
街角にあるコスモス堂。
今、店番をしているのは店員の優子さん一人。主人とおかみさんは用があって、一時間ほど前に外出していたのでした。
――どうしようかな?
さきほどから優子さんは、あれこれ花を手に取っては元にもどしていました。
三十分ほど前のこと。
『合格祝いの花束をお願いします。値段はおまかせしますので、今日じゅうに届けてください』
こんな電話注文を受けたのですが、値段はいくらのものにしようかと、優子さんはずっと迷っていたのです。
そうこうしていると……。
「ダメじゃない、レジをほうりぱなしで。お金がなくなったらどうするの!」
いつのまに帰ってきたのか、背後におかみさんが立っていました。
「ところでなにしてんの? お客もいないのに花束なんか作っちゃって」
「電話の注文があったものですから」
「そうなの。それで、いくらのだい?」
「値段はまかせますって」
「あきれた子だよ。それじゃあセットしょうにも、できないじゃないの」
「すみません」
「じゃあ、できるだけ高くセットするんだね」
「でも、あまり高くても……」
電話の声は高校生くらいの女の子でした。高すぎては悪いような気がしたのです。
「かまうもんか。うちはね、もうかりさえすればいいんだから。ところでそのお客、いつ店に受け取りにくるって?」
「配達してほしいそうです。届け先は、すぐそこの山田さんのお宅です」
「で、代金はいつもらうんだい? お客様の住所と名前、ちゃんと聞いてあるんだろうね」
「それが、うっかり聞き忘れて……」
「バカだねえ、そんなだいじなことを」
「代金は、あとで店に持ってくるそうです」
「まあいいわ。でも代金、その客が払ってくれなかったら、あんたの給料からさし引くよ。だって、あんたが悪いんだからね」
おかみさんはまくしたてるように言ってから、そそくさと店の奥に姿を消しました。
いっとき迷ったあげく……。
優子さんは三千円の花束をセットして、配達のため山田さん宅へ向かったのでした。
外はいつしか雪が舞っていました。
空は暮れかかり、通りの街灯は早やばやと明かりを灯していました。
コスモス堂のショーウィンドウも、コスモスの花のイルミネーションが色鮮やかに点滅しています。
「入り口のところ、もっとかたづけてちょうだい。お客さんが入りにくいでしょ」
「はい、すぐにやります」
おかみさんに言われたとおりに、優子さんはチューリップの束を入り口から店の奥へと移しました。
「ダメじゃない、そんなすみっこに置いたら。もっとめだつところに置かなきゃあ。今、一番売れてるんだからね」
「すみません、ちっとも気がつかなくて」
「いいわ、わたしがやるから」
優子さんを押しのけ、チューリップの束を持ったおかみさんでしたが……。
「あっ!」
すぐに短い悲鳴をあげました。
花の束から、ハチが飛び出してゆきます。
――こんなところにどうして?
そんなことを考えながら、優子さんは逃げてゆくハチを目で追っていました。
「あんたがちゃんとしてないから、ハチが店に入ってきたんでしょ」
「すみません」
「お客さんにもしものことがあったら、いったいどうしてくれるのよ」
怒りをぶつけてくるおかみさんに、
「すみません……」
小さくなって耐えるばかりの優子さんでした。
闇が街をすっぽりつつみこみます。
街灯の明かりに、雪がそのひと粒ひと粒を浮かびあがらせながら落ちていました。
コスモス堂は閉店の時間。
コスモスの花のイルミネーションが消え、店じまいが始まります。
優子さんは店先に並べてあった花の植木鉢を店内に取りこんでいきました。
その植木鉢にも、うっすら雪がつもっています。
それは最後の植木鉢をかかえたときでした。
「おねがい」
声が耳もとをかすめます。
――えっ?
優子さんはおもわずふり返りました。
そこには店の飾り窓があるばかりで、背後を人が通りすぎたふうもありません。
「ほら、ここだよ」
また、かぼそい声が聞こえました。
声のした飾り窓に目をこらすと、豆粒ほどのミツバチがはりつくようにとまっています。
――まさか……。
優子さんは首をかしげながら、確かめるようにミツバチに顔を近づけました。
「もしかして、あなたが話してるの?」
「そうだよ」
ミツバチが羽音を鳴らします。
――ミツバチの声が聞こえるなんて……。
優子さんはうれしくなって、ついそのミツバチに話しかけていました。
「あなた、さっきうちの店にいたでしょ」
「うん。でも逃げ出したんだ」
「おかみさん、とってもこわいからね。それで、わたしになんの用かしら?」
「あったかいところに連れてってほしいんだ。だってここ、とっても寒いんだもん」
「わかったわ。ちょっと待っててくれる?」
優子さんは店内に入り、一本のチューリップを手にもどってくると、ミツバチの前に花のつぼみをさし出したのでした。
アパートの窓のひとつに明かりが灯ります。
優子さんはコップに水を入れ、ミツバチの入ったチューリップをさしかけました。
「出てもだいじょうぶよ。ここって、わたしの部屋だから」
「寒くて体が動かないんだ」
つぼみの中から元気のない声が返ってきます。
「もうちょっとのしんぼうよ。すぐに暖かくしてあげるからね」
さっそくストーブに火をつけました。それから炎が広がるのを待って、その前にチューリップをさしたコップを置いてやりました。
ですが、それからも……。
ミツバチはつぼみに入ったままでした。花びらにしがみつき、ちょっとも動きません。
――だいじょうぶかしら?
優子さんは夕食をとることも忘れ、ひたすらミツバチを見守っていたのでした。
部屋が暖まったころ。
「ボク、帰りたい」
ミツバチが羽をふるわせ、ぽつりと言いました。
「帰りたいって、どこに?」
「ボクが生まれたところ。そこって、友だちがたくさんいるんだもん」
「そこって、どんなところかしら? 場所さえわかれば連れてってあげられるかも」
「高い山があってね、きれいな川が流れてるの。広い畑には、あったかい家がたくさんあったよ」
「ずいぶん田舎みたいね」
「みんな、三川村って呼んでたけど」
「えっ? その名前なら知ってるわ」
お店の花が三川村産だと、前に主人から聞かされていたのです。
「あなた、チューリップといっしょに、うちのお店にやってきたのよ。あったかい家って、お花を育てるビニールハウスなんだわ」
「ボク、帰れるの?」
「ええ、もちろんよ。お店が休みのとき、そこに連れてってあげる」
ほんとは、あしたにでも連れていってやりたい。しかし定休日以外に休むことを、おかみさんはひどくきらっているのです。
「きっとだよ」
ミツバチは黄金色のうぶ毛をふるわせ、それっきりしゃべらなくなりました。
――寒くてつらいんだわ。あした、連れてってやろうかしら。
優子さんは休みのことを、主人の方にお願いしてみようと思いました。
次の日の朝。
雪はやんでいましたが、空はかわらず鉛色の雲でおおわれていました。
優子さんは早くに起きて、ストーブの火で部屋を暖めました。
ミツバチは少しも動きません。
アパートを出るときも眠っていました。
店に着くと……。
さっそく優子さんは、三川村の場所を主人に教えてもらいました。
三川村は電車で二時間ほど。
それぐらいの距離なら、今日のうちに行って帰ってこれます。
「今日、お休みをいただけないでしょうか?」
「ぐあいでも悪いのかい?」
「そうではないんですが……」
ミツバチを三川村に連れていくなんて、そんなことはとても口に出せません。優子さんはなにも言わず頭を下げたのでした。
「わたしはいっこうにかまわんが、ただアレがなんと言うか……」
おかみさんの方をチラリとうかがい見てから、主人は顔をしかめてみせました。
二人の話が聞こえていたのか、
「ダメよ! ズル休みに決まってるんだからね」
おかみさんのとがった声が返ってきます。
「すまんな、そういうことだから」
主人は背を向けて、すごすごと開店のしたくにとりかかってしまいました。
「どうかお願いします」
優子さんは向き直り、今度はおかみさんに頭を深く下げました。
「そんなに休みたいんなら、あんたの好きにしていいよ。でもね、そんときはクビを覚悟するんだね」
おかみさんが意地悪く笑います。
優子さんは泣き出したいのをこらえ、その日の仕事にとりかかったのでした。
帰り道。
強い風が表通りを吹きぬけていました。
街路樹の細い枝が右に左にと、はじけるようにはげしくゆれています。
優子さんは大いそぎでアパートに帰りました。
チューリップのつぼみをのぞくと、ミツバチは眠っているのか、花びらの内側にしがみつくようにとまっていました。
「すぐに暖かくしてあげるからね」
まっ先にストーブに火を入れます。それから着がえもしないで、じっとミツバチを見ていました。
ミツバチはピクリとも動きません。
――眠ってるのかしら?
チューリップを軽くゆすると、ミツバチはちょっとだけ体を動かしました。
「ねえ、だいじょうぶ?」
「うん、眠いだけ」
「寒いの、日曜日までがまんできる?」
「うん……」
ミツバチはわずかにうなずくと、それからはしゃべることもなく眠ってしまいました。
その夜。
優子さんの部屋の明かりは、ひと晩じゅう消えることはありませんでした。
紺色の絵の具が水にうすまるように、少しずつ少しずつ窓の外が白んでゆきます。
明けがた。
うたた寝から目をさました優子さんは、すぐにチューリップのつぼみの中をのぞきました。
「どうして!」
思わず声をあげます。
つぼみの底、ミツバチがあお向けに転がっていたのです。黄金色のうぶ毛も、糸クズのような足も、かたまったようになっています。
――こんなことになるんなら、昨日のうちに連れていくんだった。
後悔の思いに胸がしめつけられ、この三年間のことが頭の中をよぎってゆきます。
高校卒業と同時に実家をはなれ、この町で暮らし始めたこと。子どものころからの夢がかなって、花屋で働き始めたこと。
おかみさんにしかられたときは、何度も店をやめようと思いました。それでもやめなかったのは、花と触れ合うことが大好きだったからです。
夜が明けるまで……。
これまでにない悲しい時間が流れました。
この朝。
優子さんは始発電車に乗っていました。
ミツバチのなきがらは、チューリップのつぼみといっしょに小さな箱の中。ずっと優子さんのひざの上にありました。
店を休むことは、三川村に着いてから電話を入れるつもりでした。
電話の向こう。
おかみさんの顔が目に浮かびます。おどろいて目をつり上げた顔です。
次の仕事を探すことになるでしょう。
大好きな花と離れた仕事になるかもしれません。
それでも後悔はしていませんでした。
車窓から、山なみが遠くに見えてきました。
そのふもとには、どこまでもどこまでも畑が広がっています。
――帰ってきたのよ。
優子さんはミツバチにささやきかけました。
ここちよい音をレールにひびかせながら、電車が川に架かった長い鉄橋を渡ります。
そこは三川村でした。
ミツバチの入った小箱を抱き、あるビニールハウスをたずねますと……。
新しい仕事が優子さんを待っていました。
ハウスの持ち主の川野さんという農家が、たまたま働いてくれる人を探していたのです。
そこはミツバチのふるさと。
ミツバチの生まれ育ったところでした。