ウサギのキグルミ
三月なかば、真冬にもどったような寒い日。
空は灰色の雲におおわれ、粉雪が風とおどるように舞っていました。
歩道や街路樹は、降りつもる雪で白くなり始めています。
ここは繁華街の一画。
バス停に路線バスが停まり、数人の乗客を吐き出しました。寒さのせいで、降りた者はみな首をすぼめています。
――うー、寒いなあ。
バスを降りた紘子さんは体をちぢめ、いそいで手にあるカサを開きました。それでも横風に乗って、カサの内に雪が吹きこんできます。
風に向かってカサをかたむけ、紘子さんは前かがみになって歩き始めました。
十歩ほど歩いたところで……。
ドスン。
なにかにぶつかり、紘子さんはおもわずしりもちをついてしまいました。
あわててカサを上げると、すぐ目の前にウサギのキグルミがいて、やはり同じようにしりもちをついていました。
「ゴメンなさい、ぼんやりしてたものだから」
キグルミから女の子のかぼそい声がします。
「わたしこそ、前をよく見てなかったの」
「あら、ビラが……」
二人の間にビラが散らばっており、女の子がそれをあわてて拾い始めました。
紘子さんも拾い集めにかかります。
ビラはすぐそばにある、紳士服店の宣伝用のチラシでした。
「ビラ配りしてたんだ」
「そう、バイトなの」
「通る人、雪が降って少ないからたいへんね」
紘子さんは拾ったビラを、ウサギのキグルミの手にのせてやりました。
「ありがとう」
ウサギのキグルミが立ち上がり、大きな頭をペコンと下げました。
長い耳がプランプランとゆれます。
それがおかしくて、紘子さんはつい笑ってしまいました。
「ふふふ……」
「うふふ」
女の子もつられたように笑います。
「わたしたち、ずっと前からの友だちみたい」
なぜかそのとき、紘子さんは不思議とそんな気がしたのでした。
「ええ、ほんとに!」
「わたしね、山田紘子っていうの」
「わたしは……」
女の子はもじもじしてから……。
「ウサギって、呼んでもらっていいかしら?」
キグルミのウサギ、そのままを名のったのでした。
「ええ、いいわ」
「紘子さん、今日はお買物?」
「ううん。ちょっと向こうに、ほら、天然温泉のお風呂屋さんがあるでしょ」
「ああ、それって亀の湯ね」
「そこに今から面接に行くの。従業員を募集してるって聞いたから。わたしもバイトしたいの」
「ねえ、紘子さん。もしよかったら、帰りに声をかけてくれないかしら」
女の子が紘子さんの手を取ります。
こんな寒い日なのに、その手のひらはとても温かでした。
亀の湯を出た紘子さんの足は、まっすぐ女の子のもとへと向かっていました。
降りしきる雪のせいで、遠くの景色が白くかすんで見えます。
――こんなに人が少ないんじゃ、ビラ、へってないんだろうな。
バイトが不採用だったことはそっちのけで、紘子さんは女の子のことを心配していました。
やがて、ウサギのキグルミが見えます。
「ウサギさーん」
約束どおり声をかけると、
「待ってたの」
女の子がかけよってきて、それから口ごもりながら言いました。
「お願いが……。ちょっとだけ、このバイト、紘子さんにかわってほしいの」
「わたしが?」
「ゴメンなさい。キグルミがここにいないと、店長にしかられてしまうの。でもね、もしイヤだったらいいのよ」
「ううん、やってあげる」
ビラを配るぐらいならできそうな気がして、紘子さんはそくざに代わりを引き受けたのでした。
スーパーの広い駐車場。
そこには数台の車があるだけで、空いている地面は雪で真っ白におおわれていました。
二人はキョロキョロとあたりを見まわし、駐車場の奥にある倉庫に向かいました。キグルミを入れかわる場所を探していたのです。
通りから見えない倉庫のかげ。
そこに二人はこっそり忍び入りました。
「そうだわ、リンゴがあれば!」
女の子がハッとしたように言います。
「リンゴ?」
「お母さん、病気でなんにも食べてないの。リンゴなら食べられると思って」
「それで、おうちに帰ってくるのね?」
「心配で……」
「リンゴ、わたしが買ってくる。ウサギさん、その間にキグルミをぬいでおくといいわ」
紘子さんは五百円玉を受け取ると、近くのスーパーへとかけ足で向かったのでした。
リンゴを買ってもどると……。
女の子はキグルミをぬいで待っていました。色白の小柄で、歳は紘子さんと同じぐらいです。
「ありがとう」
女の子がリンゴの入った袋を抱きしめます。
紘子さんはさっそくキグルミを着ました。中には女の子のぬくもりが残っていて暖かでした。
「紘子さん、立ってるだけでいいのよ」
「だいじょうぶ。それより早く、お母さんのところへ帰ってあげて」
「じゃあ、わたし……」
女の子が紘子さんにビラのたばを渡し、倉庫のかげからはねるように飛び出します。
「えっ?」
紘子さんはおもわず声をあげていました。
女の子がいきなり消えて、駐車場を走っているのは小さな白いウサギなのです。
ウサギはすぐに雪にまぎれてしまいました。
紘子さんは駐車場に走り出て、雪の上に残った足跡を確かめました。とちゅうから、やはりウサギの小さなものになっています。
――よほど心配だったんだわ。わたしがいることも忘れ、本物のウサギにもどるなんて。
紘子さんは心に決めました。
だれにも内緒にしておこう。
そうすることで、ずっと女の子と友だちでいられると……。
風はいつしかやみ、ぼたん雪がふわふわ舞い落ちていました。
「ゴメンね、紘子さん」
女の子がかけるようにもどってきました。
「いっぱい配ったよ」
紘子さんは残り少なくなったビラを見せました。
「わあー、ありがとう。早いとこ、キグルミを着がえなきゃあ」
「あとちょっとだから、このまま配ってしまうわ。それにわたし、とっても楽しいの。こうして、あなたとおしゃべりもできるしね」
「ほんと?」
「これまで受験勉強ばっかりだったの。勉強より、ずっと楽しいもの」
「じゃあ、大学生になるんだ」
「合格したらね。でも大学って、お金がたくさんかかるでしょ。だからバイトしようと思って」
「そういえば紘子さん、亀の湯に面接に……。それで働けるようになった?」
「ううん、ずっと働ける人じゃないとダメだって。わたし大学に受かったら、遠くの町に行くことになるから……。そうだ! お母さん、どうだった?」
「リンゴ食べて、少し楽になったみたい。でもね、まだ熱があるの。それで……それで紘子さんに、またお願いが……」
「なあに、言ってみて」
「このバイト、紘子さんさえよかったら……」
「いいわよ、やってあげる」
「ほんとにいいの?」
「よろこんで。だってわたし、どうせバイトを探してたんだもの」
「ありがとう。じゃあこのこと、あとで店長に話しておくわね」
二人はビラを配りながら、それからもおしゃべりを続けました。そしておたがい、お母さんと二人家族だってことを知ったのでした。
雪はいつしかやんでいました。
次の日の朝。
青空が広がっていました。明るい陽射しが、歩道につもった雪にチカチカ反射しています。
紘子さんはキグルミの中にいました。さっそくビラ配りのバイトをしていたのです。
「紘子さーん」
女の子が速足でかけてきました。
「どうしたの?」
「お母さん、熱が下がらないの。わたし、どうしていいのかわからなくて。それで紘子さんに……」
「お薬、飲んでるの?」
つい、たずねてから……。
――ウサギって、薬を飲むんだっけ?
女の子がウサギだってことに、紘子さんは気がついたのでした。
「お薬って?」
女の子が聞き返してきます。
「それを飲むとね、熱が早く下がるのよ」
「だったら、お母さんに飲ませてあげたい」
「わかったわ。今からわたしが買ってきてあげる」
紘子さんはすぐさま薬局へと走り、カゼ薬を買ってきました。それから飲み方を教え、女の子に持たせてやりました。
女の子がはねるようにして帰っていきます。
次の日。
歩道の雪は陽の光にとけ始めていました。
「紘子さん」
女の子のささやくような声がします。
――えっ?
紘子さんはとっさに見まわしました。けれど、女の子の姿はどこにもありません。
「聞こえたら返事をして」
今度はしっかり聞こえました。
「聞こえるわよ」
「お母さんの熱、ずいぶん下がったの。それでお礼が言いたくて」
「よかったね。でもウサギさん、あなた、今どこにいるの?」
「お母さんのそばよ」
「じゃあ、おうちなのね。なのにウサギさんの声、どうして聞こえるのかしら?」
「長い耳のおかげよ。ウサギの耳は遠くのことまで聞こえるの」
「ウサギの耳って?」
「紘子さん、ウサギになってるでしょ。だから遠くにいても、わたしの声が聞こえるの」
「でもこれって、キグルミのウサギよ」
「それを渡すときにね、わたし、おまじないをかけたの。離れてても、紘子さんと話ができるようにね」
「すごいのね、ウサギさんのおまじないって」
「おどろかないで聞いて。わたしって、ほんとは本物のウサギなの。だからこんなことができるの。だましててゴメンなさい……」
「ううん、いいのよ。だってそのこと、わたし知ってたんだもの」
駐車場で見たこと。
紘子さんはそれを正直に話しました。
「みんな知ってて、やさしくしてくれたんだ」
「友だちでいたかったからね」
「わたしもよ」
女の子の声がうれしそうにはずみます。
その日を最後に……。
女の子からの連絡はずっととだえたままでした。
そんなある日。
ビラ配りをしている紘子さんに、ひさびさに女の子の声が届きました。
「紘子さん、聞こえるかしら?」
「まあ、ウサギさん、ひさしぶりね。お母さん、元気になったかしら?」
「ええ、紘子さんのおかげよ」
「よかったね」
「それでね、お母さんのふるさとに帰ることになったの。そこって、とても遠いところらしくて……」
「じゃあ、もう会えなくなるんだ」
「会えなくても、わたしたちずっと友だちだよね」
「もちろん、ずっと友だちよ」
「ありがとう。あっ、そうそう。紘子さん、大学合格おめでとう」
「合格って、発表はまだ先よ」
「わたし、ウサギなんだもの。ウサギの耳はね、どんなに遠くのことだってわかるの」
女の子の声は自信たっぷりでした。
その日の夕方。
紘子さんがバイトを終えて家に帰ると、お母さんからいきなり花たばを見せられました。
「合格祝いですって」
「発表はまだなのに……。だれかしら?」
「ほら、コスモス堂って花屋さんがあるでしょ。そこの店員さんがね、今日のうちに届けるよう、電話で注文を受けたそうなの。電話の声は若い女性みたいだったって」
「ウサギさんだわ!」
紘子さんはおもわず叫んでいました。
「ウサギさんって?」
「わたしの大切な友だち。今日ね、合格してるって教えてくれたの」
「そんなこと、まさかまに受けたんじゃないでしょうね」
「もちろん信じてるわ。だってウサギさん、とっても耳がいいんだもの」
「耳のいいウサギがねえ。まあ、ほんとのことになればいいんだけど……」
お母さんはちょっぴり笑って、それから大きく首をかしげたのでした。
桜のつぼみが花開きました。
紘子さんは都会の大学に通い始め、アパートでひとり暮らしを始めていました。
さびしいときもあります。
悲しいこともあります。
そんなときに思い出すのは、いつもあのウサギの女の子のことでした。