海亀のこうらみがき
夏になったばかりの雲ひとつない夜。
海の水平線に、ミカンのような月がぽっかり浮かんでいます。
月の光は一筋の線となり、海原を沖に向かってまっすぐのびていました。
ここは町に近い海岸。
よせてはひき、ひいてはよせる波が、やわらかな声で砂浜に歌いかけています。
もう長いこと……。
亮一さんは波うちぎわに腰をおろし、ただぼんやりと海を見つめていました。
――どうしたものかな。
ため息をついた、そのときです。
ひときわ強い潮の香りがツーンと鼻先をかすめ、それから足もとで低い声がしました。
「おい、オマエさん!」
「えっ?」
われに返った亮一さんを、ひとかかえほどもある大きな海亀が見上げていました。
海亀のコウラには、カキガラやフジツボがたくさんついています。それだけで、かなり年をとっていることがわかりました。
「今の声はもしかして?」
「そうとも、このワシだ。だいいちここには、ワシしかおらんだろうが」
海亀がフンと鼻を鳴らします。
――なまいきだなあ。
イヤなヤツだと思いましたが、声をかけられて知らん顔もできません。
「ボクになにか?」
「なあに、なんだかオヌシが、ひどく思いつめておるように見えたものでな。死のうなどと考えておるんなら、忠告してやろうと思ったまでだ」
「とんでもない、死ぬだなんて。ただ……」
ここまで言って、ふいに口を閉ざした亮一さんでした。海亀に相談したところで、仕事の悩みが解決されるとはとても思えないのです。
「ただ、なんだ。先ほどからオヌシ、ため息ばかりついておるではないか。話せばちっとは、気が楽になるかもしれんぞ」
海亀がわかったような口ぶりで言いました。
――たしかにそうかも……。
そう思った亮一さんは、つい話の続きを始めていたのでした。
「今日、アルバイト先のガソリンスタンド、クビになったんです」
「また、どうしてクビに?」
海亀が重そうな頭をかしげます。
「お客さまの車、キズつけたんです。まあ、それまでもいくつか失敗を。店長さんも、さすがに愛想をつかしたんでしょうね」
「それであのように……」
「クビになるの、これで三度目なもんですから」
「オヌシら人間の社会というもんは、けっこうたいへんなところなんじゃな」
「ええ。ボクなんか高校を卒業して、まだ三年ちょっとだというのに」
「だがな、くよくよしてもどうにもならん。次の仕事を探せばいいではないか」
海亀が丸い口をゆがめます。
「ボクはひどく不器用なうえ、愛想だってよくないんです。ですから、そうかんたんには……」
亮一さんのほおに涙が伝い、ひとつふたつと砂浜にこぼれ落ちてゆきます。
「そうであったのか」
のぞきこむように亮一さんを見てから、海亀は言葉を続けました。
「ここで出会ったのも、なにかの縁というもんだ。紹介してやろうじゃないか。オマエさんにもできる仕事をな。どうだ、やってみないか?」
「お気持ちはありがたいんですが、こんなボクにはたしてやれるかどうか」
「なあに、だいじょうぶさ。仕事というのは、ワシら海亀相手だからな。むろん金も出すぞ」
「その仕事って、いったいどんな?」
「たやすいことだよ。ほら、コイツを見ろ。ずいぶん汚れておるだろう。コイツをな、きれいにみがくだけでいいんだ」
海亀が首を曲げ背中に目をやります。
「コウラをきれいにするんですね。でも、そんなことでお金をいただけるんですか?」
「もちろんだ。見てのとおりワシらは手足が短いんでな、うまくこなせるヤツがおらんのだ」
「それでボクに……」
「で、代金だがな。一回につき、ワシらが持っているコイン一枚でどうだ?」
「コインですって?」
「沈没船にあったもので、ずいぶん昔のものだ。悪くない話だと思うがな」
古いコインなら価値があり、コインショップで高く買い取ってもらえます。亮一さんはすぐさま返事をしていました。
「ぜひやらせていただきます」
「では、たのむぞ。で、やり方だが、そいつはオヌシにまかせたいんだが……」
「はい、おまかせください」
「すぐにでも、このことを仲間に話さないとな」
海亀が海へと体の向きを変えます。
「それで、仕事はいつからでしょうか?」
「さっそくあしたの今ごろ、ここに来てもらおうじゃないか。よろしくたのんだぞ」
海亀はちょっとばかりふり向き、それからすぐに夜の波間に姿を消しました。
次の日の夜。
亮一さんは大きなバッグを背負い、海亀と出会った浜辺へと向かいました。
バッグにはタオルをはじめ、デッキブラシやタワシなどが入っており、それらは昼間のうちに買いそろえておいたものでした。
月が海原を照らしています。
亮一さんが浜辺に着くと、海亀は昨晩と同じ場所で待っていました。
「仲間に話したら、希望者がけっこうおってな。それに、まだまだふえるだろうよ。うわさを聞きつけてやってくる、そんなヤツもおるだろうし」
「ありがたいことです」
「ただいっぺんに押しよせては、オヌシもこまるだろう。そこで決めたんだ。ひと晩にコウラひとつってことにな」
「助かります」
「それに代金のことだが、みなにしっかり伝えてあるんでな」
「すみません、なにからなにまで気をつかっていただきまして」
「では、コヤツから始めてくれ」
海亀がふり向きます。
そこには別の海亀がもう一匹いました。
「月のある晩、かならずだれかが来ることになっておる。月が出たら、オヌシも来るがいい」
「はい、かならず来ます」
「ワシは仲間の終わるのを見届けてから、最後にやってもらう。では頼んだぞ」
そう言い残し、夕べの海亀は先に海に帰っていきました。
残った海亀は口をモゴモゴさせていましたが、コインを一枚、砂の上にペッと吐き出しました。
「約束のコインだ」
「ありがとうございます」
コインを指先でつまみ、亮一さんは月の光にかざしてみました。
コインが銀色のにぶい光をはなちます。
「これって、もしかして銀貨じゃ?」
「ああ、南の海に、嵐で沈んだ帆船があってな。そこでいただいたもんだ」
いくら古い時代のコインといっても、模様がわからないほどさびついた銅貨なら、それほどたいした価値はないでしょう。それが、のっけからピカピカの銀貨です。
「では、始めますので」
銀貨をポケットにしまうと、亮一さんはさっそくコウラみがきにとりかかりました。
まず、デッキブラシでコウラ全体をこすります。
くぼんだところはタワシを使いました。そしてときどき、バケツに海水をくんできてはコウラにかけ、浮いた汚れを洗い流しました。
同じ作業を何度もくり返します。
その間……。
海亀はコウラの中に頭をひっこめ、じっとまぶたを閉じていました。
作業は順調そのもの、一時間ほどで、コウラはずいぶんきれいになりました。残るはカキガラやフジツボだけとなり、亮一さんはそれらをヘラで根気よくはがしてゆきます。
潮風と波の音のなか。
時間はゆるゆると流れていきました。
東の空が白み始めます。
亮一さんのコウラみがきは続いていました。
カキガラなどはすっかりとれています。
作業はいよいよ仕上げに入り、最後にタオルでこすると、コウラはいちだんときれいになりました。
「終わりましたよ」
「おう、ごくろうだったな」
コウラから顔を出した海亀が、首をグルリと背中に伸ばし、目をいっぱいに見開きます。
「うん、こいつはすばらしい」
「ありがとうございます」
「きっと仲間も、よろこんでコインを出すだろうよ」
「みなさんに、よろしくお伝えください」
亮一さんは深々と頭を下げました。
「じゃあな」
海亀が海へと帰っていきます。
水平線からは太陽が顔を出し、朝の光が海一面に広がり始めています。
海亀のコウラは波間で黄金色に映えていました。
月のある夜。
海亀はかならず浜辺にやってきました。そしていつも、それはひと晩に一匹と決まっていました。
どの海亀も無口でなまいきでした。
亮一さんも無愛想なものですから、ほとんど話をすることがありません。……けれど、そのことがかえって仕事をはかどらせました。
ひと月が過ぎたころ。
亮一さんは作業にもずいぶんなれ、今では始めたころの半分ほどの時間でみがきあげられるまでになっていました。
作業の間。
たいていの海亀はほとんど眠っています。そしてコウラがきれいになると、たいそう満足して海に帰っていきました。
代金として、どの海亀も約束どおりコインを一枚くれました。たいがいは銅貨、よくて銀貨でしたが、なかには金貨をくれた海亀もいました。
ためしに銀貨を一枚、コインショップに持ちこんだところ、思いがけない金額で買い取ってくれました。
生活はとうぶん心配ありません。
月の出た夜。
亮一さんのコウラみがきは続きました。
銅貨を持ってきた海亀も、金貨をくれた海亀も、同じようにていねいにみがきました。
夏が過ぎ、秋が来て、いつしかその秋も終わろうとしていました。
その晩。
満月が海原の真上にありました。
亮一さんがいつものように浜辺に行きますと、ひときわ大きなコウラの海亀が待っていました。
「やあ、ひさしぶりだな」
あの年老いた海亀です。
「あなたが来たということは、この仕事、今晩で最後になるんですね」
「ああ。ここらあたりの仲間は、みんなきれいになったんでな」
「そうですか……」
「オヌシ、よくやったな。みんな、たいそうよろこんでおる」
「ありがとうございます」
「この調子でがんばりゃ、オヌシらの社会でもりっぱにやっていけるだろうよ」
「はい、がんばってみます」
さっそく亮一さんは、使いなれたブラシなどをバッグから取り出しました。
「あなたにはたいそうおせわになりました。とびきりきれいにみがいてさしあげます」
今晩が最後のコウラみがきです。
亮一さんは心をこめて、ていねいにていねいにみがきました。
ひと晩じゅう。
満月が夜の海と浜辺を、そして海亀と亮一さんを明るく照らしていました。
海亀と別れた帰り道。
夜明け前の通りには人影ひとつありません。街路樹の枝が冷たい風にふるえ、歩道に散った枯れ葉がクルクルと舞っています。
バッグを背負った亮一さんは、アパートへ向かってトボトボと歩道を歩いていました。
――うん?
首をかしげ、ふいに立ち止まります。亀という文字が目にとまったのです。
一本の電信柱に足が吸いよせられていきます。
しばらくの間……。
電信柱とにらめっこをしていましたが、亮一さんは自分に言い聞かせるようにつぶやきました。
――とにかく行ってみるか。
向かった先。
そこには広い駐車場と大きな建物があり、そしてその正面には「天然温泉 亀の湯」という看板がかかっていました。
事務室の応接ソファーに、亀の湯の主人と亮一さんが向き合うように座っています。
「あの求人ビラは、夕べ遅くに貼ったばかりなんだがな。まさかこんなに早く、応募者があるとは思わなかったよ」
「お願いします。ここで働かせてください」
深く頭を下げた亮一さんに、主人がしげしげと見つめて言います。
「とてもきつい仕事だよ。店が閉まった深夜に、浴室のタイル全部をみがくんでね」
「だいじょうぶです」
亮一さんは背すじをピンと伸ばし、自信たっぷりに答えました。
「長続きできそうかい?」
「はい、ボクにぴったりの仕事ですから」
「では経験があるんだね?」
「海亀のコウラみがきをやっていました」
「海亀って、どこかの水族館のかね?」
「いいえ、海からやってきた海亀です」
「海からねえ。よくわからんが、きみのやる気をみこんで、とにかく働いてもらおうか」
そうは言ったものの……。
亀の湯の主人は、いっとき首をかしげていたのでした。
あの日から、亮一さんは亀の湯で働いています。
店の閉まった深夜。
浴室すべてのタイルをみがきました。
海亀のコウラをみがくように、ていねいにていねいにみがきました。
ひと月も過ぎたころ……。
亀の湯の浴室は、どこもかしこもピカピカになっていたのでした。