前編 -エドモンドの思い-
僕はエドモンド。この国の王太子だ。
僕は異世界から来た聖女に恋をして――今、彼女に脅されている。
「私の言うことに従わなければ、ロズリーヌ様を殺します!」
ロズリーヌは公爵令嬢で僕の婚約者だ。親同士が決めた婚約で、僕は別に彼女が好きではなかった。というか、あまり興味がなかった。
幼い頃はまだ可愛げがあった彼女だが年齢を重ねるにつれて次第に冷たい女となってしまい、なんとなく近寄りがたく思うようになった。
パーティーでのパートナー等、婚約者としての必要最低限の関わりしか持たない、冷めた関係だった。
そして目の前で僕を脅している女性はハルカ。異世界から来た聖女だ。僕は学園で彼女に出会い、恋をした。その容姿の可愛らしさと明るい性格に惹かれたからだった。
まあ、僕は婚約者がいる身なのでこれは浮気とも言えるのだが。
ハルカは僕が恋人になって欲しいと言ったらそれを受け入れた。しかしそれで舞い上がったのも束の間。神殿でデートをしたら振られた。恋人期間はものの数日で終わった。
その日以来、彼女は恋人ではなくなったが頻繁に僕のそばに居座るようになった。
彼女には前世の記憶があり、その世界で僕はロズリーヌとの婚約を理不尽な理由で破棄した挙げ句、ロズリーヌを冤罪で斬首刑に処したらしい。
その上今世でもロズリーヌという婚約者がいながらハルカを恋人にしたということで、ハルカはロズリーヌを蔑ろにした浮気糞野郎こと僕に復讐をしようという。
正直何故ハルカがそんなことをしようとしているのか分からないが、彼女に従わなければロズリーヌは殺されるらしい。
好きではないが、ロズリーヌは婚約者でこの国の公爵令嬢。殺されたら困る。
彼女の命を守れるなら、ハルカの我儘くらい聞こうと思っていた。
ただ、それだけのはずだった。
「見てください、今日のロズちゃん。前髪を少し切ったんです。可愛くないですか!?」
「ああ、可愛いな」
ハルカは学園で僕のそばに来るといつもロズリーヌの話をしてくる。しかも、ロズリーヌの良いところを延々と語ってくる。
さらに、ロズリーヌを影から見守るとか言って毎日こそこそ彼女の後を付いて回る。勿論僕も同伴なので、僕とハルカでロズリーヌを尾行しているような形だ。
最初は訳が分からなかったが、ハルカに言われて改めてロズリーヌを見つめ直すと僕は彼女に惹かれ始めた。
ロズリーヌの見た目は勿論美しいが、それだけではない。
彼女は勤勉で、教養が深い。常に高みを目指していて、努力を惜しまない。所作は洗練されて優雅で、気品がある。
彼女はいつも学園で、僕に次ぐ成績を取っていた。良い点数を取っても普段と変わらず涼しい顔をしているので、少しムカついていたりもした。
でも、彼女は実は努力している人だった。今までは見ていなかったので気づかなかったが、彼女は休み時間は図書館で本を読んだり、教室で黙々と勉強したりしていた。静かに毎日努力を重ねていた。
パーティーなどで僕のパートナーとして隣に立つときの対応も凛としていて素晴らしい。外国からの使者への対応もよくできている。
どうしてあんなに外国語が堪能なのかと不思議だったが、それは彼女の努力の賜物だったのだろう。
外国から使者が来ることが決まると、事前にその国の情勢や文化、歴史や言語について改めて熱心に勉強し直していた。
これも、今までの僕が知らなかったことだ。
また、ロズリーヌは学園では一人のことが多いが、社交界では優しい笑顔で人々を癒やしたり、機知に富んだ会話で人々を楽しませたりしていた。
常にニコニコしているハルカと比較して、あまり笑わない冷たい女だなんて思ったりしたが違ったのだ。
彼女はちゃんと、人と話すときには笑みを浮かべる人だった。彼女は人々に慕われている人だった。
改めて見れば、王太子の婚約者として完璧な女性だったロズリーヌ。
だがそもそも何故僕がロズリーヌを冷たく思って距離を置くようになったかというと、彼女が笑わなくなったからだ。
そう。ロズリーヌは何故か、僕の前でだけは笑顔を見せない女性だった。他の人の前では笑うのに僕の前では笑わない。
幼い頃はそうではなかったのに、いつしか僕の前で笑みを見せなくなっていた。いつも冷たい気がする。
何故僕の前で笑みを見せないのかは分からなかったが、ロズリーヌをよく見れば見るほど僕の伴侶となる女性として理想的だと思うようになったのは事実だ。
そんな彼女がそばにいながらハルカにうつつを抜かした僕は、やはり馬鹿だった。
もう絶対に浮気はしない。そう決意した。
学園でハルカと一緒にロズリーヌの尾行をし、ロズリーヌの話をするという日々は数ヶ月にも及んだ。
そんなある日、ロズリーヌが僕に話しかけてきたことがあった。ちょうどハルカがいないときだった。
ロズリーヌは何処か不安そうな顔をしていた。その日もいつも通り彼女は僕の前では笑わなかった。
「どうしたんだ、ロズ」
「あの、殿下に……お願いが、あるのです」
「願い?」
ロズリーヌが僕に願いなんて珍しいなと、そう思った。
彼女のこんな弱々しい声を聞いたことはあっただろうかという儚い声だった。
「私を、捨てないでくださいませ……」
「ロズ……?」
ロズリーヌは、肩を震わせて泣き始めた。
彼女が涙を見せたのはその日が初めてだった。少し驚いた。
笑顔は幼い頃には見たことがあったが、泣き顔は幼い頃でも見たことがなかった。
僕は前世では、彼女を捨てた挙げ句処刑したらしい。
その日は、前世の僕が彼女との婚約破棄を宣言した日がそろそろ近いという頃だった。
彼女は何かを察知して不安になってしまったのだろうか。
僕は安心させるようにロズリーヌの頭を撫でた。
前世がどうだとしても、僕は今ロズリーヌのことが好きだ。婚約破棄なんてしようとは思っていない。
これからは彼女だけを愛し、彼女と共に生きるつもりだ。
しかしそれから数日後、ハルカが恐ろしい命令をしてきた。
「ロズちゃんとの婚約を破棄してください」
僕は拒否したが、しなければロズリーヌを殺すと脅された。王家主催のパーティーの日に婚約破棄を宣言しろと言われた。
僕は悩んだ。どうすれば良いのかと、途方に暮れた。
そして何も解決しないままパーティーの日が来た。その日の朝、僕の元にはロズリーヌからの手紙が届いていた。
それは、恋文だった。
――――――
先日は、みっともない姿をお見せしてしまい申し訳ございませんでした。
恥ずかしながら、悪夢を見て不安になってしまったのです。
貴方様が他の女性を娶るのではないか、と。
もし悪夢が現実になったら、私は貴方様への思いをお伝えすることができなくなってしまいます。
ですから私は、こうして初めて恋文をしたためることにいたしました。
私は、幼き頃より殿下をお慕いしております。
何よりも、貴方様のお幸せを望んでおります。
もし叶うなら、殿下と共に歩みたいのです。
面と向かっては恥ずかしく申し上げられませんでしたが、殿下のことを心から愛しております。
――――――
僕はその手紙を何度も読んだ。ロズリーヌが僕を愛してくれている。とても嬉しかった。
でも、少し頭の中に疑いもあった。僕に笑みを見せない彼女が僕を愛しているなんてあり得るだろうかと。
それでもこの手紙を信じるならば、一層僕と彼女との婚約を破棄するのは良くない。僕も彼女を愛していて彼女も僕を愛しているのに、何故別れる必要がある?
僕はロズリーヌの愛を信じ、婚約破棄をしないためにハルカにまた抗議した。けれど駄目だった。
どうすれば良いのか分からないまま、僕はロズリーヌを連れてパーティー会場へと向かった。
彼女は、ひどく冷めた顔をしていた。
「ロズ……」
掠れた声で、僕はロズリーヌを呼んだ。彼女は冷たい目で僕を見ていた。
いつも通りの冷たい目。それでもいつもの彼女と何か違うような気がしたのは、何故だろう。
「はい、王太子殿下」
やはり、あの手紙は嘘だったのではないか。何かの間違いだったのだではないか。
本当は彼女は僕を愛していないのではないか。
いや、そんなことはない。彼女は僕を愛しているはずだ。
でも、ロズリーヌの表情が冷たい。まるで氷のように。
もしかしたらあの手紙を書いた後に愛が冷めてしまったのではないか。そもそも愛はなかったのか?
そんなことをいろいろと思いながら、ゆっくりと口を開いた。
「僕と、別れてほしい」
ハルカが何処かで見張っていると言っていたから、別れ話を全くしないわけにはいかなかった。
どうか、嫌だと言ってくれ。どうか。
僕は願った。
彼女が僕を愛しているなら、婚約破棄を受け入れるはずはないと思っていた。
ロズリーヌが嫌がれば、ハルカも気が変わるかもしれないなんて淡い期待もあった。
「はい、畏まりました」
ロズリーヌは淡々と承諾した。足元ががらがらと崩れ落ちていくようだった。
いや、そんなはずはない。
「えっ。ロズ、本気か?」
まさか、本気じゃないだろう。
現実を見たくない僕はロズリーヌに聞いた。
「……何か?」
ロズリーヌは、全く僕に興味なさげだった。
彼女はこんなにも冷たい表情ができる人だっただろうか。冷た過ぎて、体の芯まで凍りそうだ。
それとも僕の彼女への愛が熱くなりすぎた故に、いつも通りの彼女を冷たく感じるようになってしまっただけなのだろうか。
「いや、なんでそんなこと言うのかとか、何かないのか?」
本当にこれで終わりなのか? 本当に彼女は僕との婚約を解消しても良いのか?
もしこれで彼女がいなくなったら、僕は誰と共に歩めば良いんだ?
ロズリーヌへの恋心を自覚して、彼女を愛するようになって。僕は他に誰を愛するって言うんだ?
「殿下はハルカ様と恋仲だったでしょう? わたくしはお役御免ということですよね?」
わざわざ聞くのも面倒くさそうに、ロズリーヌは言った。
ああ、そうか。
ハルカを数日でも恋人にした僕が悪いのだ。
一度浮気をしたら、もう駄目だったのだ。
あの手紙は、あのロズリーヌらしい美しい筆跡の恋文は、きっと何かの間違いだったのだ。
彼女は確実に、僕を愛していない。
「……そう、だな」
馬鹿みたいだ。あの手紙を信じて、ロズリーヌが自分を愛していたなんて浮かれて。
僕は馬鹿だ。
「はい。それで、私はどうすれば良いのでしょう? 父に婚約解消を伝えれば良いですか?」
もうロズリーヌはすぐにでも婚約解消をするつもりのようだ。
彼女の心はきっと、ずっと前から僕に向いてはいなかったのだ。
いつも笑わなかったのも、僕が嫌だったからだ。
婚約解消に、彼女は未練も寂しさも悲しさも悔しさもなさそうだ。
僕は胸が張り裂けそうだというのに。
「ああ、そうだ。……ロズは、本当にそれで良いのか?」
これでロズリーヌが引き止めてくれなかったら、もう諦めよう。
ロズリーヌはすぐに答えを返した。
「はい。一度浮気した男なんかに未練なんてありませんわ」
ばっさりと、切り捨てられた。
これで全て終わりだ。もうロズリーヌはこれから僕の婚約者ではなくなるのだ。
ロズリーヌは一人、パーティー会場を去っていった。
彼女はそれきり屋敷に籠もり、学園にも来なくなった。
それから一ヶ月後、困ったことになった。ハルカが何者かに襲われたのだ。
浅い傷で済んだから命は助かったのだが、問題は捕らえられた者がハルカの殺害を計画して命じたのはロズリーヌだと証言したことだった。
ハルカは回復するとまた僕を訪ねてきて、ロズリーヌを投獄するように言った。
ついでにさぞ愉快そうに、襲撃犯は自分が用意した自作自演だと言った。ロズリーヌを投獄しなければ、ロズリーヌも僕のことも殺すと言った。
僕はハルカに言われるまま、ロズリーヌを投獄する命令を出した。
ハルカは聖女で、大きな力を持っている。それこそ悪い方向で使えば国を滅ぼしかねない力だ。
国の王太子としては、そんな彼女を敵に回すわけにはいかなかった。だから今までもずっと彼女の機嫌を取ってきた。
僕はどこまでも馬鹿だった。弱い男だった。
ロズリーヌを投獄した日、ハルカはロズリーヌの牢屋の鍵を持ってくるようにと僕に言った。僕は鍵を持って牢屋に行き、ロズリーヌに会いに行った。
牢屋は暗くて不気味で汚くて、こんな場所に彼女を入れたことを激しく後悔した。
「ロズ!」
「あれ? 殿下?」
彼女は、僕が来たことに驚いているようだった。
僕はロズリーヌが入れられている牢屋の鉄格子を掴み、彼女に謝罪と告白をしようとした。
思えば僕は一度も、彼女に愛していると伝えていなかった。
彼女が僕を嫌いでも、一度は伝えておきたかった。
「ごめん! ロズ。僕は――」
「何やってるんですかぁ? 王太子殿下」
「ひっ、は、ハルカ……」
こんなときにもハルカは僕の邪魔をしてきた。彼女は本当に聖女なのだろうかと思うくらい、恐ろしく外道だ。
「私、言いましたよね? 殿下は牢屋の鍵持ってくればいいだけだって。何私のロズちゃんに告白しようとしてるんですか?」
「いや、僕は――ぐはっ」
ハルカに思い切り殴られた後、僕の記憶はない。きっと気絶していたのだろう。
しばらくして気づいたときには、ハルカもロズリーヌもいなかった。
二人は、何処かに消えてしまっていた。