時代劇ショートショート【岡っ引き】
仕事を終えた魚屋の半吉は、夕暮れの大川縁を歩いていた。向かう先は居酒屋の「米椿」だ。
米椿は、主人の米介と女房で女将の椿が二人で切り盛りしている小さな居酒屋で、半吉が魚を納めている店だった。半吉は商売で世話になっているので、たまに米椿で飲むことにしている。今日もそのために米椿へ向かっていたのだが、心配事があった。いつも混んでいて、入れない場合があるのだ。
米椿は、酒が美味い訳でも、料理が特別美味い訳でもない。人気の秘密は安さだった。料理は他の店とさほど変わらぬ値段だが、酒が兎に角安い。安酒を原価で売っているので、安いのは当然だった。酒を原価で売っていては儲かっていないだろうと思いきや、米椿は儲かっていた。
半吉は料理で儲けているようには思えなかったので、主人の米介に訊いたことがある。米介によると、樽は結構な値段なので、空になった酒樽を問屋に売ると儲かるとのことだった。空樽を売っているのは、どこの居酒屋も同じだろう。米椿だけではないはずだ。納得できない半吉だったが、取引先なのでそれ以上しつこく訊かなかった。後で知ったことだが、米椿は裏で金貸しをしていて、その利子で大きく儲けているらしかった。
半吉は米椿の暖簾をくぐった。店の中は相変わらず客で一杯だ。
「半吉さん、いらっしゃい。悪いんだけど、相席でいい?」
女将の椿は、半吉の返事を聞かずに卓の席に案内し、「いつものでいいよね」と言うと、厨へ消えて行った。
半吉の向かいに座っている職人風の男は、黙々と飲んでいる。半吉が周りを見渡すと、誰もが静かに飲んでいた。満員なのに変な静けさに支配されている。まるで、通夜の振る舞いの席のようだ。
(いつもの活気が無えじゃねえか。そういえば、女将も元気が無かったな)
半吉がそんなことを思っていると、椿がお盆に徳利と漬物を載せて戻って来た。
「女将さん、今日はどうしちまったんでえ。やけに静かじゃねえか」
椿は唇に人差し指を当て、小上がりの一角へ視線を向けた。
「岡っ引きの智蔵が来てるんだよ」
椿が小声でそう言った時、その智蔵から声が掛かった。
「女将、食いきれねえんで、余った料理を折に詰めてくれ」
椿は直ぐに「あい、直ぐに詰めます」と答え、小走りで離れて行った。
衝立を背に座っている智蔵の前には、幾つかの膳が並べられており、椿がせっせと料理を詰めている。
「智蔵の奴、食べもしねえのに沢山注文しやがって」
半吉の前の男がボソッとつぶやいた。智蔵は酒だけ飲んで、料理には手を付けなかったようだ。
椿が詰めた折は三つになっていた。智蔵は十手を見せびらかすように腰から抜き、折詰に掛けられた紐を十手に引っ掛けて土間に立つ。金を払う素振りも見せない。椿も代金を請求しなかった。米椿は金貸しをやっているので、弱みを握られているのかもしれない。飲食代くらいのことでへそを曲げられ、難癖をつけられたらたまらないと思ってるいるのだろう。
椿は店先まで出て、愛想良く智蔵を見送った後、ピシャリと入口の戸を閉めた。
「お上の威光をひけらしやがって、嫌な奴だよ。お上もあんな奴に十手を持たせるなんてどうかしてるよ。あー嫌だ嫌だ」
智蔵がいなくなって清々したのだろう、椿はいつもの表情に戻って奥に消えて行った。
店の客も椿と同じ思いだったらしく、戸が締まった途端に喋り出した。
「あいつはタダで飲み食いするために岡っ引きになったんだよ」
「智蔵は儲かってるとわかりゃ、すかさず難癖をつけやがる。金を巻き上げられた奴は数知れずだ」
「岡っ引きはさ、悪党ばかりだけどさ、智蔵は別格だよ」
「強請タカリの番付があったら、智蔵が東の横綱だぜ」
そんな声があちこちから聞こえてくる。皆が智蔵に対する日頃の恨みを晴らしているかのようだ。智蔵の悪口で、店にはいつもの賑わいが戻った。
翌日、天秤棒を担いだ半吉が浮世絵の版元である甲州屋の前に通りかかると、店先に女将のお雪が立っていた。半吉は挨拶をしようと近づく。
「塩を持っておいで!」
お雪が急に大声で言ったので、半吉は驚いて後ずさった。
「女将さん、アッシが何か悪いことをしたのなら謝りやす。でも、塩を撒かれるようなことをした覚えはないんで」
半吉に話し掛けられ、お雪は半吉に気が付いた。
「半吉さんのことじゃないんだよ」
半吉はホッとした。
「何があったんでやす?」
「岡っ引きの智蔵が、ご禁制の春画を売ってるだろうと言い掛かりをつけてきて、店に居座ってたんだよ。いくら春画がなんか売ってないって言ってもさ、『お上の調べに間違いはねえ』の一点張りで、聞く耳を持ってくれなくてね、商売の邪魔だから、仕方なく一朱銀を袖の中に入れてやったんだよ。そうしたらさ、智蔵の奴、一朱銀を投げ返してきた。要らないのかと思っていたら、袖口を広げて催促するんだよ。しょうがないから、一分銀を入れてやったらようやく帰って行った。悔しいったらありゃしない」
「ここに来る前、薬種問屋に寄ったんでやすが、そこの奉公人が言ってやした。智蔵がまがい物の朝鮮人参を売ってるだろうと難癖をつけてきて、『調べるから朝鮮人参を出せ』と言うもんで、紙包みに入れた朝鮮人参を出したら、懐に入れて帰って行ったということでさ。高価な薬をせしめられたとしょんぼりしていやしたぜ」
「智蔵の奴、うちに来る前にもそんなことをしていたのかい! とんでもない悪党だよ」
半吉の話は、お雪の怒りに改めて火を点けてしまったようだ。憤懣やる方ないお雪に、半吉は桶の蓋を開けて訊く。
「いい魚が入ったんでやすが、いかがでやすか?」
「半吉さん、今日は余計な出費をしちまったから、悪いけど要らないよ」
怒りが収まらないお雪は、店の中に入って行った。
「智蔵の奴のせいで、売り損ねちまったぜ」
半吉は、肩を落とした。
半吉は当てが外れたので、売り声を上げながら売り歩いた。いつもは行かない町まで行ったが、売れ残った。
「そう言や、この辺りにあぶく長屋があったな。お梅婆さんに残った魚を持って行ってやるか」
お梅婆さんとは、以前半吉が贔屓にしてもらっていた煮売り屋の婆さんだ。半吉と同じように棒手振りで総菜を売り歩いていた。半吉がねずみ長屋へ引っ越してしまったために縁遠くなってしまっていたが、お梅婆さんがあぶく長屋に移った噂を思い出したのだ。
半吉は奥まった裏路地を進み、あぶく長屋の入り口に立った。木戸だったらしい腐った木材が転がっている。中の方に目を移すと、どぶ板の両側に、傾いた長屋が建ってる。半吉が住んでいるねずみ長屋も貧乏長屋と言われているが、この長屋に比べれば随分マシだ。
「オンボロだとは聞いていたが、聞きしに勝るボロ家だぜ。あぶく長屋なんて、誰が言い出したが知らねえが、言い得て妙とはこのことだ。今にも潰れそうじゃねえか」
半吉が中に進むと、雑巾のような着物を着た爺さんが井戸端で空の折箱を洗っていた。
「ここにお梅婆さんが住んでいると聞いたんだがよ、どの家か知ってるかい?」
爺さんは黙って一番奥の家を指差した。
半吉は軽く頭を下げ、その家に向かう。入口の腰高障子の前に桶を置き、声を掛ける。
「お梅婆さん、いるかい?」
「開いてるよ」
腰高障子の向こうから弱々しい声が聞こえた。
半吉は桶から魚を取り出して腰高障子に手を掛け、ガタガタと音を立てながら戸を開ける。
「半吉じゃないか。久しぶりだねえ」
具合が悪そうに座敷で横になっていたお梅が身を起こした。
「すっかりご無沙汰しちまって、申し訳ねえ。こっちに家移りしたって聞いてよ、近くに来たから寄らせてもらった。売れ残りで悪いんだけどよ、食べてくんな」
半吉は手に持った魚を見せ、流しに置いた。
「ありがとうよ。突っ立てないでこっちに座りよ」
お梅に促され、半吉は座敷に上がる。
「お茶も出さずに悪いね」
「いいてことよ。見たところ、煮売り屋をやってねえようだが、止めたのかい?」
「体を壊してしまってね、煮売り屋を続けられなくなったんだよ」
「そうだったのか。何も知らなくてよ……。体の方はどうなんだ?」
「調子が悪くてね、思うように動けないんだ。年もあるしね」
「生計は立っているのか?」
「店賃の安いこっちに移ったしね、何かと親切にしてもらってるから、何とか暮らしていけてるよ」
半吉はそれを聞いて安心した。昔話の一つでもしたかったが、辛そうにしているお梅の様子に、無理をさせられないとも思った。
「病人の家に長居しちゃ申し訳ねえ。また来るからよ、それまで生きているんだぜ」
半吉はそう言い残してお梅の家を出た。
天秤棒を担いで歩き出し、木戸の所まで来ると、半吉は男とすれ違った。智蔵だった。気になって目で追うと、智蔵はお梅の家に入って行った。
(智蔵の野郎、お梅婆さんまで強請ろうとしてるのか!)
憤った半吉は、お梅の家の前に立った。腰高障子を勢いよく開けようとしたが、中の様子がおかしい。腰高障子の隙間からそっと覗いて中の様子をうかがった。
「体が悪いんだ。横になっていな」
智蔵が座敷に腰掛け、起き上がろうとしていたお梅を制していた。それでも、お梅は正座をする。
智蔵は懐から紙包みを取り出して、お梅の前に置いた。
「朝鮮人参だ。これを煎じて飲めば、良くなるだろう」
「こんな高価な薬……」
「遠慮するねえ。黙って受け取りゃいいんだ」
智蔵は朝鮮人参をお梅に押し付けた。
「昨日は折詰を三つも持って来てくれたんだってね。あたしもおすそ分けをいただいたよ。美味しかったよ」
お梅は深く頭を下げた。
「いいてことよ。こんなことで頭を下げられちゃ、弱っちまうぜ。頭を上げてくんな」
顔を上げたお梅は、智蔵の顔を真剣に見つめた。
「あたしは大家に訊いたんだよ。こんなボロ家でも、店賃が一文だなんて安すぎるだろう。大家が『長屋の店賃は智蔵親分からまとめて貰ってる。だから、店子から店賃を貰う筋ではないんだが、智蔵親分が店子に引け目を感じさせたらいけないと言うものだから、一文だけ貰うようにしてる』って言ってたよ。どうして見ず知らずの者に、こんなに親切にしてくれるんだい?」
智蔵はしばらく黙っていたが、意を決したように口を開いた。
「行き場のねえ貧乏人だからよ。この長屋に流れてくる者は、生きてゆくにもままならならねえ者ばかりだ。誰かが助けてやらねえとならねえ。だけどよ、世間は冷てえもんだ。銭がなけりゃ、誰も相手にしやがらねえ。お上も何もしやしねえ。好きで貧乏人になった奴なんかいねんだ。真面目に働いていても、病気になって働けなけりゃ、途端に暮らしに困っちまう。貧乏人だからって、死んでいいなんて法はねえだろう。だからよ、誰も手を差し伸べねえんだったら、俺がやるしかねえだろうよ」
「噂で、智蔵親分が町人から金を巻き上げてると聞いてるよ。あたしら長屋の店子のためにやってるんだろう。智蔵親分が皆に恨まれるのは辛いよ」
「気にすることはねえ。俺は独り者だ。家族が仕返しされる心配もねえんだ。恨まれたって、これがあれば大丈夫だ」
智蔵は腰から十手を抜いてみせた。
「でもねえ……」
「金は天下の回りものって言うじゃねえか。俺は金を持ってる奴から少しばかりいただいて、世間に回してやってるのよ」
智蔵は笑いながら十手を腰に戻し、立ち上がった。
「余計なことを言っちまった。そろそろ帰るとすらあ」
「あたしらにとって、智蔵親分は仏様だよ」
お梅は智蔵に向かって手を合わせた。涙が頬を伝っている。
「よせやい。そんな上等なもんじゃないぜ。それじゃあな」
智蔵が出て来そうになったので、半吉は慌てて戸口から離れた。走り出した半吉の顔も涙で濡れていた。
智蔵は、厠に隠れている半吉に気が付かず、横を通り過ぎて木戸から辻へ出て行った。半吉は放りっぱなしにしていた桶を取りに厠を出る。
その時、「ウワッ」という短い悲鳴がした。智蔵の声だった。
半吉が悲鳴がした方に急いで行くと、布で顔を隠した町人風の男が立っていた。手には血の付いた合口を持っている。足元には智蔵がうつ伏せで倒れていた。
「智蔵、思い知ったか!」
男は興奮した声で叫び、走り去った。
半吉は智蔵に駆け寄る。背中が大きく切られ、血が流れていた。
「智蔵親分!」
半吉が声を掛けながら抱き起すと、智蔵の目が開いた。
「魚屋の半吉か、お前が隠れて博打を打ってるのを知ってるぜ。しょっ引かれたくなかったら……」
智蔵は銭を出せというように手のひらを半吉に向けた。だが、その手は直ぐにだらりと垂れ下がった。
<終わり>
江戸時代は掛け売りが一般的に行われていました。売掛金の回収はお盆と大晦日の年二回で、払わなければ次の回収時期まで先延ばしされました。例えば、大晦日に回収できなければお盆まで回収できないのです。だから、掛け取りする方は必死でした。
川柳に「大晦日、箱提灯は怖くなし」というものがあります。箱提灯は武士が用いた提灯のことです。大晦日に限っては、箱提灯を持っている侍より弓張り提灯を持っている商人の方が恐かったのです。そのくらい掛け取り商人は鬼気迫っていたようです。でも、その日を過ぎれば半年先延ばしできるので、ツケを溜めている方も必死でした。それを表す川柳に「大晦日、内儀傷寒だと脅し」というものがありました。大晦日に、妻が重い感染病に罹ったと脅して追い返したのです。さしもの掛け取り商人も感染病には勝てなかったようです。
ところで、江戸時代に酒を原価で売って財を築いた商人が本当にいたようです。原価販売では幾ら売っても利益にはなりませんが、日々の売上金を日貸しや月貸しで貸し付けることにより、利子を稼いだのです。飲食業は日銭が入るので、日々の売り上げを大きくさせれば、貸付できる金額も増え利子で得られる利益も増えました。そのため、原価で売ることによって客を集め、売上金を増大させたのでした。掛買いなので、幾らでも売ることができました。
こんなことができたのは、掛買いの支払いが年二回だったからです。半年という猶予があったため、短期貸し付けで儲けることができたのです。
岡っ引きは町奉行所の同心に私的に雇われ、捜査を手伝っていた町人です。幕府の役人ではありません。ですから、給金は奉行所から支払われてはいませんでした。同心が自分の金を出していたのです。支払われたのは少額でしたので、生活のために、女房に商売をやらせていた場合もありました。
商売で生計を立てていた岡っ引きは良心的な方です。賄賂を貰って罪人を見逃したり、町奉行所の権力を笠に着て強請タカリをする者が多くいました。蛇の道は蛇で、岡っ引きには犯罪に精通している元罪人を多く登用していましたから、そうなるのも当然の結果だったのかもしれません。
岡っ引きは町人にとって迷惑な存在でした。幕府は何度も岡っ引き禁止令を出したのですが、「手先」などと名を変えて存続しました。町奉行所同心は少人数でしたので、捜査協力者は欠かせなかったのです。
ちなみに、岡っ引きは自分で「下っ引き」と呼ばれる子分を雇っている場合もありました。
煮売り屋は菜屋とも言い、総菜屋のことです。魚屋野菜の煮物など、直ぐに食べられるおかずを売っていました。行商や屋台の他、店舗販売もありました。
腰高障子は、下の部分に腰板を張った障子のことです。長屋の入り口の引き戸にも使われていました。