「兄上、私も元服したんだから出陣をーー」
この年、出陣する前の大阪城では、おれの弟秀頼が自分も元服したんだから出陣したいと申し出ていた。だが、さすがにまだ早いとあきらめさせた。
おれも同じ年ごろで活躍し始めた。それを周囲の者から聞いていたんだろう。まあおれの特殊な事情など知らないのだから無理もない。
「兄上、私も元服したんだから出陣をーー」
「まだ言っているのか」
確かに弟秀頼は年の割に立派な体格をしている。あの爺様の子供とは思えないような……。
「お前はなかなか立派な身体つきをしておるがな、まだ早い」
そう言ったおれの前で、淀殿は微妙な顔をして見つめている。
「兄上も同じ年ごろにはもう活躍されたと、皆から何度も聞いております」
「うん、それはそうなんだがな、お前にはまだちょっと早い。もう少し待て」
「なぜですか?」
「それは、まあ、なんだ、その」
「私だって刀くらい扱えます」
「だからあ、戦場ではそれだけではないんだってばあ」
「…………」
く、くるしい……、これ以上なんて言ったら良いんだ。
二俣城方面での戦闘があったちょうど三日後、ついに徳川全軍が渡河したという連絡が、才蔵配下の者よりもたらされた。浜松城から北北東に約二〇キロ、平野の端に二俣城があり、浜松城から二俣城に向かう道筋東側の天竜川までは三キロから五キロほどだ。何処までも平坦な地で、視界を遮るものは何もない。南北なら日差しも関係なく、先に陣取りをするような意味のある場所など無いのだ。
「殿、全軍定位置に付きました」
「よし」
豊臣方は浜松城から離れ、北に向かって陣を敷いた。多分家康殿もわが軍と同じような陣形をとるだろう。
徳川・伊達同盟軍
島津義弘 宇喜多秀家 加藤清正 真田幸村 黒田長政 長曾我部盛親
一六〇〇 二二〇〇〇 六〇〇〇 二〇一〇〇 七〇〇〇 八六〇〇
大谷吉継 豊臣秀矩 福島正則 小西行長
三六〇〇 六七九〇〇 七〇〇〇 六〇〇〇
徳川家康はこの付近、三方ヶ原の戦いにおいて鶴翼の陣形で、武田信玄・魚鱗の陣形と戦闘し、惨敗しているということです。
大軍の武田勢に対してなぜそのような陣形をとったのか。それに対し数に勝る武田軍が魚鱗と、双方逆のような感じです。
いずれにせよ、その後の関ケ原では自信の表れか、それとも地形でそうなってしまったのか、鶴翼に近い陣形の西軍に対し、家康はオーソドックスな陣構えで臨んでいます。
家康が三方原で信玄と戦い惨敗したという話なんですが、敗因は諸説あってどれももっともらしく、本当のところは分かりません。
だけど、家康は戦うつもりなど無かったが、物見に出ていた部下が小競り合いを始めてしまい、彼らを城に戻そうとしている内に戦闘に巻き込まれてしまった、という説。
私はこれが案外真実に近いのではという気がします。
ただ浜松には「やらまいか」という言葉があります。やってやろうじゃないかといった意味です。遠州の方言だということですが、あれこれ考え悩むより、まず行動しようという進取の精神だという事のようです。
浜松城主だった家康にも、若い頃にはそんな気質があったんでしょうか。後の世に言われる「鳴くまで待とう時鳥」とはイメージが違います。
目の前を悠然と横切っている武田軍を前に、やってやろうじゃないかと家臣達の反対を押し切ってまで飛び出して行った。ちょっと軽いけど、忍の一字より絵になっていると思うのですが。