2-03.魔法陣の模擬実験(後編)
ニャン助は身を固めていた。
なにしろ、眼前にひろがるのは惑星規模の大災害である。いくら模擬実験用の模造世界であっても、この世のものとも思えないほどの悲惨さだ。身体を震わせてしまうのも無理はない。
『……と、とんでもない威力だねぇ』
「ああ、魔法陣の破壊力は凄まじい。以前、ニャン助には地球に落ちた巨大隕石のことを話しただろう? 今回の魔法陣の破壊力はそれと同じくらいなのだよ」
フゲンが云う巨大隕石。
それは白亜紀末に地球に落下して恐竜たちを絶滅させた原因でもある。
大きさは直径十~十五キロメートル。隕石というよりは山のような小惑星で、それが秒速二十キロもの猛烈な速度で地上に激突した。
この隕石は半径一千キロ圏内のものすべてを吹き飛ばす。
超高熱と衝撃波が地表にあるあらゆるものを薙ぎ払い、分厚い岩盤を砕き割って地中深くのマグマを噴出させたのだ。
隕石の悪影響はそれだけではない。落下以降、長期間にわたって大規模な環境変化をもたらしたのだ。
まずは太陽光の遮断である。
原因は大量に舞い上がった土砂や灰の類が大気を覆ったためである。この塵芥の層は分厚いうえに、何ケ月ものあいだ空中を漂い続けたので、日照量は極端に減少した。
その結果、植物や光合成するプランクトンたちが死滅してゆく。
食物連鎖の下層部を支える彼らがいなくなれば、必然、他の生物たちも影響を受けることになり、動物や昆虫たちの多くが飢え死んだ。
別の環境変化では酸性雨がある。
隕石落下の地点はユカタン半島であったのだが、ここの土壌には石灰岩や石膏が含まれており、これらが高熱で蒸発して硫酸ガスとなった。大量に発生した酸性のガスは空中の水蒸気に溶け込み、やがては酸性雨となって地上や海洋に降りそそぐ。強い酸性は生態系に大打撃を与え、生き残った者たちを苦しめた。
他の環境変化はほかにもある。日照不足による寒冷化、さらに惑星規模での大火災の影響で大気中のオゾン層が破壊されるなどで、その影響は多岐にわたる。
これら天災が複合的に重なった結果、地球上の生物は壊滅的な損害を受けた。
白亜紀当時に生息していた生物の種レベルで約七割以上が断絶、全生物個体数の九割以上が死滅する。
まさに大量絶滅というしかないほどの悪影響を巨大隕石は与えた。
「それでも、地球の生物は生き残ったんだよ。こんな壊滅的な厄災にあっても生き物たちは消滅なんてしない。惑星を揺るがす程度の威力では生き物を全滅させることは無理なんだ。魔法陣がどうこうというよりは、生物のしぶとさのほうが優っているからね」
生物というものは本当に強かだ。
とにかく、“生命”は生き残ることに関しては卓越した能力をもっている。フゲンが知るかぎりの範囲だが、どの世界であれ一旦“生命”が定着すれば
彼らは増殖し、必ず繁栄する。
“生命”が完全に死滅する事例は極端に少ないのだ。
事実、地球の生物たちは生き残った。
わずかばかり残った者は細々と、しかし確実に次世代へと命を繋いでゆく。やがて、“生命”は恐竜時代をも凌駕する大繁栄を迎えることになる。
「 本当に“生命”は頑強だよ。彼ら生き物の生存能力は賞賛に値する。どれほど厳しい環境でもそれに適合してゆく“しなやかさ”を持っているんだ。もう、天晴と云うしかないくらいだね」
フゲンは“生命”の強さを褒めたたえる。
その言葉にはあたたかいものが含まれていた。彼が“命あるもの”に対して深い愛情を持っていることが窺い知れる口調である。
それを聞いたニャン助は軽く尻尾を振った。
フラフラと揺れるそれは不満を示す合図でもある。
『あるじぃ~。それじゃあ、ボクたちのお勤めが果たせないよ。すごく偉い人から“大切なお仕事だ”って言われたから、ボクは一所懸命やっているのに。お勤めができなかったら叱られてしまうじゃないか。そんなのイヤだよぉ』
ニャン助は己の仕事について強い誇りをもっている。
なにせ“すごく偉い人”、つまり【神にも等しき者】から直接に頼まれたのだ。憧憬をもって仰ぎ見る相手から頑張ってねと言われれば奮い立たずにはいられない。これ以降、ニャン助は矜持をもって己の役目を務めているのだ。
フゲンは、黒猫が抱く気持ちを知っている。また、彼の使命感を尊重もしていた。
本来、猫という動物は自由を好み、束縛を嫌うものでニャン助とて例外ではない。だが、こと己の役目となると、彼の相棒はひたむきに取り組むのだ。そんな気持ちを無碍にはできない。
「そうだね、私も叱られるのは嫌だよ。でも、そんなに心配しなくても大丈夫。なぜなら、魔法陣はひとつだけではないからね。
ホラ、思い出してごらん。私たちは長い時間をかけて世界中を巡り、あちらこちらに魔法陣を設置してきたじゃあないか」
『……そっかぁ。そうだね。ずいぶん長い間、同じことばかりやっていたからすっかり忘れていたよ。うん、思い出したぁ。ここに来る前はずっと海の上でのお仕事だったよね。ごはんはお魚ばっかりだったから、ボクは大満足だったよ』
ニャン助が云う海の上、それは赤道直下の海洋のことだ。
フゲンたちが現在の土地に来る前、ふたりは海上で生活していたことがある。魔法陣設置のためなのだが、周囲千数百キロの範囲内に陸地がなかったのだ。
仕方なく、フゲンは海上に活動拠点を設営した。強力な天使権能を持つフゲンだからこそできる無茶な力技である。
「いや、ニャン助。それは勘弁してくれ。毎日三食が魚料理だなんて、私にとっては地獄の生活だったよ。しばらくの間、魚を見るだけで吐きそうになったくらいだからね」
フゲンはゲッソリした口調で苦言を呈した。
彼にとっては思い出すだけで陰鬱な気分になるくらいに単調な食生活だったのだ。海上に設置した活動拠点での食料調達は容易ではあったが、その内容は海産物ばかりで変化に乏しい。
彼は単調な食事事情に心底から閉口したものだ。一方のニャン助は海上の食生活に満足していたのだが……。
ちなみに、魔法陣の総数は十二個だ。
フゲンたちが設置作業のために訪れた場所はいずれも過酷な自然環境であった。
例えば、南と北の両極部の二か所。
真っ白な雪原が延々と広がる美しい場所だが、ひとたび天候が荒れれば極寒の地獄と化す。ただでさえ気温が低いのに、強風が吹けば人の体温を情け容赦なく奪ってゆく。しかも、吹きすさぶ氷雪は視界をふさぎ、方向感覚を失わせる。下手をすれば、自身の位置把握ができなければ迷ったあげくに凍死してしまう。
他には、七千メートル級の山々が連なる山岳地帯。
気温の低さと酸素濃度が薄いせいで身体の動きが鈍りがちになる。さらに険しい地形なため平らな場所などは皆無だ。うっかり足を滑らせてしまえば、あっという間に数百メートル下まで落下してしまう危険が常につきまとう。
他にも、マグマの柱を立ち上らせる火山の麓や、数百キロ単位で広がる密林地帯などで、彼らふたりはいずれも厳しい環境で仕事を続けてきた。
『ねぇ、あるじぃ~。たくさん魔法陣があれば、ボクたちのお勤めを果たせるんだね。失敗して叱られたりしないぃ? 』
「ああ、だいじょうぶだよ。よけいな邪魔がはいらず、計算通りに発動すれば私たちの仕事は達成できる。だから、安心していいよ」
ニャン助が言う“お勤め”。
それはフゲンの上司である【神にも等しき者】から発せられた業務命令のことだ。その内容は次のとおり。
(一)“この世界”に存在する生物をすべて消去すること。
(二)対象は人間ばかりでなく動・植物から細菌やウイルスの類に至るまで。
(三)準備には時間をかけてよいが、いったん始めればごく短時間で完了させること。
まったくもってとんでもない業務命令である。すべての生物を完全に消去するだなんて、あまりにも悪辣すぎる。
おまけに、“ごく短時間で”という時間的条件が難易度を高くしている。
これが数年~数十年の時間単位なら少しは楽であろう。しかし、彼の上司である【神にも等しき者】はそれを許さず、短時間で完了させることを厳命した。
時間的条件について、フゲンは具体的な数値を尋ねてみた。上司からの答えは思いもよらぬほどの厳しいものであった。それは“一時間以内”という大変に難しい条件であり、これにフゲンは思わず頭をかかえてしまう。
それも当然だ。“この世界”の大きさは直径約一万三千キロと地球とほぼ同じである。一周するだけでも結構な時間がかかるほどの大きさなのだ。ましてや、そこに生きる者すべてを完全に消去するだなんて無茶に過ぎる。
この業務命令を告げられたとき、フゲンはこれを断った。
彼は己の事を下っ端天使を自認しているし、そんな階梯レベルの者にしてみれば、あまりにも過重な任務内容である。
彼は土下座をせんばかりの勢いで頭を下げて、この業務命令を拒絶した。挙句の果てに、【神にも等しき者】との会談場所から逃げ出そうとしたくらいである。
しかしながら、最終的にフゲンはこの業務命令を受ける。
【神にも等しき者】から懇々と諭されたためであり、彼は仕方なく引き受けざるを得なかったのだ。
そんな経緯があって、フゲンは今ここにいる。
頭の片隅で無茶ぶりには困ったものだとボヤキながらも、彼は模擬実験の状況把握に努めていた。
「ふむ、消滅領域の広がりに偏りがあるな。原因は重力場偏向が生じているせいだな。混沌化現象による影響は当初予測よりもはるかに大きい。魔法陣側の調整が必要になるな」
フゲンはあれこれと思案をはじめた。
予め予測していた計算値と模擬実験で得られた実測値との間に差異があったためだ。その原因について思いつくままに考えを巡らせる。
一方で、ニャン助は大きく欠伸をしていた。
彼の役目は実験結果の数値を収集することで、データから推測や検討することではない。
『ねぇ、あるじぃ。そろそろ終わろう~。ボク、お腹すいちゃったよぉ』
ニャン助が空腹を訴えたのも当然だ。
模擬実験を始めてからかなりの時間が経過していたからで、予定の終了時刻を大幅に超えている。しばらくの間、黒猫は我慢していた。フゲンに付き合って実験場に留まって待機していたのだけれど、さすがに食事抜きには耐えられない。
「ああ、これは悪かったね。さっさと、ここから出て晩御飯にしようか。それに、明日はランとの約束もあるから、早めに起きないといけないしね」
『うん、そうしよう。はやくご飯をたべたい。でも、明日はちゃんと起きてよね。主は目覚めが悪すぎるし、それを起こすボクの苦労をわかってほしいなぁ』
「ああ。そのへんは善処しよう」
フゲンは自信なげに頭を掻く。素直に“はい”と返事しないのは己の行いに自信がないせいだ。善処などと小難しい言葉を使ってニャン助を韜晦するあたり、大人の狡さである。
ふたりは実験場の後片付けを始めた。
晩御飯の献立はなにが良いかと他愛ない会話をしながら、データの保存やら環境保全の仕掛けを施してゆく。亜空間に設えた模擬実験場から出る。
ニャン助は明日が待ち遠しかった。
『はやくランお姉さんに会いたいなぁ』
彼にとってランは戯れの相手である。
仕事の仲間ではなくて遊び友達だ。彼はユラユラと尻尾をゆらしながら、何をして遊ぼうかなと考えていた。




