1-24.騒動の顛末と
周囲にあるのは果てしなく広がる空間。
視界を遮るものは何もない。光量は少なくて薄暗いが、真っ暗というわけではなくて淡いエメラルドグリーンの光が瞬いている。ここは唯々ひたすらに幻想的で美しい場所だ。
フゲンは意識空間にいた。
ここは現実には存在しない場所。限られた者だけが認識できるところだ。
「……というわけで、水妖の生息域調査は後続部隊に引き継いだ。範囲は広いし水妖の生態は不明だから時間は結構かかると思うな。ちなみに、対象のサンプルは格納結晶体に取り込んで本部の研究チームに……」
フゲンたちが水妖を発見してから三日間が経過している。
彼らはレンド少年を助けた後、調査局本部に応援部隊の派遣を要請。すぐさま、野外調査や魔物対策などの専門チームがやってきてテキパキと事件の後処理を行った。
フゲンが説明している相手は調査局の局長。
名前はマッシュ・ゴーシュといい、理知的な雰囲気を漂わせる男性である。気かけの年齢は三十歳前後でフゲンと同年代に見えるが、彼らはふたりとも天使であり見た目どおりの年齢ではない。
「その後の動きについて現地から経過報告がきている。まずは開拓村全住人の死亡については、冒険者組合経由で領主に伝達済みだ。合わせて、領主からは遺体回収の業務を請け負った。被害者の埋葬も現場で行うつもりだ」
「それはよかった。少しばかり気になっていたからね。私からの概要説明はこんなところかな。後日、詳しい内容はちゃんと報告書にまとめて提出するよ」
フゲンの役職は“独立”調査官だ。
組織上、彼は完全に独立して行動する権限を有しているし、実際に自分の判断で活動している。彼はマッシュ局長の部下ではないし報告の義務もない。
とはいえ、全くの無関係というのも拙い。同じ調査局に属しているのだし、何よりも魔物やそれに関連した異常事態については情報共有すべきだ。ゆえに、彼は公開できる範囲で状況を伝えるようにしている。
一方のマッシュ局長からすればフゲンは扱いづらい。
彼はフゲンの配慮を認識しているし感謝もしているが、なにかと困る存在でもある。なにせ、自分が管轄する領域内で勝手気ままに動き回るのだから。制御下にもないし命令もできないのだ。
局長にしてみれば、フゲンからの報告はすべてではない。一部が欠けているが、それを咎めることもできない。
マッシュ局長は内心で不愉快さを感じている。とはいえ、それを表に出すほど愚かではなかった。彼は完璧に大人としての対応をしている。
「ところで、新人のラン三等調査官の様子はどうだ? 」
「ああ、イイ感じだね。さすがに“期待の大型新人”と評価されていただけのことはある」
フゲンはランに対して高評価を与えていた。
根は素直だし潜在的な資質も悪くない。経験を積み重ねればさぞかし優秀な天使になるだろう。ただ、考えるよりも先に身体が反応するタイプだし、直情的な面が強いのが気になる程度かなと、彼は付け加える。
なるほどとマッシュ局長は満足そうに笑った。
彼は優秀な人材を寄越すように中央本部にごり押ししたのだ。なにせ、この地は慢性的に人材が足りておらずどの部門でも欠員が多い。
人的不足を補うためには、ひとり当たりの稼働時間を増やすしかない。だから、みんな過重労働でたいへんなのだ。
新人天使であってもランのような優秀な人材を確保できたのは僥倖だったと、マッシュ局長はうなずいた。
「それにしても驚いたぞ。フゲンが新人天使の教導役を自ら買って出たのだからな。お前は自由勝手に動くタイプだし、人を教育するなんて柄じゃない。それこそ、雨の代わりに槍でも降ってくるのかと思ったくらいだ」
「なんて酷い言いざまだ。確かに私には不向きな役どころなのは認めるけどさ。まあ、ランの縁者には世話になったことがあってな。その間接的な恩返しの意味もあって教導役を引き受けた」
「で、彼女はお前のことを覚えていたか? 」
「いや、気づいていない。というか、彼女には記憶すら残っていないだろうな」
実は、フゲンとランは初対面ではない。
彼らが人間であった時代に出会っていたのだ。ただし、彼らの名前は今とは違っている。姿かたちも身なりも大きく変化していた。
彼らが天使になる前、軽くあいさつを交わした程度の関係でしかない。
フゲンの言葉を聞いて、マッシュ局長は感に堪えないといった表情をする。
「えらく義理堅いことで。前世のことなのだから忘れ去っても良いだろうに。まあ、局長としては教育係を探す手間が省けたから文句はないさ」
「私の気まぐれだと思ってくれ。とはいえ、彼女が一人前になるまで面倒をみるつもりだ。中途半端に放り出すような真似はしないよ」
フゲンは軽く言葉を返す。表面では軽い気持ちで教導役を引き受けた態を装っているが、彼は真剣そのものである。
ランが独り立ちできるまでキッチリと指導するつもりだ。彼としては昔の恩義に報いる機会であり、いい加減な対応をする気はない。
幾ばくかのあいだ、彼らは無駄話をしていたが、次の予定があるからといって会談を終了させた。
幻想的で美しかった空間が溶けてゆく。エメラルド色をした淡い光が瞬いていたが、それもゆっくりと消える。
先刻まで清らかで澄みきった空間が、今ではホコリが舞い散る猥雑な場所へと変化した。静寂でありながらも穏やかな雰囲気であったのに、窓の外からガヤガヤとした騒音が聞こえてくる。
意識世界から現実世界へと戻ってきたのだ。
マッシュ局長はフゥと大きく息を吐く。
彼が座っているのは立派で大きな革張りの椅子。
眼前には木目の美しいデスク。事務用にしてはあまりにも大きなサイズの机なのだが、そのうえには乱雑に紙が散らばり、書類が山のように積み重ねっている。
壁の一面は全部が書棚になっていて、そこには書類やら書籍やらは隙間なく並んでいた。
調査局局長ともなれば書類仕事から逃れることはできない。
絶大な天使権能を所有し、数多くの天使たちを動かす指揮権を持っていても、彼は管理職なのだ。責任ある立場であるがゆえに、事務処理の責務はつきまとって離れることはない。
マッシュ局長は卓上に置いてある銀製の呼び鈴を鳴らした。
「意識空間での会談は終了した。次の面談予定者を部屋に通してくれたまえ」
控室にいた秘書官は執務室の扉を開けて了解した旨を告げる。さほどの時間も待たずに、秘書官は“お連れしました”と来訪者を案内して部屋に入ってきた。
次の面談予定者は年若い女性だ。
彼女は端正な顔つきな美人さんなのだが、どちらかというと可愛らしい印象のほうが強い。というのも、大きな瞳が特徴的であり、それがクリクリとよく動くものだから愛嬌を感じさせる。
ショート・カットの髪型と引き締まった身体つきからすると活発な性格なのだろう。さらにハキハキした物言いからもそれが窺い知れる。
「失礼いたします。三等調査官ラン・ラムバー、参上いたしました」
「待たせてすまなかったね。楽にしてくれ」
マッシュ局長はランを座るように促す。
彼は、先客との会談が長引いてしまったのだと詫びた。少々込み入った事柄が多くて慎重に対応せねばならないし、どうしても時間がかかってしまったのだ。しかも、相手は旧知の仲だったのでついつい話し込んでしまってねと、マッシュは詫びの言葉を口にした。
「で、ラン三等調査官。初任務を済ませたワケだが、その感想はどうかね? 」
「なんとか完了させることができてホッとしています。ただ、想定外の事案に遭遇したので慌ててしまいましたが」
ランは問われるままに感想を口にした。
当初の計画では辺境部での環境調査であったはずなのに、予想外の出来事に困惑したと正直に述べる。
最初に訪れた開拓村の全住人が行方不明であったのだ。しかも、最終的には生存者一名を除いて村人三百人余りの死亡を確認する。
初任務にしては実にショッキングな出来事であり、彼女はこの世界の異常さを思い知らされた。
局長はランの率直な感想を聞いて、それは災難だったねと労った。
慣例として、初任務の者には簡単な仕事を宛がうことになっている。この世界の仕事が過重でどの部門も人員不足であるが、さすがに新人天使に無理はさせない。
ランは貴重な新戦力であり大切な補充要員なのだ。大切に育成する予定だし、こんなところで使い潰すつもりなんて毛頭もない。
「たしか、君の教導役はフゲン独立調査官だったね。彼の指導はどうだったかね? 」
「はあ、なんというかひと言では言い表せないですね」
ランは言い淀んでしまった。
フゲンはどう表現すれば良いか困る人物なのだから。
彼女のフゲンに対する第一印象。
それはデリカシーに欠ける馬鹿男というものであった。彼は野外で彼女のサリーサイズをわざわざ言葉にして発したのだ。無神経にもほどがある。
ましてや、彼女が気にしている体重の数値を大声で叫ぶなんて許せない。ヤツは繊細で傷つきやすい乙女心を踏みにじった。女性の敵であると断定しても良いだろう。
しかし、ランは彼のことを優秀であるとも評価していた。
彼の言動の端々から察せられるのは、経験と実績に裏打ちされた能力の高さだ。
しかもフゲンは寛容さを併せ持っている。
彼がランに語って聞かせたのはユニークな失敗論であった。
それはスキーに例えたもので、怪我をしないためにも上手に転倒する方法を身につけよという内容だ。若いうちなら、何度も転倒することを善しとする。
フゲンが言うには、後輩の失敗は先輩がリカバリーするのが当たり前らしい。
そんなことはなかなか言えることではない。どんな失敗であれ、キッチリとフォローしてやると言える者は希少だ。それもあって、ランは彼を高く評価している。
マッシュ局長はランに質問を重ねた。
何か不自由を感じることはないかとか、武器や防具などの装備に不都合はないかなど、彼女を気遣うような内容ばかり。新人を大切にしようとする気持ちの表れであった。
「では、最後にひとつ頼みたいことがある。フゲン独立調査官の行動について、細大漏らさず私に報せるようにしてもらいたい。
研修期間中、君は彼と行動を共にするが、彼の言動についてできるかぎり記録し、それらをまとめて報告すること。わかったかね? 」
「了解しました。研修中の活動については報告書の提出が義務づけられています。それをこちらに届けるようにします」
「いや、そうではない。私が“細大漏らさず”と表現したのは別の意味を含んでいる」
マッシュ局長はフゲンの言動をすべて把握したいのだと強調した。
ちょっとした台詞や言葉の端々から推測できること。あるいは、言葉にしていなくても態度から類推できること。それらを逐一報告せよとの命令である。
「そのご指示はフゲン調査官をスパイせよとの意味でしょうか? 」
「君ができるならね。まあ、そこまで専門性の高い諜報活動は期待していない。あくまでも、できる範囲でやってくれればよい」
マッシュ局長は大仰に感じる必要はないと語った。
彼がランに求めるのは、フゲンの言動をこと細かに記録し、それらをまとめて報告するだけ。下手に欲を出して秘密を暴こうとかする必要はないと、局長は彼女に注意した。
ランはそれを聞いて困惑する。
マッシュ局長の意図を図りかねていたからだ。
「あ、あのぅ。ご命令の目的をお伺いしたいのですが? 」
「勝手気ままな猫には鈴をつけておきたいのさ。フゲンは独立調査官だ。役職上、彼は好き放題に動き回ることができるが、それでは私が困るのだよ」
フゲンは文字通り“独立”した調査官だ。
彼は自身の権限と責任において自由に活動ができる。自分で調査の対象や内容を決定し、誰からの指示や命令を受けることはない。組織的な意味でも、フゲンはマッシュ局長の部下ではないのだ。
「私は彼の活動を把握しきれていない。認識できているのはごく一部だけだ」
フゲンには秘密が多い。
彼は各地で調査活動しているが、基本的に単独行動なうえに自身の行為を秘匿している。そのため、彼がどこで何をしているかは誰も知らないのだ。
例外はニャン助であるが、あの黒猫はフゲンの眷属なので情報を漏らすことは絶対にない。
つまり、フゲンの活動内容が公になるのは、彼が調査局本部に報告した場合のみだ。
フゲンが己の行動を隠すのには理由がある。
彼の上司である“神にも等しき者”から機密保持を厳命されているのだ。もっとも、そんな指令がなくても彼は誰にも口外するつもりはない。なにせ、彼が受けた命令がとんでもない内容だからである。
フゲンの真の仕事は、この世界の生物すべてを完全消去すること。
対象は、人間だけではなく動物から細菌やウイルスの類に至るまでのすべて。この地に存在する一切合切を無に帰すことなのだ。
彼が自分の活動を秘密にするのは当然だ。
これが他の天使たちに知れたら彼は非難される。それどころか、彼の仕事は妨害される可能性が高い。
最悪の場合、彼は強制排除(肉体的な死)されるかもしれない。まあ、天使の本体は精神的存在だから“死”は肉体を失うだけで、いつでも復活は可能であるが。
とにかく、彼としては“真の仕事”は秘匿すべきなのだ。
もちろん、マッシュ局長もフゲンの“真の仕事”を知らない。調査局局長は強い権力と幅広い権限を持つが、それでもマッシュはこれを把握できていない。“神にも等しき者”が局長にも知らせないと決定したためだ。
「私はね、フゲンが独立調査官であることに疑問を持っているのだ。一部とはいえ、彼は己の活動を秘密にしている。彼に問い質してもまともな返答は得られない。
ゆえに、彼の言動から推し量る必要がある。その判断材料となるのが君からの報告だ。彼の行動を細大漏らさず報告してほしいのだよ。判ったかね? 」
ランは厄介なことに巻き込まれたと思った。
新人の自分になんてややこしい命令するのかと内心で悪態をつく。とはいえ、上司からの命令は受けざるを得ない。彼女は組織最下層でペーペーの新米天使であり拒否権はないのだから。
「……、はい。了解いたしました。局長のご命令どおり、フゲン調査官の言動について報告するようにいたします」
ランは内心でため息をつきながらも返答した。
今後、彼女はフゲンと一緒に仕事しつつ、彼の活動を監視することになる。彼との関係は複雑なものになるだろう。先輩後輩といった単純な接し方はできない。
そういえば、次にフゲンと合流するのは一週間後の予定だ。
さりげない態度で再会できるか自信がない。彼女は気鬱な思いを抱いたままマッシュ局長の執務室から退出した。




