1-10. 辺境部にむかって
フゲンは空を飛んでいた。
聞こえてくるのは身体が空気をピュウピュウと切る音と、衣服が風に煽られてバタバタする音だけ。かなり高度をとっているので、地上からの雑音はここまで届かない。
彼は背後を振り返り、追随してくる人物の様子を確かめた。
「うん、ランはまったく問題ないかな。むしろ、空を飛ぶのは性に合っている感じだ。地に足がつかないことに恐怖心を持たない点もいい」
ランは危なげなく風乗り板を操っていた。
ときおり右へ左へと蛇行するのだが、それは操作ミスではない。気まぐれに吹きつけてくる突風を上手にいなし、それを楽しんでいるだけ。
彼女の動きはとても初心者には見えない。実のところ、彼女は飛行訓練を初めて一週間ほどしかたっていないが、充分に乗りこなしている。もともと持っているセンスが良いのだろう。
フゲンもランも風を受けて愉しんでいた。ふつうなら防風防寒用の魔法を使うだが、今はそれらを展開していない。直接、風を肌で感じていたいからだ。
以前、フゲンが防風防寒魔法なんて野暮だと主張したことがある。
これを聞いたランは同意したばかりか、空気の流れを体感してこそ空を飛ぶ醍醐味だと断言した。思わぬところで意見が合致したふたりは意気投合する。
今回の風乗り板での移動は、防風防寒用の魔法を使わないこととなったのだ。
とはいえ、空の上はかなり寒い。飛行高度はそれなりに高くとっており、上空の気温は冷たいからだ。さらに、時速百キロほどの速さで移動しているので、正面から受ける風が体温を容赦なく奪う。
地上と同じ装備で飛行すれば、間違いなく低体温症で意識を失ってしまう。
だから、彼らは特別な装備を着用していた。
それは温度調節機能付きのアンダー・ウエアと飛行帽で、耐物耐魔法にも優れており、下手な防具よりも頼りになる。手先を守るグローブや防風ゴーグル、ロング・ブーツも同様の特別仕様だ。
見た目こそ地味だが一般人では入手できない装備で、正確には天使だけが持つ品々である。
フゲンはもぞもぞと動く胸元に視線をむけた。ベストから頭を出したのは彼の相棒であるニャン助で、寒そうにブルリと身体を震わせる。
なにせ、猫というものは寒いのが苦手だ。空の上は気温が低いので、空中移動時のニャン助はフゲンの懐のなかに収まっている。
フゲンが着込んでいるベストの内側には専用ポケットがあって、その中は快適そのものだ。ベストに付いている温度調節機能のおかげで温かいし、ポケットの適当な狭さは安心感をもたらしてくれる。
『ねぇ、あるじぃ~。ボクたちどこにむかっているのかなぁ? 』
「目的地は辺境部にある集落だよ。覚えていないかい。周辺の植生や生き物のデータをとるために半年に一度、定期的に訪れている場所だ。
今回、ランに調査作業を手伝ってもらう予定でね。これはOJTといってね、彼女に仕事を覚えてもらうための現場研修なんだよ」
『ふ~ん、ランお姉さんはお勉強するのか。たいへんだねぇ』
フゲンはニャン助が疲れ気味なのに気づいた。
黒猫の口調は退屈そうだし、いつもの軽妙さがない。じっとしているのに飽きたのだろう。
「そろそろ休憩にしようか」
フゲンはランに片手を振り、地上を指し示す。それは地上に降りるとの合図。彼らは休憩に適した場所をみつけて、徐々に高度をさげてゆく。
彼らが着地した場所は山腹中央部にある空間だ。そこは南北に細長くのびた平地。北側は切り立った崖がそびえており、反対の南側は生い茂る木々が続いている。
着地するや否やニャン助はフゲンの胸元から飛び出した。
筋肉が凝り固まっていたようで、しっぽを立てて、前後に体躯を伸ばす様子は気持ちよさげだ。前脚やら身体を舌で舐めまわして毛づくろいを始めたのは、ストレスを解消するため。気が済むまで自由にさせるべきだろう。
フゲンは腰のバインダーから一枚の術符を引きちぎる。
それは火をおこすためのもので使い捨てだ。魔力を術符に通してお湯を沸かし、携帯カップに茶葉を放り込んでお茶を用意した。冷えた身体に温かいお茶は実にありがたい。
「ラン、空を飛ぶのには慣れたかい? 」
「すこぶる快調だわ。ほんと風乗り板に乗るのって最高。この調子なら習熟期間あっという間に終わると思うし、はやく次の段階に進みたいわね」
ランの飛行訓練は第一段階の途中だ。次の第二段階は戦闘技術の取得が目的になる。
飛行しながらの戦いは体力・気力・魔力の消耗が激しいので、通常の飛行操作に慣れていないと空中戦はできない。
それゆえに、習熟期間として飛行経験百時間を設けている。現在のランは着々と飛行時間を積み重ねている最中なのだ。
「うん? ランに飛行訓練のカリキュラムを説明した覚えはないけど」
「えへっ。毎晩寝る前に【情報挿入】で予習しているのよ~。はやく風乗り板を乗りこなしたいからね。
ついでに言うと、調査官心得や調査業務手引書もインプット済み。どう、わたしってすごいでしょ」
【情報挿入】、それは情報を脳の記憶野に直接転写する高位魔法だ。
利点は学習時間が極端に短いことにある。さらに【天界通信網】を通じて情報を伝達するので、書籍のような物理的媒体が不要なこともメリットだ。
ただ、この【情報挿入】は万能ではない。
情報を脳に定着させるためには、追加認識の作業が必要になるからだ。例えるなら、動画で連立方程式の計算法を見て覚えた気分になっても、いざ数学のテストになると解答できないのに似ている。
いくつも問題を解き、実際に体験しないと身につかないのと同じだ。この魔法は便利だが、それなりに習熟するための作業を要する。
とはいえ、勉強嫌いの者にとって夢のような魔法であるのは事実。ただし、ランたち天使だけが使用している。人間に秘匿しているのは人類の進歩発展を妨げるのが理由だ。
「ほう、自ら進んで予習するとはたいしたものだ。教導役としては、生徒ができる子だと楽できるし嬉しいかぎりだね。もしかして、ランは夏休みの宿題を早めに済ませる子供だったのかい? 」
「そうね、宿題をさっさと済ませて、余った時間を思いっきり遊んでいたわ。わたしは短期集中で課題解決するタイプなのよね。今にして思えば、面倒なことを早めに片付ける性格なのは子供のときからかな。そういうフゲンはどんな感じの子供だったの? 」
「私はいつも夏休みの宿題に苦労していたよ」
フゲンいわく、幼少期の彼は事前に宿計画をたてるのだけれど、思い通りに進んだことはないとのこと。自分の関心があるものばかりに意識が向いていたらしい。自由研究だけに時間をかけてしまって、他の宿題に手がまわらなかった。夏休み最後の一週間で追い込みをかける残念な子供だと、彼は思い出し笑いをする。
その後、彼らは子供の頃のエピソードを語りあった。
天使となった今では、子供時代のできごとなど楽しい思い出だ。当時は辛いと感じていたことでも振り返ってみればコップの中の嵐でしかない。なんてこともない微笑ましいエピソードと化している。
フゲンは語り続けながらも、林のほうを見やった。
その動作はさりげなくてランの注意を引くものではなかったが、フゲンの視線はかなり遠方まで届いている。
「ランは【情報挿入】で調査官心得や調査業務手引書を予習したと言ったね。内容もしっかりと頭に叩き込んでいると思って間違いないかい? 」
「ええ、ちゃんとインプットしているわ。それに第二段階の訓練内容もバッチリよ。
でも、今そんなことを質問するなんてどうしてなの? 」
「お客さんが来た。それも招かれざる者たちのようだ」
「え、誰かきたの? でも、なんでフゲンは判ったのよ。周辺警戒用の魔法を展開していなかったでしょうに。ほんとに、その“招かれざる客”が近づいているのかしら? 」
「ああ、確かに何者かが接近してくる。別に魔法に頼らなくてもその程度のことは判る。私の勘は鋭いからね」
フゲンは自信たっぷりに断言した。魔法以外の方法で危機を感知する術を持っている。彼はそれを“勘”と表現しているが、そんな曖昧模糊としたものではなく、彼のしっかりとした技術であった。
「ランには良い機会だから、現場研修の一環としてテストをしよう」
フゲンはランにテスト用状況として次のような設定をした。
当初の目的は山間部の生物分布の調査とする。この任務を遂行している最中に正体不明の生物が接近してきた。ランはこれに対応する必要に迫られている。
なお、現在の彼女は単独行動中であり同行者はいないものとする。なので、フゲンをあてにせず自分自身の判断で行動すること。
「ランにとっては初の実戦となるが、落ち着いて対応すれば問題ないはずだ。以上だが確認したいことはあるかね? 」
「いえ、ありません。これからすぐに対応します」
ランは言葉少なく返事する。その口調は上官に対して敬意を示す言葉遣いであり、普段のタメ口ではない。訓練として行動するのだから、彼女は己の言動を切り替えたのだ。
ランは辺りを見渡して周囲の地勢を確認する。
前方には生い茂る木々が連なり、彼女の背後は崖になっている。彼女が立つ場所は林と崖に挟まれた平地で、左右に伸びた形だ。
彼女は万一に備えて退路を想定する。戦闘前に退避のための経路確認は必須だ。何も考えずに敵へと突っ込むような真似をしてはいけない。
理由は彼女を上回る強敵がいるかもしれないから。あるいは、何らかのアクシデントが発生して退く可能性もある。
天使である彼女は強者であり大概の魔物や生物を撃退できるが、その強さはあくまで相対的なものでしかない。ゆえに事前の退路確認を欠かしてはならないのだ。
ランは茂みで身を隠しながら静かに前進する。索敵用魔法の展開も忘れない。
使用する術式は【集音】と【熱源探知】の二種類で、探査方法が違う魔法を組み合わせているのは、見逃しを防ぐためだ。
彼女は近づいて来るモノを発見した。方向は二時の方向、約百メートル先。
相手に見つからないようにしながら、前方の生物を観察した。




