1-06.天使と人間の違い
ランは、ニャン助とのじゃれ合いですっかり満足していた。
その表情は妙にすっきりとしているのは、充分にモフモフを堪能したからだ。
ただ、一方で少々バツの悪い思いもある。
自分の行動は大人げなかったし、褒められたものではないとの自覚があるからだ。それをごまかすように、ランはその場しのぎの質問をした。
「そ、それにしても“ニャン助”なんてずいぶんベタな……し、失礼。ずいぶん和風な名前ですね。もしかして、フゲンさんの出身って…… 」
「ああ、そうだよ。私は君とは同郷だ。君が天使にスカウトされる前、つまり君が人間として生活していた国は私の生まれ故郷でもある。しかも、国だけではなく時代も重なっている」
フゲンは、ランと同郷だから自分が共同訳に選ばれたと告げた。
同じ出身地の者だと、思考パターンや感性といったものが似通っているので、何かと都合がよいのが理由だ。
物事の捉え方や感性などが近しいうえ、社会的な一般常識や習慣、文化文明に関する情報、科学技術についての知識など、共通するものが多い。同郷の者同士であれば互いの意思伝達が円滑だしストレスは少ない。
そのうえで、フゲンは最後にひと言つけ加えた。
“まさか、【亀千流】(決して“仙”ではなく“千”である)だとか、や【ワキワキ波】(くどいが、ハワイ王国の初代国王の名前ではない)なんて言葉をランが出してくるとは予想外だったがね“と彼女に追討ちをかける。
ランは彼のひと言を聞いて苦笑いした。
自分でも悪乗りしすぎたと思っているし、街路のど真ん中で遊びに興じるなんてはた迷惑だったと反省もしている。
なので、彼女は素直に“申し訳ありませんでした”と謝った。
同時に、先刻から疑問に思っていたことがあったので、この機会に訊ねてみる。
「疑問に思っていることがあります。それは、わたしとフゲン先輩の経歴の差です。先刻のお話では、わたしたちは共に同じ時期に人間として生活していました。
それなら、天使としてスカウトされたのは同時代だろうし、おそらく十年間と離れてないでしょうから、わたしと先輩の天使としての経歴は同じはず」
ランは続けて疑問の言葉を重ねた。
実際のところ天使としての実務経験に大きな差があると。
フゲンは教導役を務めるほどの熟練者。
一方の彼女は新人で、ようやく【天使の基本訓練】を終了したばかり。この経歴の差はどこで生じたのであろうか、と問いかける。
「その原因は、人間と天使とでは“時間の流れ”が違うからだよ」
フゲンは天使と人間の違いについて説明を始めた。
人間には時間軸はひとつしかない。
時の流れは過去から未来への一方通行で、逆へと遡ることはできない。また、時間軸に封じ込まれていて、その外へ出ることは不可能なのだ。
天使にとっての時間軸は複数ある。
彼らの仕事は世界を維持管理することだが、対象となる世界は幾つもあって、それぞれの世界ごとに時間軸があるからだ。おのずと、天使は時間軸の外側で活動することになる。
「天使と人間の違いを映画館で例えてみよう」
フゲンは、人間を“観 客”に例えた。
物語がサスペンスものなら息も詰まる展開にハラハラするし、恋愛映画なら胸をときめかせ、コメディ中心なら思いっきり笑いころげる。
ただし、“時間の流れ”は映画の展開通りにすすむだけ。
物語ごとに“時間の流れ”は違っていて、一日の出来事を丹念に表現するものもあれば、千年間の時間経過をたったひと言のナレーションで済ますものもある。
一方、天使は上映管理者だ。
この映画館は複数の映画上映会場があるシネマ・コンプレックス型の施設で、彼ひとりで複数の映画を同時並行で世話している。
仕事場には十数台の機器が並んでいて、幾つもの物語を上映しているようなものだ。そのジャンルはバラバラで、アクションものや、アニメーション、戦争映画といった感じだ。
映画ごとに内容は違うから、物語の展開のスピード―――別の表現にすると“時間の流れ”―――は違う。
「ラン君が人間であった頃、ひとつの時間軸の中にいた。映画の例えでいうなら、君は“観 客”として、物語の展開に沿った“時間の流れ”の中にいたんだ。
一方、私は上映管理者として幾つもの映画を世話していた。
妙な表現になるけれど、“映画の外側”にいたんだ。だから、たくさんの時間軸を同時並行で経験したと思ってくれ。そうやって、私は天使としての知識を蓄え、実績を積んでいたワケだ」
フゲンは天使になって驚いたことがあると告白した。
彼はある世界を八百年のあいだ管理していたのだが、所用で自分が生まれ育った地球世界に戻ってみると、己が死んだ時点から三ケ月しか経過していなかったのだ。
これには本当に驚いたよと、彼は苦笑いした。
天使と人間とでは時間の流れに違いがあると、知識として持っていたが、実際に体験してようやく気づかされたとも。
「これまでの説明で、人間と天使とでは時間に対する立場が違うことは分かってくれたと思う。ついでに言えば、人間と天使とではさらに大きな違いがある。
それは“意識の在り方”だ。別の表現をすれば“覚醒”しているかどうかが、大きな分かれ目になる」
「人間と天使の大きな違いが“意識の在り方”ですか? う~ん、よく分からないです。いま少し理解できるように説明してもらえませんか」
「では、かみ砕いて説明しようか。先刻、私は映画の例え話をしたよね。
この映画は、精密な仮想現実の技術を使って上映するモノだと思ってくれ。もの凄く出来が良くて、空想と現実の区別がつかないような代物だ。
“観 客”はこの映画に無我夢中になっている。
あまりにも映画の出来が良くて、すっかり物語に引き込まれてしまい、彼らは自分自身を“主人公”と同一化してしまう」
「その話を聞いて思い出したことがあります。映画ではなくてゲームの話ですけれど、仮想現実ゲームが原因の認識障害です。大きな社会問題になっていました」
ランが語る“仮想現実による認識障害”。
それは、患者の脳が仮想と現実の区別ができなくなって発症する適応障害の一種である。
かつて、この認識障害を象徴する事故があった。ある患者がビルとビルの間を飛び越えようとして転落死したのである。
彼が好んでプレイしていたのはFPSゲーム。
これはシューティング・ゲームの一種で、主人公キャラクターは超人的な能力を有していて、ビルの間を飛び越え、高所から落下しても怪我ひとつ負わずに戦うというもの。
そんなFPSゲームに嵌っていた患者は、仮想の感覚を引きずったまま、現実でビルから飛び超えようとして失敗する。患者がいた場所は建物の五階で、そのまま落下し全身打撲が原因で死亡したのだ。
「それは悲惨な事故だね。たかが遊びのために造られたVRゲームですら、人間は認知障害になってしまう。これほど簡単に人間の脳がだまされてしまうとは驚きだよ」
ここで、フゲンはいったん言葉をきった。
彼が語る内容に、ランがついてきているか確かめるためだ。
「脳が騙されているという点では、仮想現実による認識障害と同じだ。
彼ら人間は人生という映画を楽しんでいる“観 客”だ。専用インターフェイスのゴーグルを装着して物語を観ている。
にもかかわらず、彼は自分を映画の“主人公”だと思い込んでしまった。本当の自分は“観 客”なのに。
彼は誤った認識をしたままで、この勘違いから抜け出す必要がある」
「ああ、なるほど。だから、“覚醒”なんですね。つまり、己が“観 客”だと気づくこと。本当の自分は映画の“主人公”でないと自己認識を改めること。それが“覚醒”であると」
「ああ、ラン君のいうとおりだ。人間と天使とではさらに大きな違い、それは“意識の在り方”だ」
映画の例でいえば、人間は己を“主人公”だと誤認識をしている。
天使はここを正しく自覚しており、“観 客”の意識を越えて“上映管理者”の立場に至っている。なかには、“製作者”として“創造する者”と一緒に世界を作っている連中すらいるくらいである。
フゲンとランは話をしながら、緩やかな坂道を下っていた。
彼らが城門をくぐり、出てきた街は交易都市だ。海湾部と内陸部を結ぶ主要路の中間点にあり、立地上の利点を生かした交易で栄えている。
標高百メートルほどの台地の上にあり、三方は切り立った崖、残りの一方は緩やかな斜面になっている。
彼らはそんな斜面の上を歩いた。
「フゲン先輩、わたしたちは街の外に出ましたが、どこに向かっているのですか? 」
「目的地は草原地帯だよ。君に魔道具を支給するつもりだが、それを使いこなすためには練習が必要でね。障害物がなくて広く開けた草原が訓練に適しているんだ」
彼らが小一時間ほど歩き、のどかな雰囲気の草原へと到着した。
背の低い草が広がり、風が吹くに合わせて草花が波打っている。空高く飛ぶ雲雀がチチッと鳴くばかりで、他に聞こえてくるものはない。
空は快晴で雲ひとつもなく、鮮やかなスカイブルーが広がっていた。太陽の陽射しはやわらかくて、そこらへんに横になれば、うたた寝できること間違いなし。
ピクニックに来たといっても信じてしまいそうな、おだやかな草原であった。
「ラン君。これが君に支給する魔道具だよ」
フゲンが取り出したのは、手のひらサイズの物体。
形は板状で、中央部分に小さな魔石がはめ込んでおり、それを中心にして魔法陣が描かれている。
フゲンが中央部の魔石に人差し指を当てて起動呪文を唱えた。
小さな板状の物体が大きなサイズへと変化する。
それは波乗り板に似ていて、大きさは長さ二メートル、幅五十センチほど。
ただし、波乗り板と決定的に違うことがある。
それは宙に浮いていることで、地表から十センチほどの高さにあってフワフワと揺れているのだ。
「おおっ、これはリフ・ボードではないですか! 」
ランは瞳をキラキラさせながら叫んでしまった。
“リフ・ボード”とは、ある物語にでてくる小道具の名称だ。その物語のタイトルは七番目のエウ〇カなる少女の名前がついている。内容は典型的なボーイ・ミーツ・ガールのストーリーで、彼女は胸をときめかせて見ていた経験がある。
「感激だわ! 憧れの『アイ・キャン・フラ~イ』が現実になるのね。ああ、ほんとうに夢がかなう」
ランは小躍りした。自然と笑みが浮かんでしまうし、すっかり自分の世界に入り込んでしまって、それを止めることができない。
黒猫のニャン助を相手に珍妙なダンスをする始末だ。
「これこれ、そんなに興奮しない! 君はなんでこんなにハイテンションなんだ? 」
フゲンはランをたしなめたが、彼女の興奮は治まらない。
奇妙なステップで踊る彼女を止められなくて、彼は苦虫をつぶしたような顔になってしまった。
「なんだかとんでもない新人の教導役を引き受けてしまった。これは失敗したかな…… 」
少しばかり後悔するフゲンであった。