第八十七話 激震
かすみさんの見送りを終えて屯所に帰り着く頃には、空が薄紫に染まっていた。
門をくぐったところで、先輩は隊士さん達に声をかけられ、訓練を見に行くようだった。
私はそれを見送り、屋敷へと戻る。
屋敷の中は、あいかわらずひんやりとした空気で満ちている。ここに居ると頭の中がスッキリするな。
暇だったので、大橋さんのお部屋にお邪魔する。
いつ来ても綺麗に整理整頓されていて、色合いも目に優しい部屋だ。落ち着くなぁ。
「葉月ちゃん、少し大きくなりましたね」
大橋さんに抱かれてすやすやと寝入る葉月ちゃんに視線を送りながら、お茶をすする。
私が初めて会った時はもっと小さくて、ふわふわの毛玉みたいだった。
「そうですね。少しずつ育ってくれています」
「大橋さんにますますべったりですねぇ。私も抱っこしてみたいな」
「してみますか? そっと抱き上げてみてください」
大橋さんは体を丸めてぬくぬくお休みしている葉月ちゃんを持ち上げ、そっと畳の上に寝かせた。すると、またすぐによちよちと大橋さんの膝の上によじ登る。
「葉月、天野さんに可愛がってもらいなさい」
困ったように笑みをみせて、大橋さんは大きな手で葉月ちゃんを撫でる。
葉月ちゃん、大橋さんの膝の上が一番好きみたい。気持ち良さそうに喉を鳴らしている。
「抱っこはまだ難しいかもしれませんが、撫でるくらいなら……!」
そっと手を伸ばしてふわふわの頭を撫でてあげると、葉月ちゃんは、気持ち良さそうに目を細めてくれた。
やった! と声を出さずに大橋さんの顔を見れば、良かったですねと穏やかに言葉を返してくれた。
これまで触れることすら許してくれなかったことを考えると、たいした進歩だ!
「可愛いですね、葉月ちゃん。大橋さんはいつも落ち着いているから、こんなに好かれているんでしょうか」
「私も慌ただしく過ごす日はありますよ。そんな日は葉月も分かっているのか、大人しく一人で遊んでいます」
「へぇ、おりこうさんですね!」
「そうですね。物分かりのいい子です」
葉月ちゃん、まだ小さくて甘えたい盛りだろうに、偉いな。
それに比べて私は、好きな人が忙しくしていると拗ねてしまいそうだ。今だって、田中先輩が隊士さん達の方に行っちゃって、寂しく思っている。
「大橋さんは、焼きもちを焼いたりすること、ありますか?」
ふと疑問に思って尋ねてみる。
こんなにいつも穏やかで優しい人なのだから、大きく感情が揺れることはなさそうだけれど……。
「やきもち、ですか……自分ではよく分かりませんが、執着が強いとはよく言われます」
「へぇ、意外です!」
「想い人ができれば、分かるかもしれませんね。天野さんはどうですか? 田中くんとは上手くいってますか?」
「えっ!? せ、先輩と!? どうしてそんな……!!」
「田中くんと、いい仲なのではないですか?」
「ち、違いますっ!!」
思わず声を張ってしまう。驚いたのか、葉月ちゃんがびくりとして目覚めてしまった。
胸の奥がどくどくと脈打っている。感情が昂って、頬が染まるのを感じる。
「すみません。踏み込みすぎました」
頭を下げながら、大橋さんは苦笑する。
否定はしたものの、嫌な気持ちはしなかった。昨晩中岡隊長も言ってくれたな。私と田中先輩が、特に仲良く見えると。
二人が想像する通りの関係だったらいいのに。
「田中先輩から見たら、私なんて子供かなって」
「そんなことはないと思いますよ。あなたくらいの歳でしたら縁談も数多く来るでしょうし」
「一般的にはそうかもしれませんが、私って人より物を知らないですから……」
より幼く見えるに違いない。
陸援隊の人たちは気をつかって難しい話をしないようつとめてくれているのが分かるから、時々いたたまれなくなってしまう。
「天野さんは日々成長していますよ。周囲にいる人間は皆感じ取っているはずです」
「ありがとうございます……! 私、もっと勉強します」
先輩の隣を歩きたいのなら、せめて彼がどんな事を考えているのか理解できるようにならなければ。
志のために生きている人だから。
思想を知り尊重することが、私にできる精一杯の歩み寄りだ。
お茶を飲みながら二人でお団子をつまんでいると、何やら外が騒がしくなってきた。
何事だろうと二人で部屋を出ると、玄関の戸を足で蹴り開けて、田中先輩が入ってきた。
見れば、傷ついた潮くんを両手で抱えている。
「潮のやつ、矢生一派に宿を爆破されたらしい。ひでぇ傷だから、寝かせてやってくれ」
「そんな……! 矢生達がそこまで迫ってたなんて……」
「ここには駕籠で来てよぉ。一歩も歩けないくらいボロボロだった」
「なるほど、まずは空き部屋に寝かせましょう」
急いで空き部屋に布団を敷き、潮くんを寝かせる。意識はなく、深い眠りに落ちているようだ。
「今、螢静堂に霧太郎さんを呼びに行ってもらったトコだ」
「そうですか……私、消毒薬を持っているので、むた兄が来るまで手当てします」
自室に戻り、長岡さんからもらった消毒薬を取ってくる。まだまだたくさん入っているので、使っても大丈夫だろう。
潮くんは、全身に傷を負っていた。すり傷から火傷まで。
中でも左腕の状態が特に良くない。肘から下が血まみれだ。可愛らしい顔も、半分焼けただれて見る影もない。
「潮くんの宿、突き止められてしまったんですね」
「おう。詳細は潮が目覚めるまで聞けないが、日中から宿を爆破するあたり、奴ら犯行が大胆になってきてやがるな」
「そうですね……潮くんは、ここで面倒を見ることにした方がいいかもしれません」
「だな。中岡さんが帰ってきたら、話してみるわ」
手当てをしながら、怒りが込み上げてくる。裏切り者はこうなると、見せしめの意味もあるのだろう。躊躇なく人の命を奪うやつらのやり方には、虫酸が走る。
半刻ほど経って、むた兄とゆきちゃんが到着した。
むた兄は、潮くんの傷を見ながら、難しい顔をしている。
「左腕があかんな。指が二本吹き飛ばされてるわ。火傷も重度のもんやから、綺麗に元通りとはいかんと思う」
「顔の傷もやな。痕が残ってまうやろな」
むた兄の隣で腕に包帯を巻きながら、ゆきちゃんも渋い顔をする。
「いつごろ目が覚めるかな?」
「早ければ夜には意識戻るんやないかな」
「そっか。むた兄もゆきちゃんも、忙しい中ありがとう」
わざわざ診療所を閉めてまで来てくれたのだ。自然と頭が下がる。
「目覚めるまで、ここにおってもええかな?」
むた兄が田中先輩に尋ねると、先輩はもちろんだと頷いてくれた。
そんなわけで、むた兄とゆきちゃんは、今晩ここに泊まることになった。
潮くんを一通り手当てして、日が落ちてからもしばらく皆で見守っていたけれど、目を覚ますことはなかった。
むた兄と先輩が傍についているので、私とゆきちゃんはもう休んでいいと声をかけられ、私の部屋で布団を並べて寝ることになった。
「みこちんと一緒に寝るの久しぶりやなぁ」
「そうだね! 神楽木家でお世話になってた時以来だよ」
「最近ゆっくり話すこともできてへんかったから、心配しとったんよ」
「うん……ごめんね、心配ばかりかけて。私は元気にやってるよ」
布団の中でお互い体を向けて、ぽつぽつと語り合う。ゆきちゃんが傍にいてくれると安心するな。
「でもな……さっきの潮くんもそうやけど、みこちんの周りの人、よう危ない目に遭うやん。うち、それが気になって」
「私は大丈夫だよ。先輩たちが護ってくれてるし」
「ほんまに? それやったらええんやけど、みこちんはもう危ないことせんといてな」
「う、うん……」
よく考えてみれば、最近は日常的に危ない橋を渡っていた。
矢生一派の根城を突き止めるまであと一歩というところまで来ている気がするのだ。動かないわけにはいかないだろう。
それをゆきちゃんに伝えるとまた心配させてしまうので、はぐらかして話題を変える。
「そうだ。くそたろうの挿絵は順調かな?」
「順調やで! もう絵は描き上げてるんよ。あとは刷り上がりを待つだけ」
「わぁっ! すごい! 早く読みたいなぁ! ゆきちゃんの挿絵楽しみ!!」
「自分で言うのもなんやけど、力作やで! これまでの読者にも喜んでもらえると思うわ」
少し前のゆきちゃんと比べると、見違えるくらいに前向きな発言だ。
なんだか嬉しくなってしまうな。
「ゆきちゃん、描いてるうちに自信ついてきた?」
「せやな。そーちんがね、うちの絵のこと会うたびにめっちゃ誉めてくれるんよ。新刊出たら30冊買うとか言うてくれるし……」
「それはべた誉めだね! 藤原さんは、ゆきちゃんの絵から勇気をもらってる患者さんの一人だもんねぇ」
「うーん。そうらしいな。なんや、うちも嬉しなってしもうて、めちゃくちゃ筆が乗ったんよ」
「へぇ! 藤原さんに感謝だね!!」
ひそかに応援している二人の仲はしっかり縮まっているようだ。思わず笑みが漏れてしまう。
藤原さん、頑張ってるんだなぁ。今度会ったら脈アリだと励ましてみよう。
「んで、みこちんは? 初恋の気配とかないん?」
「えっ!? わ、私は……その……」
「なんやその反応! 好きな人できたんやな!? 白状しぃ!!」
ゆきちゃんは布団を跳ね上げて体を起こし、布団の上に正座する。
私もつられて同じ姿勢になって向き合う。
「えっとね、人に話すのは初めてだから、誰にも言わないでね」
「うんうん! 約束や!」
「私……田中先輩のことが好きみたい」
「おおおおっ!! やっぱり田中さんかぁ! あの人はええと思うで! おもろいし優しいしな」
「うん……本当はずっと気になってたんだけどね、そんなはずないって思い込もうとしてたの」
私の中で、あの日拾った写真に写る三人は、等しく特別な存在だった。
誰か一人を好きになるなんてことはあってはならないと、どこかで気持ちを押さえ込んでいた。
けれど、最近ようやく気付いた。田中先輩の存在が、自分の中で大きくなっていることに。
「でも、正直な気持ちに気付けてよかったなぁ。うちはいつでも、みこちんの味方やで」
「ありがとう、ゆきちゃん。私もずっと、ゆきちゃんの味方だよ!」
お互い手を握り合ってぶんぶんと上下に振り、笑い合った。
ずっと一人で抱え込んでいた気持ちだから、ゆきちゃんに話してすっきりしたな。
それからしばらく談笑しながら潮くんの目覚めを待ったけれど、目を覚ますことはなかった。
そこで私たちは、明日に備えて眠ることにした。
鳥のさえずりで目を覚ますと、隣の布団はもう畳んで部屋の隅に片付けられていた。
ゆきちゃんは早起きだなぁ。
潮くんが気になって部屋を出ると、向かいの廊下からゆきちゃんが歩いてきた。
「みこちん、おはよ! 潮くん、まだ目覚めてへんよ」
「そうなんだ。じゃあ先に顔洗いに行こうっと」
「うちも行く!」
二人連れ立って井戸まで行けば、たむろしていた隊士さん達が私たちを取り囲んだ。
「きみがゆきちゃんか! かわいいなぁ!!」
「いや、俺は天野ちゃんもかわいいと思うよ!! ちっちゃくてたまらん!」
「おなごが二人も屯所にいてくれる! 幸せー!!」
みなさんよっぽどおなごに飢えているのだろう。私たちに向けて無数の声がひっきりなしに上がった。
「顔を洗わせてください……!」
「うちら、すぐ屋敷に戻らんといかんのですよ」
さっと包囲網を抜け出して、井戸の水を汲む。ひんやりしていて気持ちが締まる。
私たちが顔を洗っている間も、隊士さん達は遠巻きにこちらを眺めて、何やら言葉を交わしている。
どうやらゆきちゃん目当ての人も多いみたいだけど、残念でした。ゆきちゃんには藤原さんがいるのです!
屋敷に戻って朝餉の準備でもしようかと話していたところで、ドタドタと廊下を踏み鳴らす音が聞こえてきた。
こちらに近づいてくる。この足音は田中先輩だな。
厨から顔を出すと、向かいから来る先輩と目が合った。
「潮が目覚めた! すぐ来てくれ!!」
「はいっ! 行こう、ゆきちゃん!」
一気に場の空気がピリピリしてくる。
私とゆきちゃんは、急いでその場を離れ、田中先輩の背中を追う。
部屋につくと、潮くんは布団から半身を起こして、むた兄から怪我の具合について聞いているところだった。
「――そういうわけやから、しばらくは安静にな」
「はい」
私たちが部屋に入ると、潮くんはわずかに表情をほころばせた。
「美湖ねぇちゃん、ぼく、矢生一派について新しい情報を得たんだ。それを話したいから、ここの幹部を集めてもらえる?」
「わかった!」
ばたばたと廊下へ駆け出す。
田中先輩と手分けして、隊長、大橋さん、香川さんを呼び出して、潮くんの部屋に集まってもらう。
人払いをしてほしいとのことだったので、むた兄とゆきちゃんには一旦下がってもらった。
そうして屯所にいる隊長幹部が揃ったところで、潮くんが口を開いた。
「昨夜、洛北のほうまで足をのばして探索していたらね、うちの盗賊団の仲間だった男が、大きな風呂敷を抱えて歩いているのを見たんだ」
話の先を促すように、私たちは相槌をうつ。すると潮くんは、ぎゅっと布団の端を掴んで、また語りだした。
「男のあとをつけると、金閣寺付近の森に入って行ったんだ。そこからしばらく後を追ってたけど、途中で仲間と合流して後ろを警戒しはじめたから、そっと木陰に隠れて森を出たんだよ」
ということは、矢生一派はまた森の中に根城を築いているということか。
「なるほどな……」
隊長が顎に手をあてて思案するように呟く。ここからどう仲間を動かすかはこの人次第だ。慎重にもなるだろう。
「潮くんの宿がやられたということは、後をつけられていたということか? 無事で良かった」
「うん。気づかなかったけど、見つかってたみたい。爆破の混乱に乗じて宿から抜け出したんだけど、それはバレてなかったと思う」
「そうか……しばらく単独行動は避けるべきだな。君はうちの隊で預かることにしよう」
「ありがとう、お兄さん」
「隊長の中岡だ。よろしく」
「中岡さん、お世話になります! それで、早めに金閣寺付近の森を探索した方がいいと思うんだ。ここから人数出せるかな?」
潮くんは、時間がないと焦っている。あとをつけていた事がばれたということは、またこれから根城を移す可能性がある。
その前に、今すぐ叩くことが重要だ。
「ああ。今すぐ隊士を集めて、明るいうちに出発するつもりだ。潮くんはここで休んでいてくれ」
「いや、僕も行く! やっとここまで追い詰めたんだ。引っ込んでるわけにはいかないよ!」
「動けるのか? 戦える準備があるのなら同行してもらっても構わないが……」
「戦うよ! 武器だって持ってる」
潮くんは、傍らに置いてある風呂敷の中をあさり、短刀を二本取り出した。この子は二刀流で戦うらしい。
「分かった。出発までよく体を休めておいてくれ。さて、俺と大橋くんはこれから隊士を集めて指示を与えてくる」
「んじゃオレは、ちょっくら藤堂を呼びに行ってきますよ」
中岡隊長、大橋さん、田中先輩が順番に立ち上がる。
「俺は今回も留守番だねぇ。まぁ皆、無事で戻ってきなよ」
大きくあくびをしながら、香川さんは自室へと戻っていく。
私だけが取り残されそうだ。
「あの、隊長……私はどうしましょうか」
「天野も今回は留守番だな。出発するまで潮くんの傍についていてあげてくれ」
「う……そうですよね。ここで大人しくしておきます」
本心はついていきたいけれど、今回は同行を願い出る理由がない。
しいて言えば父の形見の絵が盗品の中にないか調べにいきたいけれど、動機としては弱いだろう。
無理についていっても、皆さんの足を引っ張るだけだ。
仕方がない。食事でも用意しながら帰りを待とう。
隊長、幹部のみなさんが部屋から出たあと、むた兄とゆきちゃんも、かすみさんの往診に行くとのことで屯所を出た。
潮くんの部屋に、ぽつんと二人取り残される形になった。
「潮くん、いよいよ決戦になるかもしれないね。怖くない?」
「怖いよ。でも、ここで逃げてちゃ、ぼくは一生弱いままだ」
「そっか。潮くんも男の子だね。でも、あんまり無茶しないでね。怪我人なんだから」
「無茶……しちゃうかもしれない。みこ姉ちゃん、こっちに来てもらってもいい?」
甘えるような口ぶりで潮君は手招きをする。乞われるままに間近に寄れば、ぎゅっと私の胸元に抱きついてきた。
「ちょっとだけ、こうしてて」
「……分かった」
やっぱりまだ中身は子供なんだな。
くすりと自然に笑みが漏れて、潮くんの髪をそっと撫でる。
りくは今、どうしているだろうか。
潮君は、戦場で姉と敵対しなければならない。
その時が来たら、刃を向ける決意はできているのだろうか。
――こんな、年端もいかない子供に、残酷な選択をさせてしまうかもしれない。
そう考えると、胸の奥が苦しくなった。
同時に、ただここで待つだけの身である自分を情けなく思う。
皆が無事に帰ってきてくれるのか、心配だ。
ふと頭に田中先輩の顔がよぎる。
どうか、無事で帰ってきてください――。




