第八十五話 海援隊士からの文
夕餉を食べ終え、歯を磨いて部屋でくつろいでいると、田中先輩が襖を開けて入ってきた。
「ひなこちゃんの恋路は険しそうだぜ」
敷いてある布団の上にどかりと腰掛け、先輩は大きく溜息をつく。
「隊長に話したんですか?」
「おう。肩たたきがてらな。でも、今はそんなことを考えている時間はない、だとよ」
「ああ、なんだか隊長らしいですね」
忙しくあちこちを回りながら説得や周旋に明け暮れる日々だ。その生活の中におなごが入る余地などないだろう。
「オレだったら、自分に惚れてくれた子を泣かせるようなことはしたくねぇけどな」
ぽつりと呟かれたその言葉に、胸の奥がどくりと跳ねた。
「先輩は、好きですと言われたら、相手が誰でも受け入れるんですか?」
「いや、誰でもってわけじゃねぇけどよ。でも、気持ちはありがたく受けとるぜ」
「そうですか……ちなみに先輩も、今はそれどころじゃないって思ってます?」
「思ってる、な。一応。でもオレは中岡さんほど自分を律していける自信ねぇからなァ」
「好きになっちゃうのって、止められないですからね。今はダメとか考える余裕ないのかなって」
まさに、今の私がそうだ。どんどん先輩のことを好きになってしまう。律するなんて到底できない。
「そうだよな。まぁ、オレはおめぇの初恋応援してるからよ。何かあったらいつでも先輩に相談しなさい!」
「は……はい!」
にっと笑って、私の頭を撫でる先輩を見て、またうるさく胸の奥が騒ぎだした。
先輩は私のこと、やっぱり何とも思ってないのかな。
「お、そこに積んであるのは、くそたろうだな。もう読み終わったのか?」
ゆきちゃんから借りたくそたろう既刊。これから先輩と一緒に読みたいと思っていたところだ。
「まだ読んでません。この前みたいに、先輩に読んでほしいなって」
「んじゃ、また読み聞かせてやるよ。ほれ、隣に来い!」
先輩は巻の二を手に取り、布団をポンと叩いた。言われるがままに肩を並べると、彼は本を開いて朗読を始めた。
「くそたろうの住まう村に、悪辣なる鬼がやってきたのは――」
よく通る声で、ハキハキと読み上げてくれる先輩は、愉快そうな顔をしている。
読みながら時折吹き出したり、手を叩いて笑い転げたりする。
本当に表情豊かな人だなぁ。
じっとその顔を眺めていると、顔を上げた先輩が私の額を軽く指ではじいた。
「んだよ。本よりオレの顔の方が面白ぇってか?」
「あっ……! すみません! 先輩の表情、コロコロ変わるなぁって思って」
「くそたろうがやたらとツボに入ってよぉ。豪太郎さん、さすが大人気作家だぜ」
「そうですよね。大人でも笑えるお話が書けるのって、すごいと思います」
熊おじちゃんはなかなか自分の力量を認めたがらないけれど、その筆力で多くの人を笑顔にしたことは間違いない。立派なことだ。
そんな傑作の挿し絵を父が描いていたことは誇らしい。
「ゆきちゃんも今、頑張ってんのかな」
「そうですね。熊おじちゃんと話し合いながら少しずつ挿絵を進めてるみたいです」
「新刊出んの楽しみだなァ」
「出たらみんなで読みましょう!」
「おう!」
それから巻の五を読み終わるまでに、そう時間はかからなかった。
次々に現れる物の怪たちを自慢の怪力で投げ飛ばしていく物語は、痛快だ。
景気も悪く世の中がごたついているこんな時勢だからこそ、こういった勧善懲悪がうけるんだと思う。
世の中が求めているのだ。すべてを忘れて没頭できる世界観を。
「ふぅ。面白かったぁ!」
「どんどん盛り上がるな! 早く続き読みてぇー!」
「きっと町の子供達も同じ気持ちですよ」
「だな。ちびっ子達と一緒に待つとすっか!」
二人で頷き合うと、それぞれ既刊を手にとって、あの場面が好きだとか、ここの挿絵が抜群だとか、おおいに語り合った。
先輩はやはり、くそたろうと物の怪が戦う場面に心打たれるらしい。熱い展開だと熱弁してくれた。
「こことか最高に燃えるんだよ、挿絵も良くてよぉ」
「ああ、分かります! この場面私も好きでした!」
「このあたりの線とか勢いあってたまんねぇんだよなァ」
「どこですか?」
「ここだよ、ここ――」
先輩が指差した部分に顔を近づける。なるほど、強弱の効いた勢いのある線だ。
「いいですよね、この――……」
顔を上げて先輩の方を向くと、鼻先が触れ合うくらいの距離に、彼の顔があった。
「――っ……」
どくりと、胸の中心が脈打った。
視線がかち合って、身動きがとれない。田中先輩も同じなのか、じっとこちらを見たまま動かない。
「なぁ天野――」
一瞬、先輩の瞳が揺れる。何か言葉を発しようとして、声にならない吐息が漏れた。
どうしよう、どうしよう、どうしよう。
先輩がやや伏し目がちになり、私の頬に手を這わせる。
ぞくりとして、肩が浮いた。もしかして、このまま――。
「天野、入るぞ」
廊下から声が響き、障子が開く。
私たちは互いにそっぽを向くようにして距離をとった。
だめだ。まだばくばくと心臓が叫んでいる。
「……取り込み中だったか? すまん」
私と先輩の反応を見て目を丸くした中岡隊長は、すまんと言いながらも、ずかずかと室内に足を踏み入れた。
「今日、龍馬から文が届いてな、お前宛のものも一緒に預かってあるんだ」
そう言ってこちらに差し出してきたのは、なにやら厚みのある包みだった。
「わぁ、坂本さんから! 嬉しいな、ありがとうございます!」
受け取ってみると、ずしりとした重みがある。中にはたいそう長文の文が入っているのだろう。
満面の笑みで先輩の方を見れば、彼は片手で髪をかきあげて、大きく溜息をついているところだった。
隊長に変なところを見られてしまったから、気にしてるのかな。
そこは正直私も恥ずかしいけれど、坂本さんからの文で、そんな感情も吹き飛んでしまった。
「えへへ、今から開封します!」
「ああ。俺も一緒に読ませてもらってもいいか?」
「もちろんです! では、開封ー!」
中岡隊長が私の隣に腰掛けたのと同時に、封を開ける。
中には三種の文と、写真が一枚入っていた。
「わぁっ! すごい! 三人が並んでる!!」
それは、私が初めて見た陸援隊士三人の写真と対を為すような一枚だった。
洋風の椅子に腰かける坂本さんを中心に、その脇には陸奥さんと長岡さんが立っている。
三人とも、穏やかな表情をしている。今にも喋り出しそうな臨場感と、現実味を感じる写真だ。
「三人とも活き活きしてますね。長崎にもいい写真師さんがいるんだ」
「上野彦馬さんのところで撮ったものだろうな。あの人は西に上野ありと有名な写真師だぞ」
「あ、その人の名前聞いたことがあります! へぇ、すごい方に撮ってもらったんですねぇ」
確か前に、シノさんが話してくれたっけ。上野さんは写真の第一人者という話だったから、さぞお店も繁盛していることだろう。
今にも写真の中から飛び出してきそうな三人を見て、向こうで元気にやっているんだと涙が滲む。
「……また皆さんに会いたいな」
「会えるさ。これからまた京に上ってくるそうだぞ」
「本当ですか!? 嬉しいです。長崎のお話も、たくさん聞きたいな」
「んで? 文には何て書いてあるんだ?」
並べて重ねてある文に手を伸ばしながら、内容が気になる様子の先輩は、その一枚を手に取った。
「読み上げるぜ。まずは坂本さんのだ」
嬢ちゃん、元気にしているか
俺は今、長崎で商売をしたり、異国の武器や船を購入すべく、交渉をしたりしている
そちらの様子が気になって仕方がない
矢生ら一派には逃げられてしまったが、その後有力な情報は得られたか
近く京に上るつもりなので、その時には 真っ先に嬢ちゃんに会いにいこうと思っている
今日、謙吉と陽之助が長崎についたので、三人でほとぐらふを撮った
なかなかえい男に撮れているだろう。嬢ちゃんが初めて見たほとぐらふは、陸援隊のものかもしれないが
初めて自分のものとなったのは、俺たちのほとぐらふだ。大切にしてほしい
それでは、このへんで。また京で会おう。達者でな
坂本龍馬
「わぁぁ、坂本さん、訛ってない! なんだか新鮮ですね!」
「普段の喋りと大違いだろ? 読みながら笑ってしまうんだよな」
「坂本さんらしいところと言やあ、嬢ちゃんって呼んでるとこくれぇだな」
笑いながら、田中先輩が文を手渡してきた。
坂本さんの字は、細くてくねくねとした文体が印象に残る。やわらかい雰囲気だ。
「んじゃ、次は長岡さんの読むぜ」
美湖ちゃん、文を書くのははじめてだね
自分たちは今日長崎に着いて、異国の風を感じながら出島付近を見て回ったり、写真館に寄ったりしたよ
大坂の仲間に聞いてみたんだけど、天野川光先生の肉筆画は大坂ではほとんど出回ってないみたい
たぶんまだお父上の形見の絵は京にあると思うよ
それとね、こっちで可愛い首飾りを見つけたから、京に上った時にあげるね
霧太さんや雪子ちゃんは元気にしてるかな
よかったら二人にもこの文を見せてあげて。長崎は医学も進んでいるから、いつか霧太さんも招待したいな
同封したフォトグラフだけど、良く撮れてるでしょ
上野彦馬さんに撮ってもらったんだけど、彼の技術はすごいんだよ
今度会った時にその話もするね。それじゃ、お元気で
長岡謙吉
「長岡さん、大坂の仲間にも連絡とってくれたんですね」
「やはり親父さんの肉筆画は見つからないか……まだ矢生一派の手元にあるんじゃないか?」
「そうみたいっすね。んじゃ、最後はむっちゃんの読むぜ」
天野、元気にしているか
おまえがフォトグラフに関心を持っていたようなので、坂本さんと長岡さんを誘って写真館に寄った
おれが写ったものになど興味はないだろうが、坂本さんや長岡さんは将来有望な人間だ
彼等のフォトグラフは後々価値が出てくるはずだ
こちらでかすていらの作り方を学んだので、京へ上ったら教えてやる
陸奥陽之助
「陸奥さんが誘って三人で写真を撮ったんですね! 嬉しいなぁ」
「陸奥くんは相変わらず自分に自信がないようだな」
「天野からは好かれてんだから、自信持ちゃいいのに」
先輩は、呆れたように溜息をつく。
「どうしていつも、私が陸奥さんのことを好きだって誤解するんですか!?」
「誤解じゃねぇだろ。好きなんじゃねぇの?」
「違います! 勝手に思い込まないでください!!」
「けっ。むっちゃんへの態度見てりゃ誰だってそう思うぜ」
そう言われて、自らの対応を思い出す。
陸奥さんに対して、特別な態度をとっていた記憶はない。
「まぁまぁ、喧嘩するな。俺から見たら、天野はケンと特に仲が良いように感じるぞ」
「隊長……そうですか?」
本当にそうだったら嬉しい。
先輩はなんだか勘違いしてるみたいだけれど……。
「そうだ。ケンも、焼きもちをやくな」
「焼いてねーっすよ」
「その顔は焼いてるだろ。俺は二人を応援しているからな」
そう言ってくすりと笑うと、隊長は私たちの頭にポンと手を乗せて、立ち上がった。
「邪魔者はそろそろ立ち去ることにする。おやすみ」
「お、おやすみなさい……!」
隊長は去り際にふっと目を細めて、部屋を出て行った。
二人きりになると、その場を沈黙が支配し、二人してぎこちなく視線を泳がせる。
「文をもらうのって、嬉しいですよね。先輩からもらった文も、大切にとってありますよ」
「ああ、おめぇが螢静堂に運び込まれた時のやつか」
「そうです。あの時、私は何を信じたらいいか分からなくて悲嘆にくれていたので、すごく勇気づけられました」
「そうか……。矢生一派とはまだ決着がついてねぇからな。もうちょい頑張ろうぜ」
「はい!」
父の形見の絵のことも、海援隊の皆さんは調べてくれていた。そう考えると本当にありがたい。
これから私にできることは何か、考えて動いていこう。
こうして励まして勇気付けてくれる先輩が傍にいてくれるんだ。どこまでも頑張れる気がする。
「んじゃ、そろそろ寝るか」
「そうしましょうか。くそたろうを読み聞かせてくださって、ありがとうございました」
「おう。また新刊出たら読もうぜ」
「はいっ! 楽しみにしてます!!」
先輩は照れくさそうに鼻の下を指でこすって、自室へと帰っていった。
今夜もまた銃を抱えて眠るのだろうか。
さて、私もそろそろ寝よう。
「……ふう」
布団に入って一息つく。
最近は、一人でいる時間がぐっと減ったな。
いずみ屋が燃えて以来、たくさんの人が私の現状を気にかけてくれている。
あのまま神楽木家にいたら、雨京さんが持ってきた縁談を受けて、そのままどこかに嫁いでいたかもしれない。
――嫁ぐ、かぁ。
ふと田中先輩の顔を思い出す。
私は彼のことが好きだけど、先輩はどう思っているのだろう。
隊長は、私と先輩の仲を応援してくれると言った。
その言葉を信じても良いなら、隊長から見てこの恋は脈アリということだろう。
矢生一派との諍いが収まったら、思いきって先輩に問うてみようかな。
私のこと、どう思ってますかって……。




