第七十四話:再来
屯所の門をくぐるのは一日ぶりだ。
門柱に体を預けてあくびを噛み殺していた門番さんが、隊長の顔を見るなり、あわてて背筋を正した。
隣に立つこの人が「隊長」と呼ばれているのを見ると、陸援隊に帰ってきた実感がわいてくる。
ふと前方に目をやれば、大勢の隊士さんがたむろして何やら盛り上がっている。
ああ、この感じはたしか前にも見たことがあるなぁ。
「腕相撲か」
見慣れた風景にふっと口元をゆるめる隊長は、まるで庭先で遊ぶ子供を眺める父のようだ。
たしか朝の訓練が終わって一息ついたあとに、夕餉のおかずを賭けて日々白熱した戦いを繰り広げているんだったよね。
いかつい浪士のみなさんがわいわいと子供のようにはしゃぐ姿は、見ていて微笑ましい。
誰が勝ち進んでいるのか気になって人だかりのほうへ駆け寄れば、輪の中央から空気を震わすようにひときわ大きな歓声が響いてきた。
どうやら勝敗が決したらしい。
すげぇ、やった! とみなさんはじけるような笑顔で大盛り上がりだ。
「――てなわけで今日も優勝はこのオレだ!! 夕餉のオカズよろしくな!!」
「さっすが兄さんだぜ! 二日連続優勝!!」
「いよっ!! 横綱ァ!!」
――田中先輩が勝ち抜いたんだ。本当に強いなぁ。
輪の中心にいるであろう彼の姿は、外からでは確認できない。
ねぎらいの言葉に応えながら上がる愉快そうな笑い声が、たまに耳に届く程度だ。
声を聞いていたら、なんだか無性に彼のことが恋しくなってきちゃったな。
会いにいきたいけれど、分厚い人の壁がそれを阻んでいる。
「皆、すっかり腕相撲に夢中だな」
「そうですねぇ。先輩の顔が見えません……」
隣に立って苦笑する隊長に、しょんぼり顔で返事をする。
隊長の帰還だというのに、みなさん背を向けたままなのは隊としてどうなのか。
「まぁ、ケンとこうして騒ぐのもあいつらにとっては久しぶりだろうから、大目に見てやろう」
「あ……そう言われてみれば……」
先輩はここ最近、朝の訓練が終わってからほとんどの時間を私のために割いてくれていた。
本当は忙しくて、こんなにも人望がある人なのに。
独り占めにしちゃってたな……。
隊のみなさんも、先輩に相談したいことがあったり、一緒に騒いだりしたいだろうに。
そう考えると、人だかりを掻き分けて彼の元に走り寄りたいという気持ちがみるみるしぼんでいく。
しばらく遠目から見守っていたほうがいいかな。
「あっ、隊長と天野さん!」
やや距離を置いて立っていた私たちに、一人の隊士さんが気づいて声をあげた。
すると、集団がいっせいにこちらに目を向ける。
わぁ、なんだかこうも視線が集中すると緊張してしまうなぁ。
「隊長、今お帰りですか!」
「お疲れ様です!」
「天野ちゃんと朝帰り、うらやましいです!!」
矢のように降ってくる出迎えの言葉に軽く手を挙げて答えつつ、隊長は彼らのもとへ歩み寄っていく。
……それにしても朝帰りって。
たしかにそうだけど、その言い方じゃ変な風に聞こえてしまうよ。
時折混じるひやかしに何とも気まずい思いをしながら、私は隊長のあとにつづく。
人だかりの間近まで歩を進めると、目の前の壁が割れて中央から田中先輩が顔を出した。
「中岡さん、お疲れっす! 天野もおかえり!」
「せんぱい、今戻りました!!」
独り占めしちゃいけないとは分かっているけれど、明るい笑顔で迎えてくれたことが嬉しくて、ついつい傍まで駆け寄ってしまう。
たった一日離れていただけなのに、なんだかすごく久しぶりに顔を見た気がする。
間近まで寄って懐かしいその面ばせに目を細めると、彼はにっと意地悪な笑みを見せて、私の頭を撫でまわした。
「中岡さんと一緒で楽しかったか?」
「はい! おもしろいことだらけでした! 今日の朝なんて――」
先輩も知らない武勇伝を鼻息荒く語りだそうとしたところで、うしろから軽くゲンコツをくらってしまった。
振り返ってみれば、隊長が顔をひきつらせて立っている。
「天野、その話はヒミツだ」
「……だめですか? 先輩にも?」
「どうしてもというなら、ケンと二人だけのときにしなさい」
「はぁい!」
聞き分けよく、いいこに返事をしておく。
「なんだよ、コソコソ話しやがって感じ悪いぜ。んで、中岡さん、宿のほうはどうでした?」
口をとがらせながら、先輩はいかにも不満げな表情だ。
そんな彼をなだめるようにして、隊長はぽんぽんと先輩の肩を叩く。
ああして隊のひとの肩を叩くときはいつも「お疲れ様」「ご苦労様」の気持ちがこもっているんだよね。
「ああ、無事に寓居先に決まったから安心してくれ」
「そりゃ良かった! 今度オレも遊びにいこっと」
「いつでも来い。それとな、この後幹部たちを集めて話がしたい。準備ができ次第天野と俺の部屋に来てくれ」
「了解っす!」
力強く先輩が頷いてみせると、隊長もそれに応えるようにして目線を交わす。
そして今度は私の頭にそっと手のひらを置いて、口をひらいた。
「天野、丸一日世話になった。本当にありがとう。後日なにか礼をさせてくれ」
「そんな! お礼なんていらないです!」
「遠慮はいらない。お前から受けた恩は、出会った日からずっと日記につけているから忘れることはないぞ」
そう言っていつもの自信に満ちた笑みを浮かべると、隊長は外套をなびかせて屋敷のほうへと歩き出した。
脇に立つ隊士さんにあれこれと声をかけながら、凛とした姿勢で前進していく。
――隊長らしい、頼もしい姿。
こうしているところを見ると、卵にまみれ、落とし穴にはまり、子供たちからからかわれていた苦難のひとときが嘘のようだ。
立派で完璧に見える隊長も、外では思わぬ苦労をしながら頑張っているんだな。
これからはもっと、疲れて帰ってきた彼のことをあたたかい気持ちで迎えてあげよう。
「さぁて、腕相撲も終わったし今日んところは解散すっか!」
その場に残って腕相撲や隊長の話題で盛り上がっている隊士さん達に、先輩が大声で号令をかける。
すると威勢のいい返事とともに、それぞれが思い思いの方向に散りだした。
中央の対戦台も、二人一組でせっせと裏のほうまで運ばれていく。あらかじめ運搬係が決められているみたいだ。
「おし、部屋に戻って仕度しようぜ」
「はい……でも、いいんですか? 隊士さんたちとお話したいことがあったら、先に戻ってますけど」
「なに遠慮してんだ? あいつらとは昨日一日中つるんでさんざん話をしたぜ。そろそろ後輩ちゃんの顔が見てぇなって思ってたとこだ」
私の額に軽く中指をはじいて当てたあと、先輩はずかずかと屋敷のほうへ向かって歩いていく。
その背中を追いかけながら、じわりと指先の感触が残る額をさする。
後輩ちゃん……か。
「わたしも、先輩の顔が見たいなって思ってて……」
彼のとなりに並んで、うつむき気味に言葉を漏らす。
なぜだか顔を見上げて話すのが照れくさい。
屯所の門が近づいてくるにつれ、思い浮かぶのは先輩の笑顔だった。
またすぐそばで声が聞けるんだって思ったら、嬉しくてそわそわして、胸の高鳴りが止まらなくなって。
そんな気持ちの昂ぶりを経験してしまえばもう、認めざるを得なかった。
先輩のこと、やっぱり気になってるんだって。
「顔見たがってるくせに、こっち向かねぇの?」
くすりと笑いながら、彼の指先が私の耳をそっとつまむ。
思わぬ接触に、ぞくりとして肩が浮いてしまった。
「ひゃああっ!? も、もう! びっくりするじゃないですかぁ!」
「おっ、顔上げたな。赤面しちゃってどうしたよ?」
視界に飛び込んできたのは、にやりとからかうような笑み。
顔を見れば分かる。今日は機嫌がよさそうだ。
「……先輩、変わりませんね」
「たった一日で変わるもんかよ。オレはちゃんと顔見て話してぇぞ」
「う、はい。そうですよね。あの、えっと」
「っはは、マジでどうした? さっきみてぇに明るくただいまー! でいいんだって」
あちこちに視線を泳がせる私を見て、先輩はからからと笑う。
……だって、あらたまって顔を見て話そうとすると、緊張してしまうんだもん。
「それじゃ……あらためて、ただいまです」
「おう、おかえりィ!」
こちらに向けて、威勢よく先輩の手のひらが差し出された。
……ああ、懐かしいな、これ。
満面の笑みで、私はその手をぱしんと叩く。
そうしてにっと微笑みあえば、いくらかいつもの調子が戻ってきた。
気づけばちょうど、屋敷の玄関戸の前。
くぐりなれた玄関に足を踏み入れながら、私はひやりと澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
着替えをすませて、軽く身だしなみを整えた私と先輩は、そろって中岡隊長の部屋をたずねた。
部屋の中にはすでに隊長と幹部三人が並んで湯飲みを傾けている。
木村さんの顔を見るのは久しぶりだな。
両手におせんべいを持って口いっぱいに頬張っているところを見ると、そうとうなせんべい好きのようだ。
私たちが座布団に腰をおろすと同時に、会議がはじまった。
まずは、隊長の口からざっとなかの屋の炎上について触れられる。
どうやら木村さんもその事件について調べて回っていたらしく、途中からは彼が話を引き継いだ。
「なかの屋に出入りしていた浪士は一人。まれにもう一人ツレがいたらしい。接触は七日ほど前からあったそうだよ」
「浪士の特徴は分かるか?」
「長い髪を一本に結った優男風。片耳を覆うようにサラシを巻いていたらしい」
と、そこまで聞いてはっとする。
その場にいた全員が顔を見合わせた。よく知った男の風貌だ。
「深門だな」
「まず間違いありませんね。あの晩、天野さんが彼の耳を撃ちましたから」
大橋さんが深刻な表情で頷くと、田中先輩と香川さんは仰天してこちらに身を乗り出した。
「オイオイ天野、あいつのこと撃ったのかよ!」
「やるねぇミケ! 見直した!」
深門や水瀬との戦闘時、そばにいてくれたのは大橋さんと坂本さんだけだったもんな。
私が発砲したことは、まだみなさんの耳には入っていなかったのか。
「えっと、あのときは夢中で。本当は頭を狙ったんですが……」
「いや、上出来だぜ!! あとでごほうびに思い切り抱きしめてやるよ!!」
「俺からは添い寝のごほうびをあげよう!」
「け、けっこうです……」
なんとなくこわいので、断っておこう。
ただ、深門が目立つ怪我を負っているという事実は、捜索する側にとって好都合だ。
未熟な腕ながら、あの時の奮闘が事件解決の手がかりにつながってくれたことは幸いかな。
「それと、ツレの男は目つきが鋭く不気味な笑みを浮かべる不審者で、頭を真っ赤な布で覆っていたらしい。腕には目立つ彫り物があったそうな」
おせんべいをたいらげた木村さんが、お茶で喉をうるおしたあとに情報を補足する。
真っ赤な布、かぁ。それは目立つだろうな。
「そいつはもしかすると水瀬かもしれないが……奴に彫り物はあったか?」
「前に体拭いてるとこ見た時には、なかったっすね」
隊長が呟いた疑問に、先輩が答える。
水瀬とは、わりと近い距離で付き合っていたのかな。
隊士さんそれぞれに分け隔てなく接する人だから、矢生一派にも気さくに声をかけていたのかもしれない。
「別人の可能性もありますね。矢生の部下はけっこうな人数が残っているはずですし」
「そうだね、俺は別人だと思ってるよ。たしか京なまりがあったとも聞いたからね。ここいら出身で矢生一派に肩入れしてる奴じゃないかな」
木村さんの口から出た新情報に、全員が眉をひそめる。
京の人間が、矢生一派に手を貸しているというの……?
一体なんのために?
「もし、やつらの行動を裏で支援している存在がいるとなれば厄介だな」
「知れば知るほど気持ち悪ぃやつらだぜ。で、どうします? 手分けして探っていきますか」
畳の上に拳を打ちつけて憤りをあらわにした先輩は、今すぐにでも捜索に飛び出していきそうだ。
もともと、じっとしていられない性分だから余計に血が騒ぐんだろう。
「そうだな。次の事件が起こるまでにどのくらいの猶予があるのかはっきりしないが、できれば俺たちの手でくい止めたいところだ」
「本拠地を探し出すことができればいいのですがねぇ……」
隊長も大橋さんも、難しい顔をして口をへの字にむすぶ。
探すと言っても、京は広いからなぁ……。
「ざっと地図に印をつけてみたんだけどさ……」
木村さんが、ばさりと大判の地図を中央に広げた。
京の地図だ。
あちこちに点々と朱色のバツ印が散らばっている。
……あ、いずみ屋の跡地にもバツが。
「印の場所が被害店舗か……」
「そう。基本的に場所はバラバラで読めないけど、東山付近では二件立て続けに起こったらしいから、やっぱり本拠地付近は連続するものなのかもねぇ」
「なぁるほど。あいつら、俺たちが襲撃するまでは東山に陣取ってたからね」
香川さんが納得して頷きながら地図を再確認する。
どのあたりのお店が被害にあったのだろうとじっくり地図に目を落としてみれば、なんとなく見知った通りに墨が入っている。
「あれ……? ここって……」
指を差しながら先輩の着物を引っ張ると、彼は目線を動かしてはっと息をのんだ。
「たぶん、シノさんの写場じゃねぇか!? そういや前の住人が殺されたとか言ってたな!」
「ひぇぇぇ……やっぱり。矢生一派の食いものにされた跡地ってことですか……」
シノさんいわく、以前そこに住んでいた後家さんが、いい仲だった若い男に斬られたという話だった。
その構図は、深門が絡んだときの犯行形態に一致する。
「ああ、そこねぇ。一年くらい前の事件だし、他と違って珍しく炎上を免れてるから、ひょっとすると矢生一派とは関わりがないかもしれない」
とはいえ後家さんが一人で守っていた薬屋だったそうだから、状況としては他の被害店舗と酷似している。
そういうわけで、木村さんも一応印だけはつけておいたということらしい。
「天野とケンは、現在の住人と知り合いなのか?」
「そうっす。今はそこ写場になってんすよ。明日あたり話聞きに行ってきましょうか?」
「それがいいかもしれないな」
「おっしゃ、あのあたり遠いし、ちょっくら泊まりがけで調べてきますよ!」
ようやく行動の指示が出てやる気の方向が定まった先輩は、ぱしんと手のひらに拳を打ち付けて笑みを見せる。
そんな彼の勢いに押されて、私も手を挙げた。
「あの、私も先輩についていきます! 京のことは彼よりも詳しいですし、シノさんとは仲良しですから!」
「天野さん、今回は危険が伴いますからここで留守番しておいたほうがいいのでは?」
「うう……邪魔はしませんし、先輩の言うことは聞きます。だめでしょうか?」
大橋さんを筆頭に、隊長や香川さんもいい顔はしていない。
また無茶を言い出したなと呆れ半分な様子だ。
けれど……
「先輩を一人で行かせるのも不安です。私なら、矢生やりくの顔も分かりますから! もし奴らをみかけた場合はすぐに先輩に知らせます!」
かつての本拠地付近に赴こうというのだから、もしかしたら残党とすれ違うこともあるかもしれない。
矢生やりくも、ほとぼりが冷めつつあるこの時期を狙って、ふたたびあの森に出入りしはじめている可能性がある。
先輩を一人にしておくのは不安だ。私だってピストールで援護くらいはできる。
……長らく触っていないけれど、たぶん。
「なんだよ、そんなにオレと一緒がいいか? だったら来い。もともと無茶する気はねぇからよ、陽が落ちるまで聞き込みするくれぇだ」
そういうことだから心配ない、といった風に先輩が隊長らの顔を見渡す。
くれぐれも夜の単独行動は避けろとのお言葉に彼は「もちろん」だと頷いてみせた。
それだったら、普段の行動と大差ないしこちらとしても安心できる。
「それじゃ、行きます。泊まりってシノさんのところに?」
「いや、さすがに女んとこに転がりこむのはよくねぇだろうから、適当に近場で宿とろうと思ってた」
「私が一緒だったら、シノさんも泊めてくれるかもしれません」
「――そっか。んじゃ、明日二人で訪ねてみようぜ」
「はいっ!!」
よかった、無事に話がついた。
シノさんの写場の様子がどうなっているかも気になっていたから、ちょうどいい。
それにしても、隊長につづいて先輩とも泊りがけのお出かけをすることになるなんて、最近は忙しいなぁ。
それからは、今後の方針についての取り決めを行った。
手分けして矢生一派の消息を探るということで話はまとまり、幹部それぞれに地域が割り当てられた。
そして今のところ、平隊士さんには矢生一派についての調査内容を打ち明けてはいないらしい。
あの事件以来、内部に反乱分子や間者が残っているかもしれないとの疑いを強め、重要事項は隊長、幹部の耳に留めておくことになったそうで。
危険は伴うけれど、有力な情報を得られるまでは幹部の足で捜索を続けるということだ。
おおむねそういった話をして、一旦お開きになった。
と言っても、幹部のみなさんはまだ隊の諸事情について話し合いがあるそうだから、退室するのは私一人だけど。
「では、お先に失礼します」
廊下に出た私は、見送りの言葉をかけてくれる面々に向かって頭を下げ、そっと障子を閉めた。
ふぅと軽く息を吐いて、自室まで続く廊下を歩く。
私みたいに無知で能天気なお子様は、皆の話を耳に入れているだけで目が回ってしまうよ。
けれど、無事話し合いが済んで、明確な目的と役割を与えられた。
あとは先輩と一緒に、まっすぐに突き進んでいくのみだ。
――また明日から、泊りがけの調査になる。
部屋に戻って荷造りでもしておこうっと。




