第六十五話:先輩とお出かけしよう!
早起きして仕度を済ませ、うきうきと朝餉をたいらげ、万全の体勢でこの日を迎えた私たちは、玄関で向かい合っていた。
「訓練だけはすっぽかせねぇからよ、悪ぃがちょっと待っててくれ。今日は早めに切り上げるわ」
「はいっ! 頑張ってくださいね。いってらっしゃい!」
「おう! 行ってくるぜ!」
明るい笑みを向けて大きく手を振ると、先輩は射場のほうへと走っていく。
私はそんな彼の背中を長々と見送って、鼻歌まじりに玄関へと戻った。
――すると、そこには隊長と大橋さんが立っている。
「……夫婦か?」
「夫婦ですねぇ」
冷やかし混じりに囁きあう二人を見て、かっと頬が赤くなる。
見られた……!
浮かれきってゆるゆるな顔を、よりによってこの二人に見られてしまった!!
「あ、あの! 今日はですね、先輩とお出かけする用事があって、それで私、嬉しくって……」
「そうか、仲良くやっているんだな」
「はい、仲はいいです。でも夫婦っていうのは……」
「分かっていますよ、おかしな関係ではないことくらい。ただ、純粋に二人の仲の良さが微笑ましいだけです」
赤面したままうつむいた私を見て、大橋さんがくすりと笑みをこぼす。
……この二人がこんなことを言ってからかってくるなんて、予想外だ。
誰にひやかされるよりもドキリとしてしまう。
「さぁて、俺もそろそろ行くか」
もじもじしたまま固まっている私の頭にポンと手を置きその場に腰かけると、隊長は慣れた手つきで草鞋の緒を通していく。
よくよく見れば、振り分け荷物を肩にかけている。遠出するのかな?
「中岡さん、くれぐれも道中お気をつけて」
大橋さんが、支度を整える隊長に向かって穏やかに声をかける。
「ああ、分かってる」
「忘れ物はありませんか? 財布は?」
「持った。心配ない」
「あまり寄り道せずに、なるべく明るいうちにお帰りくださいね」
「そうする……よし、行ってくる!」
大橋さんと隊長のやりとりは、まるで母と子だ。
なんとなくいつもの威厳がしおれて隊長が可愛らしく見えてしまう……けれど、これは黙っておこう。
仕度が整ったらしい隊長は、立ち上がってこちらを一瞥し、玄関を出て行く。
私はそんな彼の背中を追いかけて、大声で見送った。
「隊長ー! いってらっしゃーーい!! お気をつけてーーー!!」
ぶんぶんと手を振る私を見て苦笑をもらしながらも、隊長は小さく手を挙げて応えてくれた。
先輩や大橋さんの話によると、隊長は各所に散らばる同志のもとを渡り歩きながら、日々相談や交渉を続けているらしい。
幕府打倒の流れを円滑にするために。そして、陸援隊の活躍の場を作るために。
ずっとずっと、隊士さんの知らないところで力を尽くしてくれている。
きっと、私の想像も及ばないほど難しくて大変なお仕事だ。
だったらせめて屯所に帰ってきた時くらいは、彼がゆっくりできるように力を尽くそう――。
見送りを終えて、玄関のほうへと戻る。
すると、縁側に腰をかけて葉月ちゃんとくつろいでいる大橋さんを見つけた。
私も縁側のほうへと回って、彼の隣に腰をかける。
「大橋さん、まるでお母さんでしたね」
「実は、よく言われるのです」
くすくすと静かに笑いながら、大橋さんは葉月ちゃんの喉もとを撫でる。
その優しい手つきに、とろけそうな顔でご満悦な葉月ちゃん。かわいいなぁ。
「隊長が子供に見えちゃいましたよ」
「中岡さんはああ見えて意外と、抜けているところがあるんですよ」
「へぇぇぇ……なんでも完璧にこなしそうなのに! 寄り道とかもしない感じがしますし」
「寄り道、しますよ。彼は風呂が好きでして、見かけるたびに風呂屋に入ってしまうんです」
「わぁ、でもそれって綺麗好きってことですよね? いいじゃないですか!」
男の人はお風呂嫌いな人もいるからなぁ。
うちの父も豪太郎おじちゃんも、面倒くさいからってなかなか入ろうとしなかったし。
家にこもって書き物ばかりしてると、特にそういうのがおっくうになるものかな?
「綺麗好きと言うより、湯につかって考え事をするのが好きなようです。一緒に歩いていても唐突に風呂屋へ足を向けることがありますからね」
「それはちょっと困りものですね。お風呂でいい考えが浮かぶというのはなんとなく分かるんですが……」
「でしょう? ですから、寄り道はほどほどにと口酸っぱく言っているのです」
「へぇぇ……でも、そういう風に注意してくれる人がそばにいるっていうのも、いいですよね」
隊長が一番偉いのだから、幹部は遠慮して意見を控えたりしそうなものだけど。
私が見る限り、陸援隊にはそういったあからさまな上下関係はない。
隊長も幹部も、臆すことなくあけっぴろげにお互いの意見をぶつけあっている。
「ここの幹部に誘われたときに、中岡さんから頭を下げられました。隊長だからと言って遠慮はしないでほしいと。これまで通り叱ってくれと」
「これまで通りということは、よく隊長を叱っていたんですか……?」
「叱るというほどではないんですが、間違っていると思ったことはその場で正してきましたよ。もちろん逆もあります。互いに忌憚なく意見しあえる仲でしたから」
「そうだったんですかぁ。でしたら隊長は、よっぽど大橋さんのこと信頼しているんですね」
「……そうであるなら嬉しいです。私も、彼の力になれるよう精一杯働かねばと思っていますから」
顔をあげてこちらに微笑みかけてくれる大橋さんの表情は、まっすぐで曇りのないものだった。
大きく包み込んでくれるような、優しくて頼もしいあたたかさ。
隊長だけではなく、幹部や平隊士さんからも慕われる大橋さんの器の大きさに、あらためて触れた気がした。
彼は、あくまでも支える側に徹しようとしてくれている。
その献身と揺るがない芯の強さを、皆が心から信頼しているんだ――。
それからしばらく、私は大橋さんの隣で葉月ちゃんを眺めていた。
無理に触るのもよくないだろうと考えて、じっと我慢していたのだ。
陸奥さんに見せてあげたい、この進歩……!
時折ぽつりぽつりと言葉を交わしながら生い茂る木々のざわめきに耳を傾けていると、射場のほうから銃を掲げて走ってくる先輩の姿が見えた。
「おおーーい! 訓練終わったぜ! 着替えてくるから待っててくれぇ!!」
「はいっ! 待ってます!!」
……早いなぁ。
まだ、見送ってから一刻も経っていないのに。
立ち上がって裾を払い、懐から取り出した櫛で髪をといていると、大橋さんが穏やかな声で見送ってくれた。
「楽しんでいらしてくださいね。たまにはあなたも、ゆっくり過ごすべきです」
「ありがとうございます……! 楽しんできますっ!」
「いってらっしゃい」
大橋さんが葉月ちゃんの手をとって、ぱたぱたと振ってくれる。
ふわふわの小さなおててがこちらを向き、桃色の肉球がゆれる。
きょとんとしながらも、されるがままの葉月ちゃんがかわいすぎるっ!!
「大橋さん、葉月ちゃん、いってきまーーすっ!」
二人に手をふって、玄関へと駆け出した。
先輩は身だしなみを整えるのも早いから、きっとすぐに出てくるだろう。
玄関前でのんびりと空を眺めていると、風のような速さで草履をつっかけて、先輩が飛び出してきた。
軽く水浴びでもした後なのか、手拭いでばさばさと髪を拭いている。
……前髪がおりているせいか、いつもと雰囲気が違うな。
おでこが見えないとまるで別人だ。
「わりぃ、髪整える時間なかった」
「別人みたいでびっくりしちゃいました」
「水もしたたるなんとやら、だなァ。オレ様の魅力八割増しだぜ」
「はいはい。かっこいいですから、きちんと髪拭いてくださいね」
ぼたぼたと水滴を垂らす髪を手拭いで包んで、ぎゅっとしぼる。
こんなに水びたしでは、いい男も台無しだ。
そんな小言めいたやりとりがふいにおかしくなり、お互いにはにかむように笑みが漏れる。
「おっしゃ、行こうぜ。どこ行きてぇか決まったか?」
「はいっ!!」
「おし、聞かせろ!」
「まず清水寺と、ミネくんのところと、シノさんの写場と、おいしいって評判の美里屋っていう甘味処と、さっき大橋さんから聞いたお寺がいくつか……」
「多すぎだろオイ!」
指を折りながらあれこれと名前を挙げていると、ぺしんと勢いよく額がはじかれた。
「私なりに一生懸命考えたんですよう……あ、そうだ! ねこまんま亭にも行ってみたいですっ!」
「今日は二人で楽しむんだよ! だから誰かに会いに行くとかはナシだ!」
「うう……かすみさんのお見舞いは……?」
「そりゃあ……行かなきゃな」
しばし考えて、先輩は譲歩してくれた。
やっぱりどんな時でも、かすみさんをないがしろにするような事だけはしたくない。
「でしたらまずはお見舞いに行って、そのあと……」
「なんとか絞れねぇか?」
「うーーん……それなら清水寺がいいです!」
「おっし、決まりィ! 行こうぜ!!」
「はいっ!!」
ぱしんと手のひらを打ち合わせた私たちは、仲良く並んで門のほうへと歩いていく。
こんなにわくわくした気持ちで外出するのは久しぶりだ。
楽しい一日になるといいな――。
螢静堂に到着すると、挨拶もそこそこにかすみさんの部屋へと直行した。
昨日は結局会うことができなかったから、一日ぶりの再会だ。
あの後くそたろうの挿絵の顛末をゆきちゃんから聞いたそうで、すごいことだと大層喜んでくれた。
「それとね、山村先生がまたお返事を書いてくださるって」
「うん! しばらく文でやりとりしてみたらいいと思う」
「そうしてみるね――あ、それと」
かすみさんは文机の上に置かれた小箱から二通の文を取りだし、私に手渡した。
一方は薄く、一方は分厚い。
この細身でさらさらとした字は――
「これ、兄さまから。美湖ちゃんと、中岡さんへ」
「わぁ! やっぱり雨京さんから! お返事書くって伝えておいてね!」
「うん」
普段文なんてほとんどもらう機会がないから、嬉しいな。
私は二通の文をそっと懐におさめて、にこにことかすみさんに向き直る。
「それじゃ、美湖ちゃんいってらっしゃい」
「……え? なになに? まだ時間あるよ?」
今日はいつもよりも早く会いに来れたから、たくさん話ができると思っていたのに。
かすみさんは、いつものふんわりとした笑顔でゆらゆらと手を振っている。
「雪子さんから聞いたよ。美湖ちゃん毎日忙しくしてるから、今日は田中さんとゆっくり過ごすんだって」
「ええ!? 聞いてたの!?」
「うん……私もね、美湖ちゃんが無理していないか心配だったから、きちんと周りの方々が配慮してくださっているって知って、ほっとしてるの」
「そっか……うん、皆さんすごく気にかけてくれてるよ。だから心配しないでね」
ぎゅっと、かすみさんの手を握る。
心配をかけまいと自分の話はできるだけしてこなかったけれど、それがかえって不安を煽ることもあるのかもしれない。
「美湖ちゃんは田中さんと仲がいいんですってね。いつも二人でここに来てくれるって」
「あ……う、うん。田中さん、すごく優しくてね。いつも隣で気にかけてくれて……」
「私はあの写真のお顔しか知らないけど、ご本人はずいぶん違うお顔だちなのよね?」
「うん! もっと男らしいし格好いいんだよ! 話もとっても面白くってねぇ……!」
話しているうちに思わず前のめりになって、そしてはっと我にかえり、赤くなって姿勢を正す。
……なんでだろう。
かすみさんが先輩に興味を持ってくれたことが嬉しくて、ついはしゃいでしまった。
「美湖ちゃんは、田中さんが好きなのね」
「え……!? な、何言ってるのかすみさん!」
ただでさえ照れてむずがゆい思いをしていたのに、かすみさんはにこやかに追い討ちをかけてくる。
動揺しすぎてうまく言葉が出てこないよ……!
「ふふ。美湖ちゃん、これからは遠慮せずに田中さんたちのお話を聞かせてね」
「……どういうこと?」
「私の前では気をつかって男の人の話を避けてくれていたでしょう? でも、もう大丈夫だから。私も話を聞くくらいなら平気だよ。だから美湖ちゃんの日常をもっと聞かせて?」
「かすみさん……うん、分かった。毎日楽しいから、話したいこといっぱいだよ!」
かすみさんの真意に触れて、なんだかふわりと気持ちが軽くなった気がした。
目覚めた当初とは、もう違うんだ。
いつまでも腫れ物をさわるような扱いで接していては、彼女にとっても辛いだろう。
変わろうとしているその歩幅に合わせて、私も前に進んでいかなきゃ。
これからは、もっといろんな話をしてかすみさんを笑顔にするんだ。
外に広がる世界に、自然に目を向けられるように――。
その後診察室に戻った私は、ゆきちゃんから追い出されるようにして外に掃き出された。
これからは二人きりで楽しんで! と満面の笑みで背中を押す彼女は、この状況を楽しんでいるようだった。
それからすぐに笑いながら追いかけてきてくれた先輩と合流して、目的地へと歩きだす。
ゆきちゃんが別れぎわに何やら先輩に耳打ちしていたようだけど、気にしないでおこう。
「さぁて、いよいよ清水寺だな!」
「はいっ!」
「天気もいいし、のんびり行こうぜ」
「そうしましょうっ! あ、先輩、髪乾きましたね」
ぽかぽかとした陽気のおかげか、いつの間にやらさらりと整っている。
ただ、あいかわらずおでこが見えないので一瞬誰だか分からなくなる。
先輩の本体はおでこなんじゃないかな。
「じろじろ見てどうした? 男前すぎて惚れたか?」
「……いえ、先輩って、おでこが見えてないと本当に幼く見えるなぁって」
「うわ、それ気にしてんだから言うなよ……いくつくらいに見える?」
「十八くらいかなぁって」
「おめぇと大差ねーな! ……まぁいいか、今日は二人で遊ぶし。同年代のダチだと思ってくれや」
一瞬不満げに顔をしかめた先輩は、思い直したようにふぅと息を吐いて、私の頬に拳をくっつけた。
「よろしくね、ケンちゃん」
「コイツ、躊躇なく距離縮めやがった!」
「ダチだって言ってくれましたし……」
「ケン呼びは身内か目上限定だ! どうしてもってんなら嫁に来いや!」
そんな決まりがあったなんて知らなかった。
さりげなくシノさんもケンちゃんって呼んでいたけど、あれは良かったのかな。
年上だし目上の人ではあるから、つっぱねられなかったのかも。
「もう二度と呼びません、ごめんなさい」
「なんかそれはそれで傷つくじゃねーか!!」
わいわいと騒ぎながら、賑やかな往来を歩いていく。
こんなに楽しいのは、いつぶりだろう。
何でもない会話がたまらなくおかしくて、笑いあえることが幸せで。
……やっぱり私、先輩といる時間が好きだな。




