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よあけまえのキミへ  作者: 三咲ゆま
二章 陸援隊編
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第六十四話:一件落着

「いい天気~! 洗濯物が早く乾きそう!」


 秋晴れの高く澄んだ空を見上げながら、私は陽光のまぶしさに目を細めた。

 朝餉を済ませて山のような洗濯物を片付け終わったあとだから、もうすぐ先輩の訓練も一段落つく頃だろう。


 ちなみに昨夜は、ゆきちゃんの説得が無事に成功したお祝いとして、隊長や幹部のみなさんと夕餉を囲みながら遅くまで盛り上がった。

 香川さんは飲みの口実ができれば何でもいいんだろうけど、くそたろうには目を通してくれたそうで、内容を細かく誉めてくれた。

 大橋さんも、奇抜な内容ながら楽しく読めたと言ってくれたし、何より挿絵を気に入ってくれたみたいだ。

 隊長は、ゆきちゃんの挿絵が楽しみだと笑ってくれて、先輩はひときわ機嫌よくお酒を飲みながら、熊おじちゃんのことを絶賛していた。


 皆が皆、挿絵の問題を自分のことのように気にかけてくれていたし、事が丸くおさまりそうだと聞いて心から喜んでくれた。

 本当に優しい人たちだなぁ。

 ゆきちゃんが挿絵を描いた新刊を一日も早く見てもらえるよう、あと少しだけ頑張らなきゃ。




 鼻歌まじりに屋敷のほうへ戻ろうとした私の背に、中庭の向こうからはずんだ声が響いてきた。


「天野センパーイ!! おはよーございまーーす!!」


 ……せんぱい?

 何事だろうと振り返ってみれば、そこには新入隊士の村山さんが立っている。


「村山さん、おはようございます。なんですか? 先輩って」


「俺の前にここに来たのが天野さんだって聞いたんで、センパイだなと思って!」


「そんな、私は名簿に名前があるわけじゃないですから……」


「でも初日からお世話になりましたから! センパイはセンパイっす!」


「わ、わかりました……! じゃあ先輩としてがんばります!」


 人懐っこい笑みを見せながら私を慕ってくれているところを見ると、これ以上つっぱねる気にはならない。

 それに先輩って響きはちょっと嬉しいし。

 田中先輩が気に入ったのも今なら何となく頷ける。


「うっすセンパイ! そんで門番のヤマダさんから伝言です。お客さんが来てるって」


「お客さん? 私にですか?」


「そうっすよ、女の子でした。今も門のとこで待ってるんじゃないすかね」


「分かりました、ありがとうございます! 行ってみます!」


 女の子……となれば心当たりは一人しかいない。

 私は村山さんに大きく頭を下げて、すぐさま門のほうへと走った。


 遠目から見ても分かる。

 彼女の鮮やかな着物は男所帯の陸援隊には似つかわしくないもので、まるでその周囲にぱっと明るく花が咲いたようだった。


「ゆきちゃーーん!! 来てくれたの!?」


「ああ、みこちん。ごめんなぁ、朝はようから」


 門番のヤマダさんと西山さんから足止めを食らっているらしいゆきちゃんは、苦笑しながら彼らに対応していた。

 どうして中に入れてもらえないのかな?

 ゆきちゃんは矢生一派との騒動の後ここまで傷の手当てに来てくれたから、顔は覚えてもらっているだろうに。

 

「ゆきちゃんよー、今度どっか遊びにいこうぜ」


「僕、前に手当てしてもらったときから、キミのこと夢に見るんだ」


 ……口説かれてる!?

 ヤマダさんの表情はいつもながら怖いけれど、よくよく見れば鼻の下がのびている。

 西山さんは論外だ。

 茶屋の看板娘さんにご執心だって聞いたばかりなのに、この変わり身の早さ!!


「二人とも、ゆきちゃんはお相手いるんですから、変なちょっかいかけないでくださいっ」


 お説教口調で注意を促し、ゆきちゃんの手をとって門の中へと招き入れる。


「はあああ!? 相手いんのかい! 天野だけじゃなくゆきちゃんまで売約済みか!!」


「つらいよおおお!! もう世の中には、僕たちに割り振られる女の子は残ってないんだあああ!!」


 男くさい生活の中で今にも干からびそうな二人の叫びが、後方からこだまする。

 少しかわいそうだけど、仕方がない。

 私は断固藤原さんの味方なのだ。


「みこちんおおきに。二人ともしつこうて困ってたんよ。まぁ、お相手なんかおらんけどな」


 門からしばらく歩いて周囲から人が離れたところで、ゆきちゃんがふわりと明るく笑みを見せた。


「……ゆきちゃん、本当に誰も気になる人いないの?」


「おらんって。何度も言うけど、謙吉さんのことはほんまに諦めたんやから」


「そっかぁ……」


 聞いてるのは、長岡さんのことじゃないんだけどな。

 藤原さんの恋路はかなりけわしいものになりそうだ。


「そんでな、約束しとったくそたろうの絵、持ってきたんよ!」


「ええっ!? もう描けたの!?」


「うん。久々に熱中して明け方まで頑張ったわ。三枚できたで」


 ゆきちゃんは、手に提げていた風呂敷を軽く持ち上げて胸を張る。

 その表情には、もう弱々しく逃げ腰だった昨日までの面影はない。


「すごいよ、ゆきちゃんっ! それ、これからおじちゃんのところに持っていける!?」


「そのつもりで来たから、いこいこ! うちも早うおじちゃんに会いたいわ!」


「うんっ! 行こう! ちょっと待ってて、私、先輩に声かけてくるね!」


 まさかこんなにトントンと話が運ぶなんて、思ってもみなかった。

 人の絵を参考に、それに似せて描いていくのはコツがいるだろうから、もっと何日もかかるものだと思ってた。

 私ははずむ心を抑えつつ、射場のほうへと駆けていく。



 集団での調練がある特別な日以外は、弾込めの要領と銃の扱いを学んでいくのが主な訓練内容だそうだ。

 隊列の組み方なんかも教本に書いてあるらしいので、それを読みながら戦場での動きを体に叩きこんでいるんだろう。


 陸援隊は、いずれ起こる戦に出て幕府打倒の軍として動く集団だ。

 いつその時が来てもいいように、先輩は毎日隊士さんの傍でその心構えを説いている。

 そう考えると、彼はいつだって隊の最前線に立つ幹部ということになるわけで――。

 私といる時はくだけた態度で笑わせてくれるけれど、本当はたくさんの責任を負って日夜隊士さんたちと向き合っているんだよね。


 ……すごいな、先輩って。

 最近は、ほとんど半日私のために時間を割いてくれているんだから、やっぱりきちんとお礼をしなきゃいけないな――。



 そんなことを思い巡らせながら射場まで到着すれば、どうやらもう訓練自体は終わっているようだった。

 隊士さんたちはそのまま井戸へと直行したのか、あたりには見あたらない。

 そこに立っているのは、田中先輩だけだ。


「せんぱい――……」


 声をかけようとして、きゅっと喉の奥が絞まった。

 銃を手にして的を見つめる先輩の表情は真剣そのものだ。

 鋭く目を細めて、はるか前方の的に狙いを定めている。


 ――そしてそのまま引き金を引くのかと思いきや、じっと的を見つめたあと、彼は持ち上げていた銃身を下げた。

 そういえば合同演習の時を除いて、よほどの事がない限り敷地内での発砲は禁止されているんだっけ。

 音も響くし、弾ももったいないし、万一の事があっては大変だからという配慮からの取り決めだそうだ。



「先輩! 練習熱心ですねぇ」


 気をとりなおして背後からそっと言葉をかける。

 今なら邪魔にならないはずだ。


「おう、天野か。悪ぃ悪ぃ、もう終わるからよ」


「いえ、せかすつもりはないんです。それ、この前取り返した銃ですね!」


 先輩が手にしているのは、矢生一派から奪い返したきんぴかの長銃だ。

 いつ見てもかっこいいなぁ。

 他の隊士さんが使っているものとは見た目からして違うんだもの。


「おうよ。普段エンフィールドばっか触ってるからよ、こっちも扱いを忘れねぇようにな」


 そっか、えんふぃーるど銃。

 隊士さん達に扱いを教えるために、先輩も訓練ではそっちの銃を使っているんだな。


「それは、えんふぃーるどとは使い方が違うんですか?」


「全然違うぜ」


 ――と。先輩は引き金のすぐ上を覆う金属部を指でつついてみせた。

 顔を近づけてみれば、そこには小さな穴が開いている。ちょうど銃弾程度の大きさだ。


「もしかして、この穴から弾を?」


「おう。ここから十三発分突っ込んでおけるんだ。んで、引き金の下についてるこの金具を操作して、次弾の装填や排莢ができる」


「へぇぇ……いちいち銃口から弾を込めなくってもいいんですね」


 先込めとは違う種類の銃もあるって聞いていたけれど、こんな形なんだ。

 先輩が慣れた手つきで装弾用の金具を触れば、それはガチリと音を立てながら下に開いた。

 これで装填完了なのかな。お手軽だ。

 

「レバーアクションっつう形式らしい。利点は装填の早さと、連発できるってとこだな」


「とってもおりこうさんですね」


 こちらにみせびらかすようにして差し出された銃身を、よしよしと撫でる。

 そんな私の反応が予想外だったのか、先輩はむず痒そうに眉をよせて、わずかに目を泳がせた。


「こいつは坂本さんが長崎で交渉して一挺だけ手に入れた貴重な品でよぉ。陸援隊に贈ってくれたんだ。この国にゃほとんど流れてねぇ銃だぜ」


「わぁぁ、すごい!! なんていうお名前の銃ですか?」


「ウィンチェスターライフルってんだ」


「か、かっこいい……!!」


「だろ? いつかこいつを戦場でぶっぱなすために、毎日射撃姿勢の練習だけは欠かしてねぇ!」


 聞きなれない異国の響きに目を輝かせた私を見て、先輩はふっと笑みを浮かべる。

 そうしてふたたび銀の筒を銃の底に込めなおし、くるりと銃口を的に向けて構えた。


「ずばーーん!!」


 撃ちたくても撃てない先輩のために、銃声を声に出してみる。


「おっ、ありがとよ! ちょっと撃った気になれたぜ」


「えへへ、どういたしまして」


「うっしゃ、今日のところはこのへんにしとくかぁ!」


 にかっと歯を見せて笑ってくれた先輩は、わしゃわしゃと私の頭を撫でたあと、銃を担いで中庭へと歩き出す。

 なんだか満足そうな表情だ。

 銃のこと誉めてもらえたから機嫌がいいのかな。



「先輩、実はさっきゆきちゃんがここを訪ねてくれたんですよ」


 ずかずかと先を歩く先輩に駆け足で追いついて、隣につく。

 すると彼は歩をゆるめて驚いた顔を見せた。


「どうした、何か急用か?」


「くそたろうの絵が描けたので、これからおじちゃんに見せに行きたいそうです」


「もう描けたのか! 早ぇなぁ!!」


「すごいですよね。だから、先輩も一緒についてきてほしいなって」


「おう、もちろん行くぜ! んじゃ、ぱぱっと着替えてくる!」


 言うが早いか、先輩は玄関に向かって一直線に走っていく。

 朝からさんざん動いているだろうに、まだまだ体力を持て余している様子だ。

 本当に元気な人だなぁ。

 先輩を見ていたら、不思議とこちらまで気力が充実してくる。

 今日も一日頑張ろうって、力が湧きだしてくるんだよね。

 ようし、私も、挿絵問題解決に向けてできることをやっていこう! もう一息で決着だ!!




 三人揃ったところで屯所を出た私たちは、まっすぐにおじちゃんの庵へと向かっていた。

 天気がよく風も穏やかなので、山へと続く道を歩くのは清々しく気分がいい。

 

「おじちゃんに会うの久しぶりやなぁ。うちの絵見て、何て言うやろ……」


 だんだんと視界に入る民家が減り、おじちゃんの家ももうすぐそこ、というところまで来ると、不安げにゆきちゃんが目を伏せた。

 今回は絵師として作品を持参しているんだから、怖いと思うのも当然だ。


「気に入ってくれると思うよ。大丈夫! 私が太鼓判を押すから!」


「塩辛も買ってきたし、心配いらねぇって!」


 先輩がそう言って励ますように塩辛の包みを掲げる。

 おじちゃんを訪ねる時の定番のお土産になっちゃったな、塩辛。


「まぁ、ここまで来たからにはやる気を見せていかなアカンな! うちは天野先生の仕事を継ぎたいんや!!」


「うん! その意気だよゆきちゃん!! ゆきちゃんの絵でくそたろうの新刊を出そう!!」


 おーーっ!と、三人は拳を突き上げて団結する。

 ゆきちゃんがここまで堂々と絵仕事に向き合ってくれるようになるなんて、昨日までは想像もしていなかった。

 嬉しいな。自信を取り戻してくれたことも、父の仕事を大切に思ってくれていることも。




 やがて庵までたどり着いた私たちは、戸口まで歩み寄ろうとしてふと足を止めた。


「ぐおおおおおーーーーーっ!! ぐおおおおおおーーーーーっ!!!」


 中から、何やらものすごい音が聞こえてくる。

 音というより、声かな?

 おじちゃん、ついに猛獣でも飼いはじめた?


「なんやこの鳴き声。もう絶対アカンやつやん」


「おじちゃん、猛獣に食べられてたらどうしよう」


 後ずさりしながら震える私をよそに、田中先輩はずかずかと格子窓のほうへ回って、大声を上げた。


「おっちゃーーーーん!!! 起きてくれ!! 天野とゆきちゃんが来たぜ!!」


 キーンと耳の奥まで響いてくるその声で、周辺の木々に止まっていた鳥たちが一斉に飛び立った。

 起きてくれ、ということは……


「先輩、中におじちゃんが?」


「おう……あ、今起きたぜ」


 先輩は、窓ごしに中のおじちゃんに手を振っている。

 私も背伸びして庵の中を覗いてみると、たしかに布団からもぞもぞと這い出す熊おじちゃんの姿が見える。


「おじちゃん、起こしちゃってごめんね。今からお話できる?」


「おう、美湖ちゃん! 布団たたむからちょっと待ってくれい」


「ゆっくりでいいよー」


 そう告げて、ふたたびゆきちゃんが待つ戸口のほうへと戻る。

 おじちゃんはまだ半分眠りこけていたから、準備に時間がかかるかもしれない。


「さっきの声っておじちゃんのイビキやったん? 獣の声にしか聞こえんかったわ」


「先輩、よくおじちゃんが寝てるって分かりましたね」


「いやー、ウチのおいちゃんのイビキにそっくりだったからよぉ」


 あ、また出た、おいちゃんの話。

 たしか前に聞いたのは、握ったおにぎりが硬すぎるっていう話だったっけ。


「おいちゃんって、どんな方なんですか?」


「オレの叔父でなぁ、どっか豪太郎のおっちゃんに似てるとこがあるんだ」


「へぇぇ……それはすごく気になります!」


 話を聞く限り、豪快で面白い人なのかな。

 おじちゃんにそっくりだというなら、私もぜひいつか会ってみたい。

 陸援隊に所属しているわけではないみたいだけど、そのうち訪ねてきてくれたりするかな?



「――いやぁ、すまんすまん! 最近は昼起きが日常でなぁ」


 ガタガタと木の擦れ合う音がして、目の前の戸が開いた。

 あくびまじりに私たちを出迎えてくれたおじちゃんは、中へ入るようにと手で促す。

 そんなおじちゃんの前にはずむように飛び出して、ゆきちゃんはぱっと笑みを浮かべてみせた。


「おじちゃん久しぶり! うち、雪子やけど覚えてる?」


「おおおおおお!! ゆきちゃんか!! 大きゅうなったのうーー!!」


「おじちゃんも、また一回りでかなったな!」


「がっはっは!! 最近は食っちゃ寝生活じゃったからのう~」


 そうして一瞬で元通りに打ち解けた二人は、朗らかに笑い合いながら囲炉裏を囲む。

 私たち三人が座ったのを見て、おじちゃんは即席で具材を詰め込んだ鍋を火にかけてくれた。

 囲炉裏端は温かくて、手をくべているとなんだかほっとするなぁ。



「それでね、おじちゃん。ここに来たのは、ゆきちゃんがくそたろうの絵師を引き受けたいって言ってくれたからなんだよ」


 私の向かいにおじちゃんが座ったところで、さっそく本題に入る。

 ゆきちゃんを連れてきたからにはそういうことだろうと理解していたのか、おじちゃんは穏やかに頷いてみせた。


「美湖ちゃんが訪ねてきた日から、いろいろと考えてのう。やはりくそたろうの続きを出していきたいと思った。ゆきちゃんが描いてくれるのであれば、湖太郎も喜ぶじゃろう」


「ちょい待ち、おじちゃん! そういうんはまず、うちの絵を見てから言って!!」


 ゆきちゃんはおじちゃんの言葉尻をさえぎるように声を上げ、風呂敷の中から紙束を取り出した。

 そしてそれを、見えやすいように床に広げる。

 墨一色で描かれた版下が計六枚もある。

 たしか、描けたのは三枚と言っていたはずだけど……。


「こっちは、天野先生の筆運びに似せて描いた三枚。ほんでこっちが、うちなりにくそたろうを描いてみた三枚や」


 六枚の絵を順に流し見て、おおっと一同声を上げる。

 同じ人物、同じ構図を描いたものだけど、たしかにそれらは別物に仕上がっていた。

 くそたろうを描くときの父の筆運びは思い切りよく豪快な線で、ふとぶとと肉付けされている。

 対してゆきちゃんの筆運びは、暴れるようなやんちゃさを残しながらも、踊るように軽やかな線だ。

 彼女らしい味がよく出ている。

 毛色は違えど、父の絵と同じく、人の気持ちを楽しくわくわくさせる力を持っている。


「すごいのう、ゆきちゃんは。これなど、湖太郎の絵と見紛うほどじゃ!」


 その画力に感嘆し、おじちゃんは紙束を手元にかきあつめながら目を輝かせている。


「先生の絵は今でもよく模写してるんよ。おじちゃんにそう言ってもらえたら嬉しいわ」


「うむ! しかしのう、わしはこっちの絵も好きじゃぞい! 動きが生き生きしておる!!」


 おじちゃんが手に取ったのは、ゆきちゃんなりの筆づかいで描いた一枚だ。

 大岩を砕くくそたろうの姿が、なめらかな線の強弱で書き出されている。まるで今にも動き出しそうな絵だ。


「ほんまに? 実はうちも、その絵は気に入ってるんよ!」


 ゆきちゃんの表情がほんわかと緩む。

 自分の作風を受け入れてもらえてほっとしているんだろう。


「いやぁ、美湖ちゃんから上手いとは聞かされておったが、ここまで描けるとはのう! ゆきちゃん、正式に絵師として挿絵をつけてくれんか?」


 ばしんと膝を叩いて決心をあらわにしたおじちゃんは、背筋を正してゆきちゃんに頭を下げる。

 ――まさか、こんなにすんなりと事が運ぶなんて……!!


「おじちゃん! ほんまにええの!? うちの絵で大丈夫やろか?」


「いいとも!! 実は昨日、朝から峰吉が訪ねてきてくれてのう。わしの古い作を読みふけりながら、心底嬉しそうに目を輝かせておった。それを見て、こんな少年たちのためにもっと話を書いていきたいと思ったんじゃ。そう考え出したら絵師で揉めておる時間も惜しくてのう。ゆきちゃんが来てくれた日にはこちらから依頼しようと思っておったとこじゃよ」


「そうやったんかぁ……ほんじゃ、わざわざ気合いいれて何枚も描いてこんでよかったなぁ」


 拍子抜けしたようにへなへなと姿勢を崩すゆきちゃん。

 おじちゃんは頑固な姿勢で絵師を選んでいると話したから、気を張っていたのかもしれない。


 ……それにしてもミネくん、さっそくおじちゃんの過去作を読みに行ったんだ。

 さすが生粋の愛読者。

 影の功労者として、今度お礼の品を贈らせてもらおう。


「いやいや! この絵を見てわしは感動したぞ!! 絵師を任せるならゆきちゃんしかおらんと確信した!! ゆきちゃんは確かに、湖太郎の後継者じゃ!!」


 おじちゃんは心底感銘を受けた様子で、それはもう熱く称賛する。

 ずっと探し求めていたものをようやく掴んだ喜びが、表情にも声色にもにじみ出ていた。

 仕事には一切妥協しないおじちゃんが、こうまで言ってくれるんだもの。

 もう何も不安に思うことはないよね。

 ゆきちゃんもその一言で肚が決まったようで、膝の上で握った拳にぎゅっと力を込め、深々と頭を下げた。


「……そこまで言ってもろうたら、もう全力で頑張るしかないな。くそたろうの挿絵、引き受けます!!」


「おおおおっっ!! ゆきちゃん、ありがとうよ!! よおおおし、今日はとことん飲み食いして行ってくれい!!」


 おじちゃんが上機嫌で杯を掲げると、それに合わせて私たちも湯飲みを掲げて乾杯した。

 ――交渉成立!

 長かったくそたろうの絵師問題に、ようやく決着がついてくれた。



 それからはもう、飲めや歌えやの大騒ぎ。

 肩の荷が降りた安心感からか皆が皆始終笑いっぱなしで、あれこれととりとめのない話に花が咲いた。

 私とゆきちゃんはお酒は控えたけれど、先輩は機嫌のいいおじちゃんからしこたま飲まされて、わずかに顔に赤みがさしていた。

 おじちゃんなんかは飲み過ぎて赤鬼のような風貌になってしまっていたけれど、今日くらいは楽しく酔わせてあげようと、ゆきちゃんと一緒に笑顔でお酌をした。


 楽しい楽しいひとときだった。

 食べて飲んで、これから創っていく本への展望と意気込みを語り合って。

 ゆきちゃんもおじちゃんも、それまで抱えていた自信のなさや弱気な一面を脱ぎ捨てて、どこか吹っ切れたような表情をしていた。

 二人とも、昨日今日で自分という書き手と最大限に向き合って、壁を突破したんだ。

 そんな二人が手がける新しいくそたろうは、きっと素晴らしいものになるだろう。

 早く私も読んでみたいな。

 その時はぜひ、ミネくんも誘って朗読会をしよう――!!



 おじちゃんと別れて螢静堂につく頃には、空の色も薄紫へと変わっていた。

 抱えていた問題は最高の形で話がついたし、おいしい鍋でお腹もふくれて三人の足取りは軽い。

 だけど、少し長居しすぎちゃったかな。

 ――かすみさん、心配してるかも。



 診療所の中へと足を踏み入れれば、すぐさまむた兄が出迎えてくれた。


「どうやった!?」


 そわそわとして落ち着かない様子から見て、一日中ゆきちゃんのことを気にかけてくれていたんだろう。

 そんなむた兄に、ゆきちゃんは胸をはって報告する。


「うちが新しい絵師に決まった!」


「ほんまかーー!! すごいなぁ雪子!! よかった、よかった!!」


 むた兄は珍しく手を打って大喜びし、ゆきちゃんの頭をぐしゃぐしゃとなで回しながら、涙目になっていた。

 自分のことのように嬉しいというのは、まさにこのことだろう。


 仲睦まじい兄妹のやりとりに、私と先輩は顔を見合わせて笑みを浮かべる。

 そういえば、むた兄は昔からゆきちゃんの長所を誉めながら、できるだけ叱らずに優しく見守っていたっけ。

 誰よりもゆきちゃんの画才を信じて、応援してくれていたのはきっとむた兄だ。


「兄ちゃん、泣くことないやん」


「嬉しいんやから仕方ないやろ~。今日はめでたいこと続きや!」


「……なんか他にも、ええことあったん?」


「あったで。かすみさんがな、返事をくれたんや!」


 目尻に浮かんだ涙を拭い、むた兄は机の上に広がっていた紙束を手にとった。

 ばさりと重なり合うそれらは、見たところ七、八枚はありそうだ。


「そういやうち、昨日の晩に見せてもろうたわ。かすみさん、きちんとしたお人やから何度も確認してようやく完成したんよ」


「丁寧な返事で有難いわ。しかもな、もう少し落ち着いたら怪我を診てほしいって書いてあるんや!」


 それは、私が読ませてもらった時にも目にした一文だ。

 かすみさんは怪我だけでなく、心の傷とも向き合って必死にそれをふさごうとしている。

 遅かれ早かれ、いつかは身内以外の男の人と接触しなければならない時が来る。

 だったらその相手は、信頼できる人がいい。

 むた兄が最適だと、かすみさん自身も思っているはずだ。


「むた兄、あと何往復か文のやりとりを続けてみて。そしたらかすみさんの方から声をかけてくれると思う」


「せやな。そうしてみるわ! かすみさん待ってるから、そろそろ見舞いに行ったって」


「うん、行ってくる! 今日はゆきちゃんも一緒にいこ!」


 そう言ってゆきちゃんの手を握る。

 くそたろうの話を、かすみさんにも聞いてほしい。

 こんなにもおめでたい話は滅多にないことだから、きっと喜んでくれるだろう。


「よっしゃ、いこかー! おじちゃんから本の続きももろてきたし、かすみさんに見てもらお!」


「うん! いこいこ!!」


 そうして私たちは仲良く廊下を駆けていく。

 ゆきちゃんの風呂敷には、お土産にと持たされたくそたろうの既刊五冊が包まれている。

 これからしばらくは本の内容を頭に入れて、父の挿絵をもとに、くそたろうやおはなちゃんを描く練習を続けるんだそうだ。

 ゆきちゃんも忙しくなりそうだな。



 かすみさんの部屋の前まで到着して声をかけると、少し間を置いて静かに障子が開いた。

 中から顔を出したやえさんは口元に人差し指を押しあて、静かにするようこちらに促す。

 そしてそのまま忍び足で廊下まで出てきた彼女は、そっと後ろ手で障子を閉めて口をひらいた。


「さきほどお休みになられたところでございます。ゆうべは遅くまで文をしたためておられたようで、寝不足なのでしょう」


「そうでしたか。起こしてしまっては悪いですね」


「申し訳ございません、本日はこのまお休みいただきたいと思っております」


「わかりました。ではまた明日来ます。遅れてごめんなさいって、後で謝っておいてください」


「かしこまりました」


 深々と頭を下げるやえさんに合わせて、こちらも大きく頭を垂れる。

 かすみさんのことだからきっと、私が来るまでは起きていようと眠気と戦ってくれていたに違いない。

 ……悪いことしちゃったな。

 明日はお土産に甘味でも買ってこよう。



 かすみさんのことはやえさんにお任せして、私たちは静かにその場から離れる。

 お見舞いに来て、会うことができなかったのは今日が初めてだからやっぱり寂しいな。 


「ゆきちゃん、あとでかすみさんに今日の話聞かせてあげてね」


「もちろんや! おじちゃんのことも話しとくな!」


「うん。よろしくね!」


 そう約束して、お互いに一息つく。

 思い返せば、ここ数日大変だった。

 仲介者にすぎない私がこんなにも疲れているんだから、実際に仕事を請け負ったゆきちゃんはもっとだろう。


「……ゆきちゃん、くそたろうの挿絵、引き受けてくれてありがとう」


「なんや今さら~! こっちこそおおきに! みこちんのおかげでうちも少し成長できたで!」


 かしこまって頭を下げた私をゆきちゃんは明るく笑い飛ばし、おでこをツンと指で一突きした。

 そうやって何でもないことのように軽く受け流してくれるけど、これまで抱いてきた彼女の苦悩を思えば、今日の決断は並々ならぬ覚悟の上に成り立っているものだと分かるから――。

 何もしてあげられない私は、せめて精一杯応援するしかない。


「ゆきちゃんはすごいよ、自分で思っているよりずっとずっと! だからさ、頑張って絵仕事続けてね! 私、くそたろうの新刊が出たら絶対買うからね!」


「……みこちん、ほんまおおきに。うち、頑張るわ」


「うん! 絵仕事が忙しい時は、私が診療所を手伝うね」


「そこまでしてくれんでええって。みこちんかて最近大変やのに。新しい環境で気ぃつかうやろ。無理せんでたまにはゆっくりしぃな」


「そんな、私はぜんぜん――」


 反論しようと口を開くと、ゆきちゃんは頬を膨らませて、私の脇腹と首もとの傷口をつついた。


「まだ怪我も完治してへんのよ? たまにはなんも考えずにゆーっくりしたらええよ。みこちんが頑張ってるのは皆知っとるから、誰も責めへんって」


「わたし……頑張れてる自信ない……」


「めっちゃ体はって頑張ってるやん! もー! みこちんの方こそ、うちより弱気で卑屈でヘタレやで!」


 ぷんすかしながらゆきちゃんは私の手をひいて、診療所のほうまで引っ張っていく。

 弱気で卑屈でヘタレかぁ……。

 そんなことないって、反論できるほどの自信を持ち合わせていないのも確かだ。

 でも私、ゆきちゃんが言うほどこれまで頑張ってこれたかな――?



 診療所に戻ると、田中先輩とむた兄が向き合って談笑していた。

 二人は同じ歳だからか気が合うようで、いつ見ても何かしらくだらない話題で盛り上がっている。

 そんな和やかな雰囲気を裂いて、私たちが乱入した。

 ゆきちゃんは、ぐいぐいと強めに引いてきた私の手を田中先輩に引き渡して、口をひらく。


「兄さん! みこちん最近めっちゃ頑張ってるよなぁ? この子ぜーんぜん自分を大切にせんのよ! やたらと自信ないからその都度身体張って、怪我して! ほんでまた休みもせずに無理しようとする!」


 まくし立てるゆきちゃんと、唐突に吐き出される不満にぽかんとする先輩。

 先輩は、なぜか託された私の手を握り、不思議そうにこちらに顔を向ける。

 ……ごめんなさい、なぜこうなったのか私にもよく分かりません。


「よく分かんねぇが、ムリはすんなよな!」


 先輩が片目をつむり、にかっと歯を見せて笑う。

 今のところ思い当たる無理と言えば、行き帰りの走り込みくらいなんだけどな――。


「な、無理はあかんよなぁ! せやから兄さんが優しくしたって! 褒めちぎって可愛がって、一日中楽しく過ごせるように計画したってや!」


「ちょ! ゆきちゃん何言ってるの!? 先輩にはお世話になりっぱなしだから、こちらからお礼しなきゃいけないくらいなのに!」


 それに、優しくって――。

 今でも十分すぎるほど優しくしてもらってるよ。


「ほらぁ、またそう言う! せやから、たまには人に寄りかかりぃや、みこちん」


「……なぁるほど。ゆきちゃんが言いたいことは何となく分かったぜ」


 先輩は腰を上げて、私の顔を見ながらかすかに微笑んだ。


「んじゃ、明日は天野と思い切り羽のばして遊ぶことにするわ。おっし! そうと決まれば帰るぞ! 計画を練ろうぜ!!」


「ええっ!? 先輩、そんなご迷惑かけられません!」


「迷惑とかそういうの禁止! オレは素直に喜ぶ女の子が好きだぜ?」


「うう……ゆきちゃあん…… 」


 困り果てて彼女を見るも、どうやら今回ばかりは味方してくれそうもない。

 先輩に引きずられていく私を見ながら、にこにこと手を振っている。


「みこちーーん! ゆっくり休むんよー!! 優しくしてもらうんやでーー!!」


 強引に手首を引かれている段階で、すでに優しさが欠けている気がするけど……!

 でも、ゆきちゃんなりに私のことを心配してくれているのかな。

 確かに最近は休みなく外出して、人のことばかりに頭を悩ませていた。

 人並みに頑張れていたかどうかは分からないけれど、疲れがたまっていることは確かだ。



 螢静堂の門を抜けてしばらく行ったところで、先輩が掴んでいた手を離してくれた。


「……オレもさ、おめぇはここんとこずっと気ぃ張って疲れてんだろうなって、思ってはいたんだ」


「先輩……」


 思いがけずにかけられた優しい言葉というのは、どうしてこうも反応に困ってしまうのだろう。

 すごく嬉しいのに。

 一言、ありがとうと伝えられたらそれで円満に話が進むのに。

 もじもじとうつ向いて照れる私の正面に立った先輩は、そのまま膝を折って背を屈める。

 そしてふわりと私の頭に手を置き


「なんかキツイことあるなら言えよな」


 と、いつになく優しい手つきで撫でてくれた。


「何もきつくないです。みなさんとっても優しくしてくれるし、屯所にいると本当に落ち着くし、楽しいし……」


「でもなぁ、おめぇはいつも誰かのために悩んでるだろ。たまには歳相応に遊ばねぇとな!」


「……先輩がそう言ってくれるなら、遊びにいきたいです」


「おう! とことん付き合うぜ!」


 にっと頼もしく笑ってみせると、先輩は立ち上がって袴の裾を払った。

 そうして、二人肩を並べて帰路につく。



 もうほとんど陽は落ちて、山の端にかすかな橙をなびかせている。

 狭い路地をせわしなく行き交う人びとの表情は、さまざまだ。

 一日の仕事を終えて解放感に満ちた表情で飲み屋をさがす職人さんや、天秤棒を担いで声を張り上げながら練り歩く商人さん。そして、別れを惜しみながらなかなかつないだ手を離さない少女たち――。


 それぞれに帰る家があって、大切な人がいて、日々を懸命に生きているんだと思うと、こんな夕暮れのひとときに言い知れない愛おしさを感じてしまう。

 私にも帰る場所があって、こうして隣を歩いてくれる人がいる。

 それがどれほどありがたいことなのか、ここ数日の騒ぎで痛いほど身にしみた。


「……せんぱい、今日は走らないんですか?」


 あくびをしながらのんびりと隣を歩く先輩の顔をのぞきこみながら、尋ねる。

 さらりと髪を撫でていく風が心地いい。


「今日も明日もナシだ。最近さ、帰りにおめぇの顔見るといつも空元気だったから、少し心配してたんだよ」


「あ……だから最近は、なんだかんだ理由をつけて走り込みをしなかったんですか?」


 行きも帰りも、そうだった。

 先輩は、自分がキツイからとか、荷物があるからとか、私が負い目に感じないような理由を作って、ゆっくりと歩かせてくれた。


「まぁなー。いざって時のために力をつけとくに越したこたぁねぇが、無理すんのはよくねぇからな」


「大変ですけど、走るのは嫌いじゃないです。だから、またやりましょう」


「おっ、根性あるな。けど、とりあえず明日はゆっくりしようぜ。何でも付き合うからよ、したいこと考えとけ」


「わかりました……!」


 そういうことなら、お言葉に甘えておこう。

 それにしても、したいことか――。

 あ、そういえば先輩と清水寺に行きたいと思ってたんだった!

 それは真っ先に叶えてもらわなきゃ。

 ほかには何かあるかなぁ。

 ――せっかくだから、じっくり考えてみよう。




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