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よあけまえのキミへ  作者: 三咲ゆま
二章 陸援隊編
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第六十三話:心を揺さぶる絵

「――で、俺が勝ったら挿絵を引き継げって頼めばいいんだよね?」


 ゆきちゃんの足音が完全に聞こえなくなったところで、藤原さんが机の上の湯飲みを手に取りながらつぶやく。

 ……ちゃんとこちらの意図を汲んでくれてたんだ!


「はいっ! そうしていただけると助かりますっ!」


「任せて。絶対に負けないから」


 そう断言して湯飲みの中のお茶を飲み干す彼からは、後光が差して見える。

 神様仏様藤原様……!! ありがたやありがたやー!!


「応援してますっ! ね、むた兄も応援してね!!」


「せやな。けど藤原さん、無理だけはせんようにお願いします」


 医者として体を動かす勝負事は心配なのか、むた兄は念を押すように藤原さんの肩を叩く。

 藤原さんはもちろんですと頷きながら、空になった湯飲みを置いた。


 そして、ふと机の上の壁へと目を向ける。

 そこには三連つづりの色鮮やかな肉筆画が飾ってあった。



「……いい絵だよね、これ」


 目を細めてなにやら感慨深げに微笑んでみせる藤原さんは、三枚の絵を視界におさめたまま立ち尽くしている。

 ゆきちゃんの絵だ。

 幼子が、おどろおどろしい姿の病魔に追いかけられて泣いているのが一枚目。

 『こわいよこわいよ、おかあちゃんたすけてぇ』――と、文字が躍る。


 二枚目に登場するのはお医者さま。

 これはむた兄を描いたものかな。

 診療所に駆け込んできた幼子をかばって前に立ち、病魔に対してお薬をかかげている。

 『ぼうやのなかのわるものは、せんせいがたいじしてあげよう』――と、勇ましい書き文字。


 三枚目は、お薬から出た光で、病魔がすっきりと消えてしまう絵。

 『もうだいじょうぶ、おうちへかえったら、おまもりにこのおくすりをきちんとのむんだよ』――と、そこでめでたしめでたし。


 幼子向けの可愛らしくもほのぼのする絵柄で描かれていて、そのあたたかな色づかいはどこか人の心を安心させる力を持っている。

 そういえばこの絵は、私が初めてここに来たときからこうして飾ってあったっけ。

 幼い患者さんの扱いに慣れているゆきちゃんが、子供たちに治療を怖がらせないために筆をとったのだろう。


「すごくいい絵です。生き生きしていて、優しくて」


 描き手の思いやりが透けて見えるような、あたたかさを持った絵だ。

 やっぱりゆきちゃんの絵は、人の心をつかむ特別な魅力を持っている。


「そうだね、優しい絵だ。俺、来るたびにこの絵に救われてるからさ」


「――来るたびに、ですか?」


「うん。泣きながらここに来た子供達も、この絵を見て涙をこらえながら頑張ってるのかと思うとね。俺もシャキっとしなきゃなぁってさ」


「……体をこわして診療所に来はる人は、大人でも内心は幼子みたいに震えとるんやと思います。せやから皆の心に響くんやないでしょうか」


 絵を見ながら、むた兄は凛としたお医者さまの表情でそうつぶやいた。

 私も藤原さんも、そうだろうと何度も相づちを打つ。


 ――思わず、かすみさんの姿が脳裏をよぎる。

 怪我をして臥せってからは、ひどく怯えてささいな事に涙を流し、一人になることを怖がって周囲にすがるようになった。

 まるで幼子のように身を小さくして泣いている姿は、痛ましく崩れ落ちそうな脆さをはらんでいた。

 自分の中の深い深い傷や病に向き合うのは、大人だって怖いことだから。

 いつ和らぐともしれないその深刻な痛みと、朝も夕もなく戦っている人ならなおさら。

 本当はみんな、こわいよって泣きながら、この絵のように誰かにすがりたいはずだ。

 助けてくれる相手がいるなら誰だって――。



「藤原さん、あとでゆきちゃんに直接伝えてあげてくださいね、好きだって」


「……え!? は!?」


 ゆきちゃんの絵のよさをきちんと分かってくれている人がそばにいてくれて嬉しかった。

 だからこそ私は、藤原さんの口から本人にこの絵の感想を伝えてほしいと思ったんだけど――なんだか誤解されてしまってる?

 藤原さんはふいをつかれたように肩を浮かせ、頬を染めている。


「ゆきちゃんの絵、大好きだよって褒めてあげてください」


「あーーー! そういうこと! だよね! わかってた!! うんうん、まかせて! よぉぉぉし、褒めるぞぉ!! いや、その前に勝負で勝つぞお!!」


 藤原さんは明らかに動揺している。というより照れている。

 耳まで真っ赤にしながらこちらに背を向けて、拳を開閉しながらそそくさと門のほうへ立ち去ってしまった。

 ……もうこれは、確定だよね。

 二人の恋の予感に私、わくわくが止まらない。



「それじゃむた兄、私たちもいこっか」


「うん、せやな。雪子が負けてくれるとええんやが……」


 並んで歩きだしたむた兄は、かすかに眉を寄せて不安そうな顔を見せる。


「……え? もしかしてゆきちゃん、達人?」


 完全に藤原さん派な私は、自称日本一の剣豪の彼が負ける展開なんてありえないと信じているんだけど……。

 ゆきちゃんの実力も未知数だから、まさかまさかのどんでん返しなんてことも、ありえなくはないか。


「そうとうな腕やと思うで。せわしなく動けん藤原さんやと、長期戦はあかん」


「そっか、じゃあ五十数える間にとった数で勝負を決めるってことでどうかな?」


「そんくらいがええかもな。よっしゃ、二人がかりで藤原さんを応援しよか!」


「おーーーっ!!」


 こちらも奮起して手を振り上げ、診療所の外へと歩を進める。

 当初の予定とはだいぶ違う形で説得計画が進み出したことに、不安はない。

 むしろ最高の形で助け船が出されたと思っている。

 ここまで舞台を整えて、いざ負けたところでやっぱり辞退なんて真似は、ゆきちゃんの性格上できないはずだ。

 だからきっと大丈夫。

 藤原さんが勝ってくれさえすれば――。




 門をくぐって小路に出ると、降り積もった落ち葉の上に二人が立っていた。

 今日は横から吹き付ける風が強く、舞い落ちる葉の数も多い。

 勝負にはもってこいの状況ではあるんだけど、風の力で煽られた葉の動きはいつもより不規則で、目で追うのも大変なほどだ。

 そんな中、両者言葉なく天を見上げて真剣なまなざしで葉の動きを研究中。

 この様子だとゆきちゃんの体も温まっているようだし、いい頃合いかな。



「二人とも、そろそろ始めていいかな?」


「ええで! はよやろ!」


「うん。それで、勝ちの条件は?」


 藤原さんは軽く肩まわりをほぐしながら私の顔を見る。


「五十数えるうちに多く葉をとったほうの勝ちです!」


「なるほど、了解。ちょうどいい長さだ」


「ま、そんだけあれば実力の差もハッキリ出るやろ!」


 やけに挑戦的なゆきちゃんの態度を藤原さんは軽く横目で流し、はじめてくれと手で合図をした。

 相手をムキにさせる作戦に失敗したゆきちゃんが、わずかに口をとがらせながら藤原さんから距離をとる。

 どうやら二人の体勢も整ったようだ。



「とった葉は、この塵かごの中に入れるようにしましょか。僕が藤原さんのそばにつきますから、美湖ちゃんは雪子のそばに」


 と、むた兄が庭から二つの塵かごを持ってきてくれた。小ぶりながら竹製の立派なものだ。

 一方を彼が持ち、そしてもう一方は私の手元へ。

 回収係か、責任重大だな。ゆきちゃんの動きに合わせて私も頑張らなきゃ。



「――あれ、じゃあ誰が五十数えるんです?」


 藤原さんが首を傾げるのを見て、むた兄と私ははっとした。

 全員に役割が割り振られたら、落ち着いて数を数えられない……!

 どうしようと一瞬考えあぐねていると、庭のほうから箒を持ったやえさんが顔を出した。


「わたくしでよければ、お手伝いいたしますが」


「やえさんっ! さすがです、いつもいいところに! ぜひお願いしますっ!!」


「承知いたしました。しっかりとお刻みいたします」


 箒を門柱に立て掛けて深々と頭を下げるやえさんの姿に、全員が笑顔になった。

 安心と信頼のかぐら屋の女中さんだ。

 ここにいる誰よりも正解に時を刻んでくれることだろう。


 すぐさま私たちは小路の両脇にしげる木々の下に立ち、万全の体勢。

 四人が目で合図すれば、その場にやえさんの凛と澄んだ声が響き渡った。



「では、参ります――ひとつ……」


 わずかに間をおいて、ふたつみっつと規則正しく数字は刻まれる。

 ゆきちゃんは、開始から目の前に降ってきた葉を勢いよく掌にとじこめる。

 そして無駄のない動きで、私が抱える塵かごの中にそれを放りこんだ。

 まるで勝負の時を待っていたかのように、風は強く吹きつける。

 ばさばさと煽られて揺れる髪の毛が視界を覆うたびに、私は首を振ってそれを払った。


「みこちん、こっち! ついてきて!!」


 右手で一枚、すかさず左手で二枚目。

 頭上をかすめた三枚目も横からなぎ払うような手さばきで、瞬時に回収されていく。

 私は置いていかれないようにと必死に彼女の隣につき、みるみるうちにかごの中を満たす葉の山に、ごくりと息をのんだ。


 ゆきちゃん、思っていたよりも数段上手だ……。

 見る限り、動きに無駄がない。

 私の場合は、いっぺんに何枚も落ちてくると気が散ってあたふたと右往左往しがちだったけれど、ゆきちゃんは違う。

 これを取ると決めたものを視界におさめ続け、目の前まで落ちてきたところで確実に仕留める形で数をかせいでいる。

 つまり、目標を定めたらあとは浮気しない。狙ったものを確実に手中におさめることの連続。

 しかもそれを二、三枚同時にこなしているからすごい。


 藤原さんはどうかな、と彼のほうを振り返ろうとしたとき、ひときわ大きくやえさんの声が耳に届いた。



「五十――終了でございます」


 え!!!?

 もう終わっちゃったの……!?

 短すぎると、今更ながら思う。

 これからが本番かなぁなんて思っていたところなのに。

 ゆきちゃんも同じく物足りない様子で、握りしめていた掌の中身を塵かごの中に入れながら、わずかに肩をすくめてみせた。


「あ、でもけっこうとれたな。これ勝ったんちゃう?」


 かごの中を覗き込んだゆきちゃんが、にんまりと笑って藤原さんのほうを見る。

 向こうの調子はどうだったかと、私も恐る恐る彼らのほうを振り返った。


「俺も頑張ったよ。それじゃ数えよう」


 藤原さんは汗もかかず息もきらさず、いたって平常どおりの様子でにこりと笑う。

 むた兄は彼の健闘をたたえるように優しくぽんぽんとその背を叩き、そして中へ入るようにと皆をうながした。




 診療所内へと戻ると、私たちは二つの塵かごを囲んで大きく感嘆の息をもらした。


「すごい! どっちも同じくらいとれてるね!」


 見た目で勝敗は分からない。

 どちらもかごの底に隙間なく葉がしきつめられている状態だ。

 ぱっと見た感じは互角。あとは一枚一枚数えてみるしかない。


「ううっ……思ったよりやるやん」


「そっちもね。どっちが勝っても恨みっこなしってことで」


 隣り合わせに並んだ二人は顔を見合わせ、お互いを称えあっているようだ。

 ……こうしてみると、藤原さんって背が高いんだな。

 ゆきちゃんの頭が彼の肩下にあり、大きく見上げる形になっている。


「ほんなら、藤原さんの分は僕が数えましょう」


「ゆきちゃんのほうは私がやります!」


 回収係の私とむた兄が、責任をもって集計を担当する。

 手違いが起きないように、残る三人にはそばでその作業を見守ってもらうことにした。


「十七、十八……」


「きゅう、じゅう……」


 むた兄の手際がとんでもなくいい。私の倍くらい速い。

 内心汗だくになりながらも、私は重なり合った葉を丁寧にはがしながら一枚一枚その場に並べていく。


「……二十六、と。藤原さんのはこれでおしまいみたいですわ」


「じゅうご、じゅうろく……」


 藤原さんは二十六枚か。

 こちらはまだ何枚か残っているけれど、どうなるだろう。

 もしかしたら追いつかれてしまうなんてことも……。

 ひやひやしながら作業を続ける。

 ゆきちゃんには悪いけど、早めに尽きてくださいと願いながら。


「――にじゅうさん……これでおしまいです」


 私は、からっぽになったかごを逆さにして揺らしながら、無事に数え終わったことを告げる。

 その瞬間、わっと場が沸き立った。


「えええええっ!!? うそやぁぁ!! なんでぇぇ!?」


「やったね、圧勝。褒めてくれていいよ?」


「ううううう……!!」


 心底悔しそうにうなるゆきちゃんは、さんざん藤原さんからからかわれながらも反論できずに顔を真っ赤にしている。

 負けず嫌いな子だから、このままいじわるな言葉をかけ続けると泣いてしまうかもしれない。



「……それじゃ、勝負もついたことだし、ごほうびの時間ってことにしようか? ね、ゆきちゃん」


 二人の間に割って入り、ゆきちゃんをなだめるようにその背を撫でる。

 するとゆきちゃんはいっそう顔をゆがめてその身を振るわせた。


「うわ、せやった……ごほうびて、何するん?」


「そこまで嫌な顔されると傷つくなー」


 私の陰に隠れて、人買いに売られていく少女のようにおびえた目をゆらすゆきちゃん。

 藤原さんはそんな仕草に心をえぐられたようで、胸をおさえてがくりとうなだれる。


「……けどまぁ、ええよ。約束やしなんでも聞くわ。なにしてほしいん?」


「…………なんでも……か」


 上目づかいからの「なにしてほしいん?」が琴線を刺激したのか、瞬時に立ち直ってそわそわと目線をおよがせる藤原さん。

 ……こちらとの約束そっちのけで、いろいろと魅惑的な妄想が彼の中をかけめぐっているみたいだ。

 よくない、このままだとよくない!


 私はゆきちゃんに気づかれないようにそっと、藤原さんの着物の袖を引っ張った。

 すると彼ははっとしてこちらに目線を下げ「わかってる」といった表情で頷いてみせた。



「それじゃ、俺の願い! みこちんが言ってた本の挿絵をおまえに描いてほしい!」


 びしっと人差し指をつきつけて、藤原さんははっきりとした声色で宣言する。

 よくぞ言ってくださいました……!!

 思わず彼の姿を拝む。あとで何かお礼しなきゃ。


「……そ、そんなんみこちんの願いやん! ずるい! あんた、うちの絵のことなんて何も知らんやんか!!」


 予想外の願いをつきつけられて困惑したのか、ゆきちゃんはおずおずと指摘の言葉を飛ばす。

 けれど藤原さんは表情を崩さない。

 それはそうだ。何も知らないなんてことはないんだから。


「俺、おまえの絵は三枚しか見たことない。けど、その三枚は今まで見たどの絵よりも頭に焼き付いてる」


「三枚って……ああ、これ?」


 ゆきちゃんは少し照れくさそうに壁際を見て、その後すぐさま視線をそらし、三つ編みの毛先をいじり出す。

 藤原さんの熱い視線をたどれば、壁に貼られた三連作が目に入る。

 螢静堂の患者さんならば誰しもが真っ先に目にする絵。

 優しくて、あたたかくて、やわらかな微笑で包みこんでくれるような絵だ。

 何人もの涙を止めてきたこの三枚は、たしかに人の心をつかむ力を持った作品だと、ここにいる全員が知っている。



「――俺、ここに来るまでに診療所を転々としてる」


 藤原さんは、じっと絵を見つめたまま小さく掌を握り締めた。

 しっかりと見開かれた目には、澄んだ刃のような意志がゆらめいているのを感じる。

 何か大切な、抱え込んでいた心のうちを吐き出そうとしている様子だ。

 私たちは彼の言葉が切れるまで、じっとその話に耳をかたむけることにする。


「病状を見てさじを投げる医者もいたし、薬を飲めないことに失望してろくに具合を診てくれなくなった医者もいた。何軒も回るうちに、診療所が大嫌いになった」


 淡々と紡がれる心情。

 辛い日々を回顧しているわりには、不思議と彼の表情は穏やかだ。


「ここに来たのは、若い医者がはじめたばかりの診療所だって聞いたから。はじめてのところに駆け込むのは勇気がいるし、また怒鳴られでもするんじゃないかと内心びくびくしてたら、この絵が目に入った」


「……覚えとる。あんた、この世の終わりみたいな顔で門前をうろついとったから、うちが引っ張って中まで連れてったんよね」


「そうそう。それでさ、この絵に見入ってたら山村先生が『絵みたいな札はもってませんけど、一緒に病を追い払う手伝いをさせてください』って笑ってくれて、肩の力が抜けたんだ。すごい力を持った絵だよ」


 そこまで聞くと、ゆきちゃんはじわりと目尻に涙を浮かべていた。

 なにか返そうとして声にならないのか、唇を震わせてうつむいている。


「おまえの描くものは人の心をうつ。自信持ってくれよ。絵師が変わってこれまでの読み手が離れても、新しく俺が買うから。おまえの挿絵なら何冊でも」


 本心からの熱い訴えというのは、どうしてこうも深く心に響くんだろう。

 思わず私も涙がでそうになる。

 ゆきちゃんの絵のいいところ、藤原さんは私なんかよりずっと深く知っている――。

 この言葉が響かないのなら、もうお手上げといっていいくらいの説得だ。

 ありがとう、藤原さん。



「……でもうち――うんこもらすとこ、ちゃんと描けるかな」


 涙をぬぐいながら切なげな表情でつぶやいたゆきちゃんの一言に、その場にいた全員がずっこけた。

 清浄な空気が一瞬にして台無しになった瞬間だった。


「どんな絵草紙だよ! たしかになんか変な題だったけど!!」


 自然と告白を茶化されたような形になった藤原さんは、頭をかかえながらやけくそな表情で問う。

 ごめんなさい。担当絵師になったらシモネタとの戦いになることは必至なんです。


「ばかぢからくそたろうは、怪力のお百姓さんが、おもらししながらも悪鬼を退治するお話なんです」


「漏らす必要ある!?」


「そこがキモになるんですよ。よかったら帰りにお店でどうぞ、花文堂さんから好評発売中です」


 読んでみなければ分からない味というものもある。

 ちゃっかり宣伝をおりまぜながら説明を終えると、藤原さんは小さく苦笑して頷いた。


 それを見て一安心した私は、ふと思い出す。

 挿絵を描くにあたって、参考になりそうなものが手元にあるんだった。


「ゆきちゃん、よかったらこれを元に、くそたろうの絵を何枚か描いてみてくれないかな?」


 風呂敷の底に入れておいた版下を取り出して、ゆきちゃんへと手渡す。

 彼女は厳重に紙束を包んであった絹をといてその中身に目を落とすと、すぐさま声をあげた。


「天野先生の絵や!! うわぁ、懐かしいなぁ」


「これ、お父さんが最後まで筆を入れてた絵なんだ。結局は未完に終わってしまったけど、熊おじちゃんにこの版下を渡すまでは死ねないって思ってたはずだよ」


「そっかぁ……下手でも、うまくいかんくても、逃げずにごまかさずに最後まで描けって、先生言ってたもんな」


「うん、そう。だからすごく無念だったと思う。この仕事を引き継ぐ絵師が見あたらないってことを知ったら、きっとお父さん成仏できずにお墓から出てきちゃうよ」


 特に、熊おじちゃんとは絵師になることを夢見ていた少年時代からの付き合いだもの。

 彼の本に挿絵を描くということが父にとってどれだけ大切で、そして幸福なことだったか。

 それは長年夢を語り合って切磋琢磨してきた二人じゃないと分からないところだ。


 ――そして、何より大切なこと。

 父はもういないけれど、おじちゃんはまだまだ現役の戯作者なのだ。

 これからも文筆業で食べていかなければならない。

 どちらか片方がいなくなったからといって、共倒れするような関係になってはいけない。

 悲しいけれど、いつかは前を向いて元通りの生活に戻っていかなきゃならないんだ。



「……おじちゃんや先生にとって、くそたろうは大切な絆なんやろな」


「そうだね。二人が面白いと思うものを、ありったけ詰め込んで作ったものなんだと思う」


「――そういうことならやっぱ、完結までは頑張らんとな」


 弱々しく紙の上をのたくる筆跡に指を這わせて、ゆきちゃんはぎゅっと口元をむすんだ。

 真剣なまなざしの奥には、先ほどまでの心弱さはもうない。


「それじゃ、引き受けてくれる!?」


「……うん。おじちゃんの許しが出たらな。とりあえず何枚か、うちなりにくそたろうを描いてみるわ。それ持っておじちゃんとこ訪ねよ」


「ありがとう、ゆきちゃんっ!! 大好き!!」


 思わず飛びついて、ぎゅっときつく抱きしめる。

 思っていた以上に大変だったけれど、最後にはこうして無茶な願いを引き受けてくれた。

 もう感謝の言葉しか出ない。


「こっちこそ礼言わんと。いろいろ話しとるうちに、うちも卑屈になりすぎとったって気づいたし」


 突然の抱擁を嫌がることもなく、ゆきちゃんはにっこりと笑って私を抱きしめ返してくれた。

 あたたかで、ふわりと甘いいい匂いが鼻をくすぐる。

 そうしてあらためて彼女の顔を見ると、なんだか私よりもずっと大人びたお姉さんのように見える。


「自信、取り戻せた?」


「……まぁまぁ、な。自信満々ってわけやないけど、うちもボロクソ言われるほどひどくはないわって持ち直した」


「そっかぁ! よかった。私はゆきちゃんの絵大好きだからね。何度でも言うよ。お父さんの絵と同じくらい好き!」


「その褒め言葉、嬉しすぎるわ! ほんならこれからは、くそたろうの読み手さんからもそう言ってもらえるように頑張らんとな」


「……うんっ!!!」


 感激のあまり半泣き状態の私は、ゆきちゃんの両手をぎゅっと握り締めて感謝と応援の意思を伝える。

 大変なのはきっとこれからだ。

 ゆきちゃんがまた落ち込んだとき、出来る限り支えてあげられるように頑張ろう。



 一通り話もついて場が静まったころ、むた兄と藤原さんを置いてけぼりにして盛り上がってしまったことに気づく。

 彼らは律儀に最後まで私たちのなりゆきを見守り、その場に立っていてくれた。

 やえさんはいつからか庭掃除に戻ったようで、姿が見えない。

 ちりかごと落ち葉がなくなっているところを見ると、それを処理しに出ていってくれたんだろう。


「丸くおさまってくれてよかったわ。雪子、藤原さんにもお礼言わんとな」


 むた兄が、いつもの穏やかな調子で声をかけてくれた。

 その言葉にはっとして、私はゆきちゃんの背を軽く押しながら口をひらく。


「そうだよゆきちゃん! 藤原さんが一番熱心に説得してくれたんだし!」


 彼の熱意がなければ、ここまで漕ぎつけることはできなかったはずだ。

 父の版下が決め手になったかのような結末だったけれど、それはあくまで最後の一押しだ。

 かたくなだったゆきちゃんの心をぐらつかせたのは、たしかに藤原さんの言葉なんだから。


「うん……せやな。おおきに。おかげでちょっと自信持てたわ」


 藤原さんの前まで歩をすすめたゆきちゃんは、あらためて彼に向かって頭を下げる。

 今度は私が二人を見守る側に立って、そわそわしながらうまく会話が繋がるよう応援する。


「いや、あらたまってそんな風にされると調子狂うって。俺もたいしたこと言ってないし……というかけっこうひどい事言ってた気もするし」


「でも、全部本心からうちのために言ってくれたことやろ? 嬉しかったよ」


「ああ、いや……うん。えっと、とにかく応援してるから。挿絵、頑張って」


「うんっ!」


 ゆきちゃんは満面の笑み。

 藤原さんはなんというか、まさに調子が狂っている最中なんだと思う。視線が泳ぎっぱなしだ。

 今回は私のわがままにつき合わせてしまったから、なにか少しでもお礼になるようなことがしたいな。

 私からできることなんてほとんどないけれど……どうにか架け橋を作ってあげたいとは思う。



「ゆきちゃん、さっきの藤原さんのお願いってやっぱり有効?」


「ん? どういうこと?」


 ゆきちゃんは振り返って首をかしげる。

 そして藤原さんは、何を言い出すのかと目を丸くしてこちらを見入った。


「藤原さん優しいから、本当のお願いは隠して私の頼みを代わりに口にしてくれたんだよ。だから、あれは藤原さんへのごほうびじゃなくて私へのごほうびになっちゃうと思うの」


「そう言われてみればそやな……それにうち、自分の意思で挿絵描くことに決めたんや。負けた罰で嫌々やるんやないよ?」


「じゃあ、ごほうびは新しく仕切りなおしってことでいい? 藤原さんからちゃんとしてほしいこと聞こうよ」


「うん、ええで! うちは今感謝の気持ち持て余してるからなんでもこいや!」


 と、藤原さんに向き直って彼の胸をツンと優しくつつくゆきちゃん。

 よかったぁ、すんなり受け入れてくれて。



「さあ藤原さん、お願いどうぞ」


 あらためて私の口からうながすと彼は一瞬背筋を正し、そしてまたすぐに背を丸めて困ったようにうめきだした。

 してほしいこと一覧が頭の中で雪崩を起こしているんだろう。


「……どこまでいいの?」


「どこまでもええで!」


「うそだろ!? もっと自分を大事にしろよ!!」


「あんた、何頼むつもりなん!?」


 そんな問答を幾度か繰り返しながら、それでも藤原さんの考えはまとまらない様子で、長々とうなっている。

 どこまでいいのって、なかなかすごい質問だな。



「――よし! じゃあ、ちびっこ扱いはやめてまずは友達になってほしい!!」


 意を決して彼の口から出たお願いは、数多の中から選び抜かれたものにしては、とても微笑ましい内容だった。


 「男として見てほしい」と先刻は言っていたけれど、友達ならそれよりも一つ二つ前の段階だ。

 控えめだなぁ、藤原さんは。照れ屋なのかな?


「友達? そんなんでええの?」


「まずはちびっこ扱いを脱したいと思って」


 ゆきちゃんとの約束によれば、今月いっぱいはちびっこ対応になるっていう話だったもんね。

 たしかにあれがまだまだ続くのはきつい。逃れたいのもわかる。


「そんなんわざわざ言われんでも、うち、さっきのやりとりであんたの事見直したから、子供扱いはやめるつもりやったよ」


「……本当? でもほら、願いの肝は友達になりたいってことだから。今よりはもうちょっと親しい関係になるだろ?」


「うん、うちはええよ! ほんなら今から友達な?」


「う、うん。よろしく……!」


 ――微笑ましすぎる、どうしよう。

 自然に頬がゆるんでしまう可愛らしいやりとりだ。

 口をはさんで邪魔しちゃうのも悪いから、このまま静かに見守っていよう。


「うちのことは、ゆきちゃんって呼んでな! 友達はみんなそう呼ぶんよ」


「ちゃん付けはちょっと……」


「なんでやー! うちはそう呼ばれんのが好きなんやからええやん!」


「あー、じゃあ、ユキでいい?」


「……まぁ、それはそれでええか」


 ゆきちゃん、わけあって他人に「雪子」って呼ばせたがらないんだよね。

 家族以外は、初対面の時にゆきちゃん呼びを強要されてしまう。

 ……あ、でも雨京さんは例外か。ちゃん付けのほうが何か怖いし。


「じゃあ、うちはそーちんって呼ぶ!」


「ちん!?」


「みこちんとお揃い。親友格っちゅうこと」


「……ありがたく拝命いたします」


 ぴしりと腰を折り、仰々しい動きで両手を掲げながら藤原さんはあだ名を賜った。

 そーちん、か。藤原からもじったものじゃないな。ということは……


「藤原さんって、お名前、そから始まるんですか?」


「ああ、そうだよ。宗次郎そうじろうっていうんだ」


「なるほど! だからそーちんなんですね!」


 立派なお名前だけど、ゆきちゃんにかかればこうして絶妙に気の抜けるあだ名にはやがわりだ。

 でも、一日で呼び名まで変わっちゃうなんてすごい進展だよね。


 ……ふう。

 何はともあれ、こうして無事に藤原さんの願いも叶えることができたわけだし、すべて丸くおさまってくれたかな。

 あとは、ゆきちゃんの絵が完成するのを待って熊おじちゃんに会いにいくだけだ。




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