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よあけまえのキミへ  作者: 三咲ゆま
二章 陸援隊編
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第五十一話:しばしの別れ


 お昼前に、先輩と二人で螢静堂を訪れた。

 体調にも特に問題はないとのことで、かすみさんは機嫌よく私の相手をしてくれた。

 夜はゆきちゃんが隣に布団を敷いて、彼女の話し相手になってくれているそうだ。

 日中は筆をとって、少しづつむた兄の文へ返事を書いているとのこと。完成したら目を通してみてほしいと頼まれた。

 少しずつだけど確実に快方に向かっている。ひとまずほっと一安心だ。




 そして今、私は全力で走っている。

 螢静堂を出て、酢屋までの道のりをひたすら失踪中だ。

 人通りの多い道は避け、じめじめとした小路を突っ切っていく。

 はるか先を行くのは田中先輩だ。

 昨日の宣言通り、屯所を出てからずっとこの調子で駆けている。そろそろ全身がバラバラになりそうだ。



 酢屋の前に到着する頃には、前後不覚で足元のおぼつかない状態になっていた。もはや倒れる寸前だ。

 荒く息をつきながら腰を折った私は、頭上から降ってきた先輩の言葉を聞いて失神しそうになった。


「初日だから今日は軽く流したが、少しずつ速度上げてくぜ」


 軽く流してアレだったの!?

 思わず先輩を見上げる。

 すっかり呼吸も整ってケロリとした表情だ。

 これは確かに、全力を出した人間がする顔じゃないな……。

 明日からの往復が恐ろしすぎる。



 それから私たちは、酢屋の戸を叩いた。

 何度目かの来訪で顔を覚えてくれた例の少年は、私の顔を見るとパッと笑顔になって、二階まで呼び出しに走ってくれた。

 坂本さんは数日前から留守にしているそうだけど、長岡さんと陸奥さんは外出せずに部屋に籠っているとのこと。

 できることなら三人揃ったところで相談したかったけれど、坂本さんも多忙なようだし仕方ないか。



「ケンくん、美湖ちゃん、いらっしゃい。上がって上がって」


 戸口まで迎えに出てくれたのは、長岡さんだ。

 数日会っていなかっただけなのに、なんだかすごく懐かしく感じるなぁ。


「んじゃ、失礼しまっす」


「お邪魔しまぁす」


 履き物をぬいで、そっとかまちをまたぐ。

 案内されるままに二階へと上がって奥の部屋に足を踏み入れると、そこには陸奥さんが座っていた。


「久しぶりだな……まぁ、座ってくれ」


 彼は今しがた片付けたばかり、といった具合にぽっかりと書物や書類が取り除かれた畳の上に、そっと座布団を二枚並べた。


 ここは確か陸奥さんの部屋だよね。

 相変わらず本や紙類があちこちに積み重ねられてはいるものの、前回来た時よりもこざっぱりと綺麗に整頓されている。

 来客に備えて掃除をしたのかな?



「お久しぶりです、むつさん」


 座布団に座ろうとして、がくりと膝が折れた。

 乱れた息は幾分か整ってきたものの、体はもうぐにゃぐにゃだ。


「どうした? すごい汗だぞ」


「少し走っただけですので大丈夫です」


 心配して手拭いを差し出してくれた陸奥さんに、ぎこちなく笑みを向ける。

 汗は滝のごとく流れ落ちてまるで夏場の湯上がり状態だけれど、できるだけ平静を装ってそれを拭う。


「美湖ちゃん、傷口はだいぶ塞がってきてるけど、無闇に走ったりするのはおすすめしないな」


 長岡さんが見かねた様子で私の顔を覗きこんだ。

 確かに走り回ってはいるけれど、今のところ傷口に影響はない。


「……いや、実は今日から体力づくりに軽くそのへん走ってんすよ。やっぱまだそういうの早いんすかね?」


 周囲の反応にいたたまれなくなったのか、ばつが悪そうに頭をかきながら先輩が事情を打ち明ける。


「うーん、陸援隊の方針もあるだろうからねぇ。無理しない程度にとだけ言っておくよ。やるなら美湖ちゃんの具合に気を配りながらやろうね」


 長岡さんの返答は、医者の視点ではなく海援隊視点のもののようだった。

 陸援隊の方針というとやっぱり、まずは体力ということなのだろうか。だとしたら私には圧倒的に足りてないな。


「うっす、分かりました。そんじゃ天野、帰りはもうちょいゆっくり走ろうな」


「は……はい」


 歩いて帰ろう、と返ってくるかなぁなんて期待した私が甘かった。

 でも、先輩なりにこちらを気にかけてくれている。

 体力がないせいで、いざという時にうまく立ち回ることができないだろうという不安は大きい。

 それを何とか解消したいとも思う。

 最低限、逃げ足だけは確保できるように頑張っていこう。




「……それで、何か用か?」


 何でもない世話ばなしが途切れたところで、しびれをきらしたように陸奥さんが口をひらいた。


 私ははっとする。

 二人揃って今まで部屋に詰めていたということは、もしかして何か大事なお話でもしていたところだろうか。邪魔しちゃったかな……。


 本題を切り出すべきかと先輩に目を向けると、彼は頷き、そして陸奥さんに向かって深々と頭を下げた。

 ……ん?どうしたんだろう?


「まずは謝っとくぜ、むっちゃん」


「……何の話だ?」


「この前腕相撲やった時、一方的にキレちまったし、頭はたいちまったし……」


「別に、気にしてない」


 なるほど、そのことか。

 あの日のことなら、私も一言言っておきたい。

 先輩の隣で同じように手をついて頭を下げる。


「私もごめんなさい、陸奥さんの考えも知らずにいろいろとひどいこと言っちゃって」


「やめてくれ、本当に何も気にしてないんだ」


 陸奥さんは立て続けに謝罪を受けて困惑している様子だ。

 確かに、数日ごしに謝られたところでまるで実感は湧かないだろう。

 本人はそうだとしても、謝る側としてはやっておかないと気がすまないこともある。


「それと、ありがとうございました」


「何の礼なんだ?」


「あのとき私が負けないように助けてくれたことです。陸奥さんって優しいですよね」


「……いや……」


 返す言葉がいよいよ見当たらない、といった具合に陸奥さんの返答は短くなるいっぽうだ。

 彼がこういったやりとりに不慣れだということは、今までの反応を見て理解している。

 そろそろ本題に移ろうかと再び先輩に目配せをすれば、彼は頷いてこちらに軽く顎を向けた。

 私の口から話せということだろう。



「――それじゃ、本題に入ろうと思います」


「ん、何か大事な話かな? てっきり、ふらっと遊びにきてくれたんだとばかり思ってたよ」


 長岡さんは意外そうに目を瞬かせ、何事かとわずかに身を乗り出した。


「いずみ屋が焼けた夜の話なんですけど――」


 そうして私は、昨日陸援隊のみなさんに話した内容をほとんどそのまま打ち明けた。

 特に聞いてほしかった絵の話を中心に語り終えると、彼らは興味深げに腕を組んでしばし沈黙する。

 頭の中で情報を整理しているようだ。


「それでですね、お二人に聞きたいのは、盗まれた絵がどう流れていくかというところなんです」


 たしか海援隊は本を出版したりもしていると聞いた。

 そういうことなら、流通経路なんかに詳しいはずだ。


「……まず、かぐら屋といずみ屋が所持していた絵と、天野宛の絵にはつながりがあったのかどうか聞かせてくれ」


 顎に手を当てながら、陸奥さんは考えこむように目を細める。


「つながり、というと……?」


「三枚続の連作だったのかどうかだ」


「ああ、そういうことですか! どうなんでしょう……? かすみさんはそのあたりの話はしていなかったので一枚ものだと思います」


 私は三枚とも見たことがないから詳しい話はできないけれど、連作であればかすみさんの口からその旨を伝えられたはずだ。


「そういうことなら一枚ずつ別々に流すだろうねぇ」


 続いて長岡さんが、ため息まじりに小さく首を振った。あまりよろしくない状況ということだろうか。


「このあたりのお店に、高値で売り付けていたりするでしょうか? 調べればすぐに足がついたりしませんかね?」


「肉筆画って一品ものだから、売り方が多様でしょ。だから店置きにしないで、直接商談を持ちかけているかもしれないね」


「直接……ですか。肉筆画ばかりを買い集めてらっしゃるお大尽は多いですもんね」


 言ってみれば、晴之助さんやかすみさんもそうだ。

 熱心な収集家は、気に入った絵師の作であれば糸目もつけずに即金で話をつけてくれるものらしい。


「または、おまえの父の絵を多く扱う画商をあたる線も考えられる」


 今度は陸奥さんが返事をくれた。

 両人とも、それぞれ何通りもの想定が頭に浮かんでいるようだ。


「画商や美術商を通して売ると、自分で交渉するよりも入ってくるお金が減ったりしませんか?」


「素人が目利きに物を売りつけるのは意外と難しいことだからな。その点画商は買い手に顔もきくし信用があるから、ものを確実に売れる。後ろ暗いところがある品だろうと積極的に買い集める画商もいるしな」


「なるほど……」


 飛び込みで見知らぬ商売人が絵を持ち込んでも、贋作だと疑われて追い返されてしまう場合もあるか。

 そういう取引をうまく仲介してくれるのが信用ある美術商さんだもんね。



「なんかそれ聞いたら探すのすげぇ難しい気がしてきたな……」


 先輩が、がくりと肩を落として大げさにうなだれた。

 私もまさに同じ気持ちだ。

 どこからあたればいいのやら、まるで見当がつかなくなってしまった。


「盗人はあらかじめ売りの経路を持っている人も多いからねぇ。まずは京から離れた土地に運んで、そこで銭に変えていたりするかもしれない」


「え!? 京にはもうないかもしれないんですか!?」


「そういう事も考えられるってこと。よし、それじゃ今後どうすべきか意見をまとめていこうか!」


 長岡さんが軽く音を鳴らして手を叩けば、すぐさま陸奥さんが紙と筆を用意して、派手にその場に広げた。

 二人がそれぞれ紙の上に考えを綴りながら話を進めていくという形で、トントンと淀みなく情報が交わされる。

 私と先輩は、ぽかんと口をあけて両人が交わす言葉をただただ黙って耳に入れるのみ。

 たまに飛び出す聞き慣れない言葉に首を傾げつつ、海援隊の、陸援隊とはまた少し違った頼もしさに惚れ惚れするほかなかった。



 そうしてまとまった意見を簡単に羅列してみる。

 まず、名の知れた収集家のもとを訪ねて父の絵を買い取っていないか直接話を聞く。

 この役目は、雨京さんに頼んでみることになった。

 そうして、美術商や画商のもとに高い頻度で顔を出す。いつ絵が入ってくるか分からないので、できる限り懇意になっておく。

 さらに、期待は薄いけれど絵草紙屋や小間物屋なんかも定期的に覗いてみる。


 上方、とくに大阪には海援隊の仲間がいるそうで、彼らに文を出して天野川光の肉筆画が売りに出されていないか探ってもらうことになった。

 仮に他藩に流出しているとしても、そう遠くにはないだろうとの話だ。

 できる限り父の名が知れている土地で売るほうが利益が大きいらしい。



「と、まぁこんな感じかな。まとめて書いておいたから、陸援隊と神楽木さんに渡しておいてよ」


 さらさらと一心不乱に決定事項を書き留めていた長岡さんから、二通の文を託された。

 とてつもない速記っぷりに驚くばかりだ。

 ぱっと見た感じは文字に乱れもないし、これはなかなか真似できるものじゃない。

 慣れなのか効率のよさなのか、とにかくたいした才だと思う。


「京の画商や収集家については、おれたちよりも神楽木さんの方が詳しいだろう」


「そうかもしれませんね、次に雨京さんに会ったときに聞いてみることにします!」


「ああ。おれたちもできる範囲で探してみる。あまり無理はするなよ」


 相変わらずさっぱりとした声色ながら、陸奥さんはいつもこうしてさりげなくこちらを気にかけてくれる。表には出さなくとも、本当は心優しい人なんだ。


「話を聞いてくださって、本当にありがとうございました」


 じわりとにじむ涙をぬぐって、彼らに頭を下げる。

 海援隊のみなさんは、いつだって親身に話を聞いてくれる。

 矢生一派とは直接関わりがないというのに、そんなことは気にも止めずに当然のように手を差しのべてくれるのだ。

 彼らに何かがあった時は、私もできる限りのことをしてこの恩に報いよう――。




 話が一段落したところで、陸奥さんがお茶を運んできてくれた。

 あたたかい湯飲みを傾けると、ほっと気持ちが安らいで思わず小さく息が漏れる。


「はぁ……お二人に話を聞いていただけて安心しました」


「そうだよなぁ。ところで長岡さんたち、近々ここを離れるんすか? 荷造りしてるみてぇだし」


 先輩は部屋の端に目を向けながら首を傾げた。

 見れば確かに振り分け荷物と、取っ手のついた革の箱のようなものが隅にまとめて置かれている。

 その上、菅笠に合羽、手甲や脚絆などまるで旅にでも出るかのような装備もあたりに散らばっている。


「うん。今日あたり二人で長崎に向かおうと思って」


 長岡さんの返答を耳にして、私は思わず目を丸くする。


 な、長崎……!?

 って、どこだっけ?

 すごく遠い場所だよね。

 たしか異人さんの住む島があって、港が栄えているところ。昔、絵で見たことがある。

 浅い知識で頭を満たしながらあれこれ考えていると、納得したように頷きながら田中先輩が口をひらいた。


「たしか坂本さんも今、長崎に向かってるんすよね。んじゃ本部に帰るんすか」


「そうだね。そろそろ例の事件のお沙汰が下る頃だからさ」


「やっと疑いが晴れるんすかぁ。落ち着いたらまた海援隊らしくバリバリ動けますねぇ!」


 何のことだかさっぱり分からないけれど、海援隊は何かの事件に巻き込まれているらしい。

 沙汰が下るということは、お奉行さまのお世話になっているということかな。

 それってちょっと、笑い事じゃないな。


「あの……事件って? 長崎で何かあったんですか?」


 恐る恐る真相を尋ねてみる。さすがに聞き流せない内容だ。

 すると腰がひけている私にちらりと目を向け、陸奥さんが質問に答えてくれた。


「文月に長崎で英国の水兵が殺される事件が起こったんだが、その犯人として海援隊士の名が上がったんだ」


「ええっ!? もちろん、無関係なんですよね?」


「当然だ。一切関与していないと主張しながら、英国公使や長崎奉行などを交えて何度も取り調べの席で証言してきた」


「それで、近々お沙汰が下るんですか?」


「ああ。間違っても投獄されるようなことはないはずだが、一応結果を聞きに行ってくる」


「ふわぁ……そんなに大変なことがあったなんて知りませんでした。それなのに何度も私の相談に乗ってくださって、ありがとうございました」


 異国が絡んだ事件に巻き込まれてしまうだなんて、想像の枠を大きくはみ出した出来事だ。

 そんな騒動も、港が開かれた長崎だからこそのものなのだろうか。

 京ではほとんど異人を見ることもないからピンとこないけれど。


「ちょっと用事があって、京に上ってきていたところなんだよ。もともとすぐに長崎に戻る予定だったんだ。美湖ちゃんに出会えてここ数日、楽しかったよ」


 にっこりと笑顔を作って、長岡さんは優しく私の頭を撫でてくれる。


「忙しい時に、たくさんご迷惑をかけちゃいましたね」


「迷惑だなんて思ってないよ。龍さんなんて特に、ここを発つ直前まで美湖ちゃんのことを気にかけていたしね」


 ……そうだったんだ。

 いつも多忙そうにあちこちを歩き回っていた彼は、自分のことなんかほとんど語らずに、いつも他人の心配ばかりをしていた。

 そんな包みこむような坂本さんの懐の広さを思えば、自然と涙がにじんでくる。


「また会えますか? これっきりお別れなんて、いやです」


「……おい、泣くな。来月にはまた入京する予定だ。その時は陸援隊にも顔を出す」


「来月……? ずいぶん先ですね、寂しくなっちゃうな」


 ぽろぽろとこぼれ出した涙は、ぬぐってもぬぐっても止まらない。

 何も聞かされていなかったぶん余計に哀しい。

 酢屋を訪ねれば、いつでも三人に会えると思っていたのに……。


「海援隊はあちこち飛び回んのが仕事なんだよ! 陸援隊にいる限り海援隊との縁は切れねぇから心配すんな。むっちゃんが恋しいなら文でも送ればいいじゃねぇか」


 バシバシと私の背を叩きながら、先輩は慰めるような口調で私をあやす。

 どさくさに紛れてまた変なことを言っているけど、きっと悪気はないんだろう。


「陽さんが恋しいって? へぇー、ほー。そんな感じなんだ、二人って」


 長岡さんがにやりと笑みを浮かべ、隣に座る陸奥さんを肘でつついている。

 これはまた誤解の輪が広がってしまいそうだ……。


「妙なひやかしはやめてください……天野、文くらいならたまに送る」


 陸奥さんはため息まじりに長岡さんを一瞥し、やや視線をそらして首もとをさすると、いつもののそりとした口調で私に言葉を投げ掛けた。


「え? 本当ですか!?」


「ああ。長岡さんや坂本さんにも書いてもらうから、泣くな」


「……はいっ、楽しみにしています! 私もお返事書いていいですか?」


「あまり一所に留まることはないから、それは勧めない。どうしてもというなら長崎の海援隊本部宛に頼む」


「わかりました!」


 ぐすぐすと鼻をすすりながら泣きやんだ私を見て、陸奥さんと長岡さんはかすかに口元をゆるめて笑ってくれた。

 あまりに突然の別れで未だに実感がわかないくらいだけど、また会える日が来るというのなら、待っていよう。

 いつかまた、彼らが陸援隊の屯所に顔を見せてくれるその日まで――。




 それからしばらく話をして、私と先輩は酢屋を後にした。

 長岡さんと陸奥さんは出立前に陸援隊に顔を出すつもりだったそうだけど、私たちに文を託してこれからすぐに京を発つことに決めたようだ。


 二人に大きく手を振って、名残を惜しみながら私はゆっくりとその場から離れていく。

 長岡さんは「京に帰ってくるときはお土産を買ってくるからね」と笑顔で応えてくれたし、陸奥さんも「必ず文を送る」と約束してくれた。

 こんなにも早く別れの日が訪れるのなら、もっともっと二人と話をしておけばよかったと、視界が涙で滲んでいく。



 やがて角を曲がり、彼らの姿が見えなくなったところで、私はふたたびこらえきれずに嗚咽を漏らしながら着物の袖で顔を覆った。


「……泣くなよぉ、そんなに寂しいか?」


 頭の上にそっと先輩の大きな手のひらが添えられる。

 珍しく歯切れの悪いその声色から、対処に困っているのだということがよくわかる。


「だって、わたし……何も知らなかったから。陸援隊のみなさんは知っていたんですね」


「ん、まぁな。おめぇも大変な時期だし、あえて話はしなかった。黙ってて悪かった」


「先輩は、寂しくないんですか?」


「今までもお互いあちこち走り回ってたからなー。離れてもまた、いつか必ず会えるもんだって分かってっから、寂しいとは思わねぇさ」


「……そう、なんですか」


 あちこち走り回って、か。

 先輩たちも藩の枠を越えて各地を渡り歩きながら見聞を広げていたということかな。

 脱藩しているんだから、そのあたりは本人の気の向くままか。


 ――だとしたら、やっぱり不安だ。

 こうして先輩が隣にいてくれる日々は、いつまでも続くわけじゃないということだから。



「……せんぱい」


 私に歩調を合わせて隣を歩いてくれている先輩に寄り添い、ぎゅっと袖口を掴む。

 そうしてその顔を見上げれば、彼は眉を下げて普段よりもおろおろと取り乱した様子で、小さく肩を浮かせた。


「ど、どうしたよ?」


「先輩は、急にいなくなったりしませんよね?」


「おう……しばらくは京にいるよ。安心しろ」


「いなくなっちゃ、いやですよ。どこかに行く時は、前もって教えてくださいね」


「当たり前だろ。だから、んなカオすんじゃねぇよ」


 涙で濡れた目尻をぬぐうこともせずに上目遣いで先輩を見つめていると、彼は戸惑いがちに髪をかきあげて、そっぽを向いた。

 ぐすりと小さく鼻をすすって私は掴んでいた袖から指を離す。

 欲しかった返答が聞けて、少しだけ安心した。


「私、まだお世話になりはじめたばかりですけど、陸援隊が好きだから。もっとみなさんと一緒にいたいです」


「……おう、傍にいるから心配すんな」


 くしゃりと私の頭に手をのせた先輩は、私がくすぐったがって目を細めたのを見て、手のひらをわしゃわしゃと動かして笑った。


「……そろそろ走りますか? 先輩」


「んにゃ、今日は歩いて帰ろうぜ。そんな気分じゃねぇや」


 涙も止まって、もう大丈夫と走る体制をとった私の隣で、先輩はやんわりと首を振った。


 唐突な別れでしんみりとしてしまったからな。

 今さら気持ちを切り換えるのはやっぱり難しいか……。

 自分から提案しておいて何だけど、正直屯所まで走りきれる自信はない。


「……明日からはまた、やりましょうね」


「そうだなァ。今日休んだぶん、倍な」


「ええっ!?」


「ウソだよウソ」


 けらけらと悪戯な笑みを浮かべて、彼は私の額を指ではじく。

 私は軽く口をとがらせながらも、どんよりと沈んでいた気持ちがいくらかすっと軽くなったような気がした。




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