担任の教師はシベリア旅行へ行ったそうです。
学校という場所は、とにかく居心地が悪かった。
それに加えて、胸糞も悪かった。
「わーわーわー」
と、教室の後ろの片隅、将棋盤でいうところのちょうど香車がいる辺り。
そこでクラスメイト数名がなにやら騒いでいる。
何を言っているのかは分からない。聞こえない。
いや、聞こえてこないように、私は耳をふさいでいるのだ。
このクラスでは一か月ほど前から、いじめが行われている。
いじめられているのは、マオという名前の可愛らしい小さな女の子で、私は一度だけ喋ったことがある。
柔らかい感じのふんわりとしたショートボブが印象的で、自信なさげにうつむきながら喋っていた。
話し方はぎこちなかったが、とてもいい子だった。
胸が苦しい……。
今すぐにでも助けに入っていじめを止めたいのに、それが出来ない……。
なんて嫌なやつ。腹が立つほどの臆病。
自己嫌悪に陥りそうだった。そして、自分勝手に自己嫌悪を始める自分にも、流石にうんざりとした気分だった。
「――もうすぐ、朝のホームルームか」
私は時計を見上げながら呟いた。
頼りない担任のダメ教師がそろそろご入場だ。
あるいは、ご入城といったところだろうか。
遠くで戦いが起こり、味方の誰が被害にあっていようが、彼はそこから一歩も動こうとしない。
我関せずの王様。
そして、その形だけの王様を守るようにして、同じようにじっとしている金、銀、桂、香。それが私たち。
「はぁ……」
徐に、ため息が漏れる。
私は昔から将棋が少しだけ人より強くて、まだ中学生なのに天才と称されてテレビに映っちゃったりして、先生やクラスの人たちはとても良くしてくれる。
それが、私にとっては、とても腹立たしいことであることも知らずに。
そんなことを思っていると、突然。
――ガラリ。と、扉が開いた。
「こんにちは。同志諸君」
片手を上げながら教室に入ってきたのは、見慣れたダメ教師ではなかった。
現れたのは、あの馬鹿とは全く違う雰囲気を持った、底の見えない厳しさをその表情に刻み込んだ大人だった。
一瞬、私は彼を棋士かと思ってしまった。
対局の際に見せる、トップ棋士たちの人を殺すような真剣な表情。そう、確かにあの顔と同じだった。
「今日から、君たちの担任は私となる。なお、これまで担任を務めていた佐藤先生には、シベリアまで長期間にわたる旅行に行ってもらうことにした。もう2度と帰ってくることはないだろう」
彼は教壇に立つと、真っ直ぐを向いた黒い瞳でそう語った。
それから、ぐいっと首を捻って、いじめの行われている教室の後方を見やる。
「お前たちは何をしてる?」
私たちの新しい担任は言った。
「君たちもシベリア旅行に行きたいのかい?」
「………」
いじめ主犯格の女子生徒は、なにも言わずに静かに自分の席に座った。
それに合わせて、男女数名で構成されるいじめグループの生徒皆が席に向かう。
少し遅れて、マオもちゃんも立ち上がった。
「では、出席をとろう」
そう言う教師の声音は、恐ろしいほどに静かだった。
「相場」
「はい」
「磯貝」
「はい」
「遠藤」
「はい」
「あのー」
出席確認を遮って、一人の生徒が気まずそうに手を上げる。
その生徒は、ついさっきまで、可愛い女の子をいじめて笑っていた男だった。
「俺の名前、呼ばれていないんですけど?」
「君の名前は?」
「江坂です」
「江坂?」
教師は首を傾げた。
「そんなやつは、このクラスにはいないんだが」
教室が一瞬にして静まり返った。
「え、え? そんなはずはありません。ちゃんと確認してください」
「確認済みだ。江坂などいない。4月にとったクラス写真の中にも、お前の顔はなかった」
「そんなことあり得ません。俺はちゃんと写真に写りましたよ! 確認してください!」
「じゃあ、今からみんなで確認してみようか」
教師はそう言うと、大きく拡大コピーした私たちの集合写真を、黒板に貼り付けた。
その写真には不自然な加工がなされており、いつもクラスの中で大きな顔をしている1人の人間が、不格好に消された痕跡があった。
「見てみろ。お前は初めからこのクラスにはいないんだ。理解したかね?」
夏だというのに空気が冷たい。
冷房はこの教室にはないはずだ。
江坂と名乗った男は、がくがくと膝を震わせながら椅子に腰を落とした。
「出席確認を続けよう。加藤」
「は、はい」
私は、得体のしれないこの新任教師の言動に、思わずくすりと笑ってしまった。
だって――、この上なく愉快だったんだもの。