雨は降らなくても地は固まる
例えば、明日の天気が雨だったとして。今日のぼくらにできる事はなんだろう?
例えば、昨日の夕暮れが綺麗だったとして。今日のぼくらがすべき事はなんだろう?
ぼくはその答えをついぞ知らないが、それでも目の前を選び取る。正しさなんていう不確かなものは選べないのに、後悔なんて欲しくないものは手に入ってしまう。ぼくらの手のひらはいつも要らないもので溢れてる。
ーーならいっそのこと、なおいっそうのこと、精一杯に今日も生きようじゃないか。
*******
遅刻しそうになったので走ったわけだが、どうやらギリギリ間に合った。たどり着いた教室は息を切らしているぼくの呼吸の音もわからないくらいにまだガヤガヤとしていた。
ところで教室というものは大抵の場合、社会の縮図であると思う。みなそれぞれがそれぞれの思うように生きていて。互いが刺激しあいながら時にはぶつかり時には友情を分かち合う、それでもその中には確かに秩序が存在している。
それにしても秩序という言葉の堅苦しさったらないよね。堅苦しいのは苦手だからもっとこう自由奔放とか開放的とか露出多めとか肌色な方向性でお願いします。
はてさて今すべきはそんな話ではなかった気がする。話を戻すけど、例えばこの秩序なんて意に介さないやつが隣に来て好き勝手に暴れだしたら?どうなるかなんて、敢えて言うまでもないかな。
とかく秩序の外の存在はえてして平穏な毎日を破壊する、それは異国の民だったり異星人だったり外から来た神様だったり近年の傾向では金髪転校生であったりするのだが、それがもし幽霊でも何ら問題はあるまい。
ふわふわと漂う少女は相も変わらずぼくの側を離れようとしなかった。さすがに授業中は大人しかったが休み時間となったところでいよいよ我慢できなくなったようで。
「すごいねお兄ちゃん、高校だよー!」
大きくなったミカさんはどうやら気分も大きくなったらしい。というかテンション高いですね。
「そうかもしれないけども、そんなことより。 どうして普通にウチの制服を着てんだ」
「えーと……雰囲気が出るかな?みたいな。 お兄ちゃんと同じ高校に通うのも面白いかと」
「問題はそこじゃないだろ……。あぁもういい、見た目にはツッコまないわ」
どうせ、また服くらい自由に変えれるとか言い出すんだろう。普通の幽霊はそうじゃないんだけどな。
「むぅ、また適当に。さっきまでは成長したあたしのおっぱいじろじろ見てたくせに」
「もう少し頑張れなかったのかな〜、と思っただけだから。そんな貧しいくせによく言うよ」
「あれあれ、てっきりお兄ちゃんのタイプはこのくらいじゃないかと思ったのになー? 紅葉さんの大きさとか形とか柔らかさとか再現度120パーセントだと思うんだけどなー?」
言いながら制服の胸元をチラチラさせる。最近の若いやつはどうなっているんだ、もうちょっと恥じらいとかないのか。
……つかなんでバレてるの。
「さっき紅葉さんと乳繰りあってた時、すっごい顔してたよ?お兄ちゃん自覚なかったでしょ」
「なぁっ……こいつ!仮にも女の子だったらもうちょっと言葉を選んで話せないのか!」
しかし顔に出てたというのは問題だ、ただの変態じゃないか?あ、でも触ってた時点でアウトか。
「ごまかさなくてもいいのに、照れちゃって〜」
ところでこのバカはどこでどんな教育受けてきたんすか。もうお兄ちゃん心配で夜も寝られなくなっちゃうよ?
「からかうのもほどほどにしてくれな」
「はいはーい、でもでもやっぱり照れたお兄ちゃん可愛いよね」
そう言って浮いたまま、今度は後ろからぼくの頭に抱きついてくる。これでも当たるところが無いからまだマシなのだろう。いやあんまり変な事し過ぎるとお兄ちゃん違う意味で夜寝られなくなっちゃうよ?
無邪気に無防備な元ちんちくりん幽霊をひっぺがす。まだミカには聞きたいことがいくつかある。それより何より精神衛生上よろしくない。つか何より同じ教室に紅葉もいるし。見えていなくても気にはなる。
「ところでぼくの身体に入るのってどうやったんだ?あのあたり記憶が曖昧なんだけど、あんなの初めてだったし」
彼女は照れくさそうに頬を赤らめながら。
「そ、そんなにもっかいチューしたいの……?」
「い、いや違うから。ちょ上目遣いはダメだ……本当にやめて」
「別にチューじゃなくてもあたし的にお兄ちゃんと繋がるイメージが必要なだけだから〈自主規制〉とか〈自主規制〉してもできるよ、多分」
しばらく開いた口が塞がらなかった。今までもそんな事を繰り返してきたのだとしたら。もしかして生きていた頃にそれが当然の、そんな酷い生活を送っていたとしたら。
そんなことをぼくは許容できない、それが彼女にとっての普通ならぼくが彼女に出来ることは。
「ぼくと年齢はそんなに変わらないんだったよな……ミカ、お前がどんな目にあって来たかは聞かないけどさ。でもぼくといる時くらいは無理しないでも」
「ちょ待って待ってよ、そんな本気にしないで。ただの冗談だから、ちょっとだけ困らせようとしただけで……。 チューしたのもお兄ちゃんが初めてだから! それに純潔を守った綺麗な身体のままだし……もう散らす機会もないんだけれど、なんちゃって」
「……人を心配させんじゃないの、事と次第によっては本気で締め上げに行くところだったぞ」
でも彼女の話が本当なら、ミカちゃんはただの下ネタを口に出すお年頃の女の子である。それはそれでお兄ちゃん怒ろうかな。
「それと、今後はもう機会がないとか、そういう悲しい話も禁止。 少なくともぼくの前では」
そう、それは一番ダメだ。その手の台詞は否応なくぼくに生者と死者という現実を突きつける。ぼくが常々忘れようとする境界に彼らは自ら線を引く。やはりそれはぼくにとって悲しいことだ。だってぼくにとっては同じものだから。わざわざ距離を取るような事をしないで欲しい。無理に分けなくてもいい。
「だからまぁその、なんだ……生きてるとか身体が無いとか、そんなの関係なくぼくといる時はただの一人の普通の女の子。それでいいな?」
「本当⁉︎じゃあ、あたしの初めて貰ってくれるの⁉︎」
「なんでそうなるんだよこのバカが」
そこそこの力でげんこつを落とす。
「あぐぅっ」
結局そこに落ち着くあたり元からそっちのネタが好きなだけらしい、それならいいのだが。
……いやだから全くもって良くはないんだけどね?
*******
午前中の授業も終わり、教室はまた喧騒に戻る。
さぁ今からすべき任務は紅葉さんとの仲直り。といってもあれくらいなら心の広い紅葉さんに限ってそんな怒ってないと信じてる。
休み時間のあいだも授業中もずーっと、視線を感じてそちらを見ると目を逸らされ、そんで戻すとまた視線を感じるという無限ループに陥ってたけど。
それは多分気のせいなので怒ってないといいな。
「あのー、紅葉? その……朝の件なんだけど」
「おやおやこれはこれは朝から女の子とずっと!ずーーっと!デレデレしてるカズくんじゃないですか、どうかしましたか?」
いやはや依然ご立腹であったね!言葉の隅々にまで棘を感じるよ、何本か刺さった気がする。
「何のことか、よくわからないなー……なんて」
「もう、顔に出るからすぐわかるってば。 今、嘘ついたのも今日の朝からずっと楽しそうにしてるのも」
そう言うと、はぁと大きなため息をついて一旦言葉を切った。
「どうせ朝のあれこれは記憶にないんでしょうし。今もいる……かは知らないけど例の女の子がやったんでしょ?」
少し呆れたようにぼくを見ながら言う。あの馬鹿はいったい何をしたのか、記憶がぼんやりとして身体を乗っ取られた時のことはぼくにはわからない。
しかし棘もすっかり抜けて、気がつけばいつもの優しい紅葉さんだった。ほっとしました。
「それは覚えてないってのが本音なんだけど。その朝の、例の不慮の事故を謝りたいなと思ってた次第で……」
「それももういいよ。わざとじゃなかったはずだし。……そ、それに?カズなら別に……」
「え?最後なんか言った?声が小さくて聞こえな」
「っなんでもない!なんでもないから!」
突然どうした、何をムキになってるんだよ。びっくりするからやめてくれよ。
「いいなーお兄ちゃん、楽しそうで」
会話に参加できない少女は聞き取れるかどうかくらいの声で呟いた。ただ、ぼくの耳には幽霊の声は人の声よりもよく響く。どんなに小さくても不思議と聞き取れないことがない。
彼女の声はなんとなく悲しそうで、瞳は少し寂しそうで。それが果たしてただ話に入れないからなのか、他の意味があるのか。ぼくにはわからなかったけど。
そういえば、と紅葉は出し抜けに聞いた。
「ねぇちょっと疑問に思ったから聞くけどさ、その娘って生きてた頃に知り合いだったとかじゃないの? でもなきゃそんなに仲良くなれるもの?」
「なるほど……確かに。 ただ少なくとも俺の記憶には無いが。でも懐かしい感じはするな。その辺りどうなんですかね?」
「あたしに聞くの?自分の容姿もろくに覚えてないのに?」
確かにそれもそうか、これ以上聞いても仕方ないだろう。"わたしは誰?"と言ってる人に"あなたは誰ですか?"と聞くようなもんである。
「わからないってさ、まぁそのうちこいつの事も詳しくわかるだろうから暫くは勘弁してくれ、な?」
「カズがそれでいいなら、ひとまずはね。 それじゃわたし紅葉って言います、よろしく」
ぼくの右側の上辺りに向かっての、優しい笑みでの自己紹介。手を差しのべて、彼女らもどうにか仲良くなってくれればぼくは嬉しい。
ただ残念ながらミカは今ぼくの左側に居るんだけどね。
*******
皆が手を取り合えば世界から争いが無くなる、なんてことはおそらくないけれど。それでもきっと永遠に解りあえないぼくらの世界では、小さな繋がりに大きな価値があるんじゃないだろうか。
なんて、柄にもなくささやかな幸せを噛みしめてみるくらいにはぼくはどうやら浮かれているみたいだった。