天使は踊る、僕らは廻る
ぼくはぼくが見た世界しか語れない。君も君が見たものしか語れない。だからぼくの知りえないことを語るのはぼくの仕事ではない。
百聞は一見に如かずって言うしね。いや、やっぱしあんまり関係ないかも。
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今日は珍しくカズがわたしと同じくらいの時間に登校していた。少し前を歩く彼はいやに上機嫌な様子だったから、わたしもなんだか嬉しくなってついつい早足になって声をかけた。言い訳みたいにいつも通り彼を注意するふりをしたけれど、正直なところ彼が話す相手の生死の境目を気にしないのはもうとっくに諦めている。
どうやって声をかけたら自然か、いつも少しだけ考える。腐れ縁の幼馴染に許される距離感は難しい。別に声をかけたところで特になにかあるわけでもないけど、かといって何も期待していないって言ったら嘘になる。いっつもそんなことを考えるわたしはそれなりにわがままで自分勝手だと思う。
けれどもそんなことより今、目の前の問題はそうじゃなくて、カズが馬鹿だって話だった。
さっきから幽霊の女の子(仮)と談笑(?)をして鼻の下を伸ばした挙句に、ケダモノらしいところを見せてくれるらしかったのだけれど。
「ちかっんんっーー!?」
カズが急に言葉を止めて、目を見開いてそこで放心したみたいに固まった。視線の先は多分すぐ近く。声の止まり方から察するに口を塞がれたとかかな。でもあんなに驚くことでもないような気がす……あ……そういう事?
んー……、我ながらお花畑な発想ではあるけれど。これなら意外と説明がつく気がした。
あぁもう本当に嫌だ。これだから嫌。カズは、この馬鹿はいっつもなんだかんだ女の子に気に入られるのだ。本人は何故か気がついていないが、出会った時からずっとそう。顔がそれなりな癖に鼻にかけないで、そのくせ自分の事を放りだすほどにお人好し。いや別にわたしの感想とかじゃないよ?あくまで客観的、そう客観的な意見だから。
……まぁ真面目な話。相手がもし普通の人ならあの電波っぷりで次第に離れていくけれど、そうでないとしたらーーそれこそ幽霊だとしたらーー話は180度変わってしまってもおかしくない。女たらしは聞いたことがあるけど幽霊たらしってなんだ。……そんなのに引っかかったわたしも人のことは言えないか。いい趣味してるよね。
ひとまずこれを考えるのは後にしよう。そうでもしなければこの安っぽい少女漫画みたいな結論にすら耐えられなさそうだし、それくらいには今日のわたしは疲れているみたいだし。
何はともあれ、今はそれよりもカズのことが最優先だ。あの直後からふわっと意識を失ったみたいにその場でうずくまった大馬鹿をとりあえず起こすことにした。
「カズ?大丈夫?立てる?」
声をかけるとゆっくりと立ち上がる。妙にぎこちない動作だし、どこか怪我でもしたのかな。幽霊の女の子からのズキュウウンってやつで?……ごめん、やっぱ殴っていい?
「ふむふむ、これがお兄ちゃんの身体か。初めて試したけどやっぱり上手くいったねー。さてと、それじゃあさっそく彼女さん………紅葉さん、だっけ?」
独り言であったのか、やけにぼそぼそ話すからはっきりとは聞き取れなかった。お兄ちゃん?上手くいった?何がなんだかわからないけど身体どころか頭も無事なのか心配になってきた。
「大丈夫?変な場所でも打った?」
「あーあー、んんー、てすてす」
どうやら喉の調子を確かめ始めたみたい。チューしたら声おかしくなるとかそんな事はない、ハズだ。もう完全にそうだと決めつけてしまっているわたしがいるけど、違ったら恥ずかしい。
わたしはしたこと無いからどんな感覚なのかとかさっぱりわからないけれど。やっぱり甘酸っぱかったりするのかな?わたしの知らない彼は一体どんな味がするんだろう?
なんて、柄にもなくいやらしいことを考えていたら、不審なカズは急に身体ごとこちらに向き直ると肩をがしっと掴んできた。あまりに突然過ぎて心臓が飛び出るかと思った。いつもはこんなに近くで合うことのない視線が交錯して、肩に置かれた手にぐっと力が入るのがわかる。
「紅葉、じっとしてろよ」
未だかつて聞いたことがないくらいかっこいい声音だった。あやうくハート撃ち抜かれるどころか爆散しちゃう……でも、同時に少しだけ違和感を覚える。どこかが決定的におかしい。いつも口だけのヘタレじゃなかったっけ?それが今日はこんな、
「ちょちょっ待って。カズ? 近くない?やっぱりそういうのはもうちょっと段階とか!や、違くてその、嫌なわけじゃないんだけど、心の準備がまだぁうっ」
「うるせーな、黙ってろよ。たまにはいいだろ?」
そっと抱きしめられた。比喩じゃなく心臓が破裂しそうな程ドキドキしてる。でもいったいぜんたい、どうしちゃったのだろう。いつものあいつなら絶対にこんな事はしない。ヘタレだから。ヘタレだから。
「やめ、へへんなとこ触んないでっ」
しかし夢にまで見た夢のような誘惑に心が負けているわたしである。身動きがとれない状態でカズの片手がわたしの身体を容赦なく……詳細は教えないけど。 変なところを変なふうに触るから変な声が出ちゃうんですけど、ってちょ、やめっ、
「ー!もういい加減にしてよってばっ!」
「落ち着けよハニー、今後の参考にするだけさ」
「参考ってなんにゃぅっ」
くすぐったいし、変なとこしか触らないし、やっぱおかしい。何がおかしいって主に頭がおかしい。もしかしてさっきので抑えてた衝動が爆発したとか?いや……それでもあのヘタレはこんな直接的な方法はとらないと思う。例えるなら見た目はそのまま中身だけ違う人になったみたいな。
やっぱりそんな違和感を感じた、乙女の勘だけど。
それからひと通り触りきったのか、はたまた飽きてしまったのかようやく身体から離れてくれた。その頃には腰が抜けるくらいに、わたしもすっかりヘトヘトになっていたけれど。
「はぁはぁはぁ、終わった……の?」
「あれ?物足りなかった?」
「な、ちがっ、そんなんじゃないから!」
「それじゃあだいたいわかったし、そろそろお兄ちゃんに身体を返そうかなぁ。 服が乱れて息の荒い紅葉お姉ちゃんも見せてあげたいし」
言われて、飛び上がるように立ち上がる。慌てて服を直しながら、少しだけ冷静になってきた頭で理解する。イタズラ好きの子どもみたいにニコニコしながら、とうとう正体を表したカズの中の女の子。
「……はぁ、やっぱりカズじゃないんだよね、誰? さっきカズのことたぶらかしてた女の子がのり移ってる……とか? そんなことできるの?」
お願いだから。あいつの顔で、あいつの声で。そんな喋り方をしないでほしい。そんな仕草をしないで欲しい。
……そっち系の人にしか見えないから。
「わざわざ説明する義理はないよ? ま、その予想でだいたい当たりなんだけど。でも一つだけ言わしてもらうと、お兄ちゃんは紅葉お姉ちゃんだけのものじゃないってこーと」
じゃあね、と付け足してあいつの顔で悪戯をした後の子供みたいな無邪気なウィンクをされて、普段なら絶対に見れないそんな表情になぜだか見惚れてしまって。
そして、そのままわたしにもたれかかるようにして身体はまた意識を失ってしまった。彼のモノに戻った体温に、わたしの複雑な心はまだ熱を帯びていたのだった。
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漠然とした、ぼんやりとした意識の外の世界から、置き去りにした身体に戻ってくる感覚。少しの間、意識を失っていたのだろうか。ファーストキスで昇天でもしたのかな。ぼくってば敏感にもほどがある。三千倍かな?
思考と共に肉体の感覚も取り戻す。柔らかいなにかが右手の中に収まっている。倒れかけて咄嗟になにか掴んだのかしらん。ふにゅふにゅもにゅもにゅ。柔らかさ、サイズ、触り心地、どれをとっても素晴らしいバランス。さぁさぁだんだん視界もハッキリしてきたところで採点にまいりたいと思います!
「うーんそうだな、100点満点中78点ってところか。ボリュームに目を瞑れば……完……ぺ…………き」
世界を認識できるにつれ、割と近いところでばっちり目と目が合う。それもとびきり殺気のこもった、やつ。
あー、これ。久々にマズそう……。
「いつものカズね……戻ったんだ。で、この手は?さっきの点数は?」
「そりゃあ、もちろんおっぱ……よう紅葉。いやいや落ち着け。 誤解だ、よせやめろ、話せばわかる。わかってください、というか一番わかってないの多分ぼくじゃないかな?」
「なにか言い残すことは?」
「たいへん柔らかかったでふぅっ」
紅葉の鉄拳をまた随分と久しく頂いた。
朝から2回もサービスシーンで意識がぶっ飛ぶ主人公ってどうなんだろうね。もうちょっとお茶の間にいるみんなのこと考慮するべきだ。反省はしている、後悔はしていない。
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「起きろーー」
誰かがぼくの身体をゆさゆさと揺らす。おもむろに薄目を開けばそこは雲一つない青空、ぼくを覗き込む天使の笑顔。ここは……そうか、天国か。胸をなにかの偶然で揉んだだけでこんな可愛い天使がいる極楽に召されてしまった。
ってなんだ何ひとつデメリットないじゃん。やれやれ焦って損したぜ。ならもうしばらくこのまま揺すられるのも心地いいんじゃないかな。夢だとわかっているのに目を覚まさない夢なんて、夢のような幸せそのものだ。
「いいかげん起きないと遅刻するよー!それに道ばたで寝ない方がいいと思うよ。さっきから通り過ぎる人みんなにちらちら見られてるよ、噂になるよっ」
一気に現実に引き戻された、なんだってぼくの天使はそんなことを言うんだ。
「ここが夢の中なら目を醒ますかどうかの権利も本来ぼくにあって然るべきなのにね。情も慈悲もあったもんじゃないよ。まったくこのサディスティックエンジェルめ、もう可愛いんだから」
「えへへ、褒めてもなにも出ないよ。というか寝ぼけてるの? 言ってることがさっきから支離滅裂だよお兄ちゃん」
「お兄ちゃん?ぼくに妹はいないし、天使ちゃんの見た目から察するにぼくと二、三かそこらぐらいしか変わらないと思うんだけどな、どの意味にせよお兄ちゃんじゃないよ?」
「その指摘は色々と間違ってるよ? もう一個、あたしからの呼び名っていう用法を忘れてないかな。それともあたしが誰かわからないのかな? あんな事までしたのに……あたしも、その……初めてだったのに?」
そう言ってモジモジしながら熱っぽい視線をぼくに向ける。意識がない間に天使とイケない遊びでもしたのか、ねぇ待ってぼくも初めてだよ、記憶にないよ? じゃあノーカンだね。そうだね。
「よしそれじゃあ初めからなにも無かった。それでいいね? うん、じゃあ」
さっさと立ち上がろうとしたら袖を掴まれて止められた。
「待って待ってよ、あたしだよ。さっきここで会ったばっかの、お兄ちゃんのファーストキスをもらった天使みたいに可愛いミカちゃんだよ」
「ミカ?ぼくの知ってるミカはもっとちんちくりんだったと思うんだけどな。こう、ぬいぐるみみたいにギュッとできそうな感じの」
「むむぅちんちくりんなんて失礼な。あ、ちなみにいつでもギュッとはしていいよ」
それはいいんだ。いや、しないけどね。
「いや、でも……幽霊が成長するなんて話、しかもこの短時間で? 聞いたことないんだけど」
そう、成長していたからわからなかった。彼女はつい先ほどまでとは見違えるほどに大人びている。幼い少女だったはずなのにいまや今時JKにしか見えない。
しかし服装は変わらずに白いワンピースのままである。
……成長、そんな事あるのか?というか仮にあったとしても早すぎないか?
いや逆に、ぼくが何年も眠っていたか?
まるで竜宮城から帰った浦島太郎じゃないか。勘弁してくれ、まだ鯛も鮃も見てないっていうのにあんまりじゃないか。
だけどもどうやらそれは杞憂だったみたい。
「えっとね、何から話そうかな。あたしは普通の幽霊とちょっと違うの。普通の霊はその人のやり残した事がある頃、あるいは生涯で最も輝いていた頃の姿になることが多いんだけど。あたしにとっては自分の姿ってのがあやふやなんだ、だから見た目は家族を参考にしたし、年齢もわりと融通がきくんだよ」
つまりめっちゃ簡単にまとめると容姿、年齢が変えられるということ?なにそれ羨ましいな。
「そんなにガラッとは変えられないよ。この顔はもうあたしの中でこのイメージに固まっちゃったから。でも成長した姿を想像はできるでしょ?いい機会だったし紅葉お姉ちゃんの体型を参考に実年齢くらいに成長してみたの。一応、お兄ちゃんとそこまで変わらないはずだけどこんな感じじゃないかな、どう?」
と言いながら、その場でくるくると回ってみせる。本当に無邪気な天使がいたとしたらこんな感じだろうか。
たしかにぼくらと同じ年に見える。が、しかしもうちよっとくらい遊んでもよかったと思う。そんなに紅葉の身体を再現しなくても、ねぇ?
「あーだから…………いいんじゃない。さ、もうそろそろ行きますかね」
「あれれ?今のためはなに?胸に意味深な視線を送らなかった?ちょ待ってスルーしないで、ちょっと聞いてる?聞いてますかー!」
「時間がないんだー、急がないとなー」
ところでみんな忘れてたかもしれないけど、そろそろ遅刻しそうだった。間に合うかな。
遅刻しないように、そして未来に、今この瞬間、ぼくらは全身全霊の全力で駆け出した。
ここまでがプロローグで、序章で、出会いで、幕開けだった。だからこれからぼくが向かう先、この青春のスタートラインはここだったんじゃないかな。