第4話 審査官神保秀の落胆
最初の授業ーー数学の授業担当は、今泉岸春だ。
サングラスをかけたまま授業をするのは如何なものかと思うが、とりあえずそれは置いておこう。
授業の立ち上がりは、宿題の確認からだ。
宿題用のノートを回収し終えた岸春は、指導用の棒を指先で器用に扱いながら意気揚々と授業をスタートさせた。
推定年齢は40代前半。
年齢的に考えても、恐らく中々にベテランの部類にはいるだろう。
自信に満ち溢れている授業運びがそれを物語っている。
どうやら教科書の内容の予習を前提で授業の話を進めているようだ。
教科書にある問題をいきなり解かせ、時間をおいてある程度の人間が解き終わった頃を見計らっては問題の丸付けをスピーディーに進めていく。
丸付けが終わると、『わからなかった奴はいるか?』と挙手を求め、誰もあげないと、次に進む。
この無限ループを授業終了まで続けるというスタンスらしい。
だが、俺の感覚から言えばこれは少しいただけない。
たしかに、予習をしてくるということは授業を受けるために必要な最低限の準備であることは確かなのだが、これではなんらかの理由で予習を行うことができなかった生徒が、遅れてしまう可能性がある。
いや、それだけではない。予習の内容を理解することができなかった生徒も置いて行かれる可能性がある。これはさらにマズい。
この手のことは、特に数学においてはあってはならないことだ。
よく、『予習の内容がわからなかったのならば、授業中に質問をすればよかったじゃないか』という教師がいるが、これは間違っている。
誰もが皆、周りからの注目を一身に浴びながら質問をするということをできるわけではない。
ましてや、勉強を苦手とする層には、ただ問題が解けないだけではなく、勉強に対する苦手意識や、勉強ができない自分自身に対するコンプレックスがあるものだ。
勉強を得意とせず、問題を解けない層に向かって、クラスメートの前で挙手を求めるというのは間違っているのではないだろうか。
説明を省き、スムーズに授業を進めることを、簡潔で分かりやすい授業とは言わない。
予習をさせた上で、予習部分の丁寧な説明をすることは最低限必要なのだ。
さらに気がきく者ならば、授業後にクラスの成績下位と上位のそれぞれ3名に声をかけ、授業内容でわからなかった部分をピンポイントに聞いておくということも必要だ。
下位と上位が理解できない部分こそが、それぞれにその授業における肝であるからだ。
もちろん時には、やる気のない生徒たちから鬱陶しいと思われることもあるかもしれない。
だがそれを怖がるのは明らかにおかしい。
やる気のない生徒たちであったとしても、手を差し伸べることを怠るのは最もやってはいけないことだ。
教師に求められるのは、わかる者に教えることではなくわからない者に教えることなのだからだ。
それを理解していない教師を、俺は何人も見てきている。
結局、最後までこの一連の流れは続いた。
授業構成力と総合力にかなり大きく減点の入る授業進行だ。
個人的な話をすれば、この鼻につくような喋り方も好きではない。
授業終了まであと3分ほどの時間で、岸春は早々とチョークを置いて「今日の授業はここまで」と生徒たちに告げた。
そして、俺からの評価をさらに下げる原因にもなる極め付けの3分は始まった。
「それじゃあ、今日の宿題をだすぞ」
そういうと彼は、廊下から台車をひいて来た。
台車には、どっさりと書類が乗っている。
なんだろうか。
「それじゃあ、これ配って」
そういうと、岸春は冊子の束のようなものを各列の先頭に座る生徒に渡して、「一冊とって後ろの席に回せ」と指示を出した。
前から4番目に座っている俺がやっと手にして見てみると、どうやら奴のお手製の問題集冊子らしい。
上から下までぎっしりと問題の書かれており、だいたい250ページくらいある。
「次の授業は3日後だったな。全部ノートにやって提出しろ。できない奴は、次のテストの点数に0をかける」
…ようは、提出しなければ次のテスト0点と言っているわけだ。
宿題を出すのは別に構わないが、この量はなんだ。
3日後の授業までに、今日の放課後を入れても3日分の放課後の時間しかないというのに、この量は意識が遠くなる。
確かに、こなせない量ではない。
いや、正しく言えば、成績上位者ならこなせない量ではない。
が、恐らく下位者は絶対無理だろう。
下位者では、全て解くのは物理的に不可能。それ以前の問題として、精神的にも不可能だ。
この出し方は、最悪としか言いようがない。
宿題を出す意味というのは、本来『予習をした上で授業に臨み、復習を行うことで定着をさせる』という世に言う黄金サイクルの一つ復習を強制するシステムだ。
しかし、この量では意味をなさない。
やる気を逆に削ぐだけだ。
簡単に説明するならば、標準的な問題集の中で授業範囲に該当する部分の基本問題を7割程度の量が宿題としては丁度よい。
応用問題や発展問題は、授業内容の定着をはかるという意味はなさない場合が多いからだ。
そして、類似問題を集めた小テストを行えば効果はてきめんなのではないだろうか。
多すぎる量というのは、苦手な層を視覚的に攻撃することになる。
丁寧に解くことではなく、宿題を終わらせることに意識を向けさせる宿題ならば出さない方がマシというものだ。
まさか、ここまでお粗末な授業をするものがいるとは驚きだ。流石に、酷すぎる。
類似したような授業を見たことはあるが、このような宿題の出し方はハッキリ言って、粗雑にもほどがある。
どこからこれほどの問題を引っ張ってきたのかは知らないが、活力の項目は高くなろうと、学力育成力と総合力は、2以下を獲得することは少なくとも俺の評価シートにおいては免れないだろう。
授業内容も加味すれば、総合力は文句なしの1だ。
周りのクラスメートを見渡しても表情が暗い。
そりゃそうだ。
こんな教師に、一年間も教鞭をとられては、才能を殺されるようなものだ。
今のところ、成績下位者にとって不利な条件ばかりが降り注ぎ、上位者にとっては、不利ではなく苛立ちの感情を煽る授業という感じになっているが、こんな調子では、上位者の伸び代でさえ潰されかねない。
この量の宿題をやらないといけない生徒たちの心中をお察しする限り…で…ちょっと待ってよく考えてみよう。
俺はゆっくりと手を挙げた。
「あの、先生」
「なんだ?」
「この宿題、俺もやるんですか?」
「当たり前だろう、何をバカなことを」
「でも、俺やらなくても、どうせ期末受ける前に帰っちゃうんで、あんまり影響ないんですよね」
「…そうか、それは考えてなかったな」
ーーはい、柔軟性減点。
「それじゃあ、キリヤ」
「キリタニって読むんですよね〜」
「桐谷、お前は宿題をやって来なかったら、学校に軟禁だ」
「は?」
「宿題が終わるまで家には帰れないぞ」
「それ本気で言ってます?」
「校長と君のご両親に許可を取ればいいだけだ」
なるほど、確認を取っておいてよかった。
つまり、俺はなんとしても宿題をやる必要があるということだ。
存在しない両親に連絡などされては困る。
「わかりましたよ、お任せください。この程度1日で終わらせます」
「そうか、それは頼もしいな。では、明日の授業の時に見せたまえ」
こうなってはやるしかない。解くために時間が必要…なのではなく、これだけの量の問題の答えをノートに式も含めて書き込むというのにとんでもない時間がかかる。
俺でも徹夜は確定。恐らく、このクラスの中の人間では、徹夜したところで明日までには終わらないだろう。
黙って席に着いた俺が隣を見ると、さっきまで暗い表情をしていた七海も驚いたような表情でこちらを見ていた。
七海の硬い表情が崩れたのを見て少し安心した俺は、七海にニコッと微笑みかけた。
すると、七海は再び硬い表情に戻ってしまった。
そして、七海は囁くように俺に問いかけてきた。
その声はまるで、周りに会話を聞かれないようにしているかのようだった。
一応、俺もヒソヒソ声にしておく。
「終わるの?」
「まぁ、終わらせるしかないな」
「そっか」
「わからないところがあったら、うちに聞きに来ていいぞ」
「…」
だいたい3分。ここで一時間目終了の鐘は鳴った。
岸春が教室を鼻歌交じりに出て行くと、張り詰めていた教室の空気は一気に緩んでいった。
さぁて、大口を叩いてしまった以上やるしかない。
さっそく、バックに幾つか突っ込んできたノートの一つを取り出し、表紙に数学宿題用と書いて問題を解き始めて間もなく、なんとなく予想はしていたが、見事なまでに邪魔が入ってきた。
「うわぁ〜スゴい!解くの早い!」とか「見ろよ!こいつ4ケタと4ケタの掛け算を筆算なしで2秒もかけずにやってるぞ!」とか「ねえねえ、私にも教えて〜」とかもう、うるさい。
頼むから静かにしててくれ。
神経質な俺にとって、苦手中の苦手である数学をこのスピードで解こうというのにも関わらず、この騒がしい環境は耐え難い。
集中力は2分と持たずに切れた。
そして、やる気もなくなった。
黙ってノートを閉じてから『家に帰ってやろう』と決意した俺は、仕方なくクラスメートとの談笑に身を投じることにした。
まぁ、死に物狂いでやれば普通に明日までには終わるだろう。
どうせ集中できないのならば、やるだけ無駄だ。
ならば、クラスメート達と会話を重ねることで、親密度を上げておくことで、後々役に立つこともあるかと思い至ったわけだ。
一時間目とは対照的に、2時間目の現代文は担任でもある南宋瞳によって、中々に魅力的な授業が展開された。
驚いたことに、先程の態度からは想像もつかないほどに瞳は饒舌だったのだ。
教壇に立った瞬間に、纏っていた落ち着きのある雰囲気は、ガラリと風貌を変えた。
次から次へと一定のリズムを刻みながら流れるように喋りを展開する。
早口で聞き取りにくいということはなく、自然と耳に入ってくる心地よさがある。
肝心の中身だが、授業で教えるべき最低限のことを教えてはいるものの、いささか足りない部分がある。教え方そのものも、悪くはないが特別良くもないといった感じで、及第点だ。多少の改善は必要だが、許容範囲内にある。
そして、それを補って余りあるのが授業構成力。
俺が評価している通り、彼女の授業は砕けた雰囲気の中で生徒との呼応を時折挟みつつも、その得意の饒舌さと知識量の多さを活かした、現代文を面白おかしく切り込む魅力的な授業だ。
ダラけているのではなく、砕けているというその絶妙な空気感は、そう簡単に生み出せるものではない。
教師という仕事が向いているというところなのだろうか。生徒との距離感をうまく心得ている。おそらく彼女は、天性の感覚でそれを無意識のうちに掴んでいるのだろう。
それが故に、彼女は生徒の心さえも掴む授業が出来るのだ。
先ほども言ったように、改善すべき点はある。
特に教え方に関してはだ。
しかし、そこを改善できれば、きっと素晴らしい授業になるに違いない。
そう、確信した。
1時間目と2時間目でこうも落差が激しいというのはいったいどうなっているのか。
いや、流石に1時間目の授業担当者が酷すぎただけなのかもしれない。
てっきり、ああいう質の悪い教師が揃い踏みなものなのかと思っていたが、やはり通常の学校同様に教師によって落差があるだけなのかもしれない。
に、しても1時間目は酷すぎて擁護する気にもならないが。
と一瞬でも考えた俺は、どうやら読み違えていただけらしい。
3時間の生物を担当した楠木ハヤタ。
4時間目に物理を担当した轟浩二。
5時間目の世界史の授業に姿を現した結崎百合香。
6時間目は海女塚冬至が英語を教えたが、全員とも差はあれど全員決してよいとは言えない授業であった。
特に轟浩二と海女塚冬至に至っては、役に立たないことこの上ない授業だ。今泉岸春も大概だが、2人も引けを取らない強者の雑魚教師と言えるだろう。
授業の有用性は皆無。
理不尽な指導がないという一点においてのみ、岸春より2人の方がまだマシかもしれない。
だいたい今日の評価表はこんなところだ。
今泉岸春
『授業構成力』:4
『活力』:9
『会話力・進行能力』:2
『柔軟性・学力育成力』:1
『総合力』:1
備考:授業構成力は改善次第で上昇の可能性あり。ただし、学力育成力や進行能力等はどうしようもないレベル。総合力は、各項目の平均を取る数値ではないため、活力9には一切の関係なく1とする。
南宋瞳
『授業構成力』:9
『活力』:6
『会話力・進行能力』:10
『柔軟性・学力育成力』:6
『総合力』:8
備考:授業自体の魅力は申し分なく、生徒たちのやる気を邁進させる程の出来栄え。学力育成力は、悪くはないものの実力不足が伺える。短所を伸ばせば、素晴らしい授業を展開できる可能性を秘めている。
楠木ハヤタ
『授業構成力』:3
『活力』:5
『会話力・進行能力』:3
『柔軟性・学力育成力』:1
『総合力』:3
轟浩二
『授業構成力』:3
『活力』:2
『会話力・進行能力』:2
『柔軟性・学力育成力』:1
『総合力』:2
結崎百合香
『授業構成力』:2
『活力』:6
『会話力・進行能力』:4
『柔軟性・学力育成力』:2
『総合力』:3
海女塚冬至
『授業構成力』:1
『活力』:6
『会話力・進行能力』:2
『柔軟性・学力育成力』:1
『総合力』:2
このような結果の評価表では、勘違いする者がいても当然なのだが、しっかりと公平に採点している。
決して自分の好みによるジャッジではない。
勿論、無意識のうちに採点に影響してしまっている可能性を完全には否定することなどできないが、しっかりと教師としての真価を見極めようと尽力して採点した結果だ。
そもそも、総合評価2以外の教師など、誰が採点したところで似たような評価になるというようなものではないかと思っている。
最も、3週間の間にこの評価が覆されることもあるかもしれないが、まぁあまり期待できない。
これがこのままの評価になる確率が高いだろう。
そもそも、甘めの採点をすることになっている総合評価で最低基準の5を2以上下回る教師など、自覚もなく中身のない授業を続けるような害悪だ。
3週間も様子を見る必要もない気がするが、どうせ3週間は帰れないのだから、一応上記の6人の様子見は続けることになる。
まぁ強いて言えば南宋瞳の、3週間後の評価の変動を楽しみにするくらいだろうか。
さて、校内で評価表を記入するわけにもいかないので、評価を暗記していかなければならない上に、岸春の宿題を1日で終わらせなければならない俺は、誰に構うこともなくさっさと帰ることにした。
友紀に、先に帰宅するとメールで連絡を入れた俺は、せかせかと家に帰って行った。
結局、今日1日七海とはほとんど話すことがなかった。
本当は少し、あの暗い表情の真相が気にはなっていた。
だが、話しかけても味気ない返事しか返ってこない彼女に、それを問いかけるのは無駄だと、俺はそう思ったのだ。