第2話 落し物にも福はある?
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外を眺めている。
俺は今外を眺めている。
どこからか。
飛行機の窓からだ。
俺は、飛行機の窓から見える地上の景色が好きだ。
離陸後10〜20分前後で見えなくなってしまう貴重な景色ではあるが、これは本当に素晴らしいものだと俺は思う。
地図に記載されている日本列島の形状を、自らの目で見ているということに対する感慨深さはそれこそ、凡人であるとか天才であるとか、そんなちっぽけなことが介入する余地もない万人共通の意識なのではないかとさえ思う。
今でこそ、人工衛星によって性格な地図が作成できるようになったが、今から約200年ほど前に日本中を歩いて旅をし、測量を行ったという伊能忠敬は、いったい頭のネジが何本外れていれば、歩いて測量をしようなどというイカれたことを考えるのだろうか。
しかし、そこにこそ彼のカリスマ性はある。
だからこそ、彼を慕い、彼の無謀と言える挑戦を支えた仲間たちがいたのだろう。
奇しくも天才などと呼ばれている俺が切望するのは、まさしくこれなのだ。
遥かなる高い壁と、それを越える最高の仲間との出会い。
それさえあれば、何もいらない。
それさえあれば、このつまらない人生は大きく流転するのだろうと希望を抱いている。
今回の仕事は、そんな俺の目指す憧れの偶像の自分に近づく仕事になるに違いないと、そんな予感がしていた。
ーー気がつけば、その景色は見えなくなっていた。
横では、友紀が寝ている。
こうして改めて見ると、友紀の寝顔は天使のように可愛い。
時と場合にもよるが、案外クールな表情のことが多い友紀が、こうも無防備な寝顔を見せていると、どうもホッとする。
ーーホッとするのはいいのだが、人の肩に頭をのせてグッスリ寝るのはやめてほしい。
やはり、ドキドキするというのもあるが。何より身動きがとれない。
朝早い便だったこともあり、互いに起床が早かったこともあって、眠いのだろう。
起こしてしまうと、また仏頂面で何か苦言を呈されそうだ。
俺の気遣いもあってか、一向に起きる気配はない。
完全に熟睡中だ。
当然、ワゴンカーを引いたスチュワーデスが飲み物のサービスに来ても起きやしない。
一応気をかせて、俺はオレンジジュースを貰っておき、友紀の飲み物は断っておくことにし、友紀が起きたところでオレンジジュースをあげるという具合にしたので一応友紀は、ニコニコしていたが、気を遣いっぱなしだった俺ははっきりいってかなり疲れた。
心地よい仮眠と景気付けのオレンジジュースを楽しんだ友紀はかなり元気そうで、それはいいのだが、フライトの間に疲労を増幅させてしまった俺を、元気いっぱいのテンションで振り回すのは勘弁してほしい。
登校は翌日からだ。
生活の準備をするための日を約1日儲けるために登校日初日の前日に来させられたのだ。
互いの居住場所は、徒歩で15分ほどだ。
距離的に近いと感じるか否かは人によりけりな距離という感じだ。
友紀と一旦別れた俺は、住所を打ち込んだケータイの地図アプリを頼りに、なんとか借り住まいへと辿り着いた。
なんというか、案外綺麗だ。
ボロアパートと聞いていた分、なおさらそう見えるだけなのかもしれないが。
俺が想像していた”いかにもなボロアパート”とは違い、低層のマンションといった感じだ。
それなりに広大な敷地の中に、何棟にも別れた低層のマンションが林立しているといった作りだ。
なんでも俺が住むのは、唯一の入り口から最も遠い場所に位置する第10棟らしい。
入り口から伸びるコンクリートの一本道の傍の草むらには、マップの印刷された立て看板が立っている。
公園や駐車場としての役割を果たすスペースも間に幾つかあるらしく、第10棟はかなりの距離がありそうだ。
とりあえず、用心も兼ねて1日分の着替えを詰めたナップザックを背負ったままでいるのも苦痛なわけであるし、俺は何も考えずに第10棟に向かうことにした。
入り口から見る限りではまっすぐだったコンクリートの一本道は、第3棟を過ぎたあたりから段々と弧を描くようになり、そのカーブはどんどん激しくなっていった。
駐車場は偶数番号の棟の側にそれぞれあるのだが、第6棟から先はまるで山の上のようにクネクネとしたカーブが続いており、まるで深部の住民に対する嫌がらせのようになっていた。
そして、それに呼応するように第6棟から突然建物の周囲の花壇が物寂しくなり始めていく。
第8棟から先は建物そのものの老朽化も見られるようになり、第9棟は第8棟にも勝る老朽化が目立っていた。
郵便受けを見る限り部屋の数は減っていないはずなのに棟自体の大きさも小さくなり始めている。
嫌な予感しかしない。果たして第10棟はこちらの期待に耐えうるのだろうか。
第10棟は見事に期待に応えた。
いや、期待と想像を超えてきたといっていいだろう。
が、決してそれは俺を喜ばせるような期待の裏切り方ではなかった。
なんかもう、本当に汚らしい。
うわぁ…としか言うことがない。
ここは本当に人が住めるのかと疑問を抱かずにはいられないほど見るに堪えない外見だ。
俺が住むように言付かっている201号室の郵便受けだけはやたら綺麗に磨かれているようだが、他の部屋の郵便受けはほとんどにコケが生え放題に生えており、触りたくもない。というか触る必要ないのだが。
…俺も今気づいたが、2階へあがる階段の所々の段が腐って落ちている。
なんというかやっつけの工事感がハンパではない。
郵便受けの掃除はしておいたのに、階段の工事はしていない。
常識的に考えれば逆であろう。いや逆でもない。全部直しておくべきだ。
どうやらいちいち階段を上り下りするのに、足を掛けた段が抜け落ちないか気を遣い、段差の開いている部分では大股を開くというめんどくさい気苦労を揉まなければならないらしい。
虫がたまらなく苦手なため、自室の玄関ドアについた蜘蛛の巣を3分かけて払ってから俺は部屋に入った。
部屋の中はまだ許容範囲だ。
ワンルームで少しカビ臭いが、一応掃除はされている。
今日中に、東京から送った荷物も届くはずだ。
都会だしキャリーケースでいいだろうと踏んだ自分の愚かさを嘆きながら、俺はとりあえず水回りを確認した。
しっかりとライフラインは動いている。
ケータイの電波も確認したが、問題なく入る。
しかしながら、この異様な雰囲気に惑わされていたが、ここは山奥や森の中などではなく、愛知県に位置する至って普通の住宅街。
電波が届かないわけもない。
案の定、そりゃあもうバッチリと友紀から電話がきた。
「おい、ユキ。ここは何だ。ここまでヒドイとは思わなかったぞ」
「こっちも中々だよー」
「俺たちの家は、良樹が手配したんだよな?」
「うん。一ヶ月だけの契約で借りれる場所を探すのに結構時間がかかったらしいよ〜。しかも、家賃2万以下で」
「2万?!」
「ポケットマネーなんだってさ〜」
「にしても、もう少しいいところ取ってくんないかな〜。ここに3週間はさすがに…」
「まぁ、我慢我慢」
「ところで、そっちは早速ゴキブリとか出たか?!」
「ゴ、ゴ、ゴゴゴゴゴゴゴキブリ?!?!」
「あぁ、ゴキブリだ」
「出てないわよ!!」
「そりゃ残念だな」
「あんた、夜化けて出るわよ」
「ってことは、お前は夜までに三途の川を渡るわけか?」
「揚げ足とんな」
「これで一対一の五分な」
「まぁ、無事に着いたかの確認だけだからもう切るわ。じゃあね」
そう言い残すと、友紀はさっさと電話を切ってしまった。
しかし…なんというか暇になってしまった。
一応読みかけのライトノベルを2、3冊持ってきたが、あまり読む気分にはならない。
ーーよしっ…!とりあえず外を散歩して、辺りの地形を把握してみようじゃないか。
ケータイと財布と音楽プレイヤーをズボンのポケットに分けて詰め込み、手ブラで身軽になった俺は靴を履いて外を散歩することにした。
意気揚々と散歩に出かけたはいいが…暑い。
気がつけば、陽は結構昇っている。
到着からそれなりに時間が経っている証拠だ。
散歩は、案外満足のいくものとなった。
行く当てもなく、フラフラと意味もなく散歩を3時間ほど続けた結果、俺は疲労と引き換えに軽く土地勘を手に入れることに成功したからだ。
何と言っても、この散歩は暇潰しに過ぎなかったわけだから得るものが多少なりともあればそれでいい。
そして、それだけではない。
道端で偶然拾った財布を交番に届けておいたのだ。
中々に良いことをしたな…と自らの行動への自画自賛で散歩そのものの価値を高めることになお成功したわけだ。
実際、良いことだろう。落とし物を拾ったならば、交番に届けるのは至極まっとうなことで誇るようなことではないと言われれば、そうなのだが。
ちなみに、気が引けたということもあって財布の中は見ていない。
連絡先や住所等、3週間限りの仮初めの個人情報をありったけ交番で引き出された俺は、帰り道に立ち寄ったカフェで、位置情報のタグを括り付けたメールによって呼びつけた友紀とコーヒーをすすっている。
残念ながら、ここのメニューにオレンジジュースはない。
「友紀の方は、荷物届いたか?」
「秀に呼び出されて家を出る直前に」
「…じゃあウチにも届いたかな」
「まぁ、かもですね」
と、すると配達員はかなり迷惑しているハズだ。
あのイジメのような急カーブの応酬をトラックで乗り越え、3週間生活するための道具を全て詰め込んだ、かなり大きめのキャリーケースを持ってあの上りにくい階段をやっと上ってみれば、部屋の主は不在であり……というわけで、かなりお怒りのハズだ。
「そういえばさ、友紀。お前、良樹の連絡先知ってるだろ?」
「ええ、まあ」
「必要になる時がくるかもしれないから、教えてくれない?」
「あ、あぁ、そのことなんだけど…ね…」
「なんだよ」
「教えるなって言われてるんだよね」
「…はっ?」
「いやぁ、なんでもね。『俺に連絡してくるときは、友紀ちゃんがパートナーとして必要だと判断したときにしてくれ。秀の判断ではなく君の判断でだ』と言われていてね。そのときに『勿論、連絡先も教えるな』と…」
「…あの野郎」
「だから、ゴメン!」
「まぁ、いいよ」
こうして友紀に両手を合わせて謝られたのは初めてなだけに、余計動揺してしまう。
「あのね、これは『言うな』って言われてることなんだけどね」
「ん?」
「今回は、『秀の手腕を是非とも見せて貰いたい』と言っていたんだよ」
「俺の手腕?」
「うん。話を聞く限りでは、あの人は秀に期待しているから、あんたの力を見せて欲しいみたい。自分一人でどこまで出来るかとか、秀はどういう風に考えてどういう風に行動するのかとか」
「それってどういうことだ」
「詳しくは教えてくれなかったんだけどね…」
「そうか」
「わたしが話しちゃったこと言わないでね」
「わかってるよ」
「でも、なんか奥歯に物が挟まったような物言いだったんだよね」
「何か隠している…と?」
「だって、まるで何かが起こることを予期しているかのような言い方じゃん」
「まぁ、確かにな」
「わたしの杞憂かもしれないけどね。単純に、私や秀の審査官としての技量であったり、得手不得手を測るだけなら、何かが起こる必要はないのかもしれないし」
「あいつは食えない男だから、気をつけた方がいいぞ〜?」
「まぁ、でもちょうど伝えたいことを伝えておけてよかったわ。万事に臨機応変に対応できるように心がけましょうとだけ言っておきたかったの」
「勿論だ」
気がつけば、お代わり自由のコーヒーを既に4杯も飲んでいた。
そして、5杯目を注いでいるウエイターに迷惑そうな顔をされていた。
ーー5杯目を飲んだら退散いたしますので、ご安心くださいよ、ウエイターさん。
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せめてもの罪滅ぼしに、多めの札を出して「釣りはいいです」と言い残し店を出てきた俺と友紀は店の外で「割り勘する」だの「しなくていい」だのといったことで揉めていた。
「別にいいって言ってんだろ」
「なぜあんなに多額の代金を払って店を出たのかは知らないけど、秀に全部払わせるのはシャクだから、自分の分は払うわ」
「いいって言ってんだろ。そういうところかっちりするくらいなら、この間のオレンジジュースの手数料返せよ」
「は、はぁ?!なんでそんな話になるのよ」
「100円にも満たない金を返すのに出し渋る女に1200円とそれプラスで重く消費税がのしかかるコーヒー代金を要求するつもりはないから、安心しろ」
「ヒドイ言われようだけど、それとこれとは関係ないわ」
「もういいから、その金で帰りにオレンジジュースでも買って帰れよ」
「う、うるさい!払うって言ってんでしょ払うって!」
「もういい!また何かあれば連絡するから、それじゃあな!」
そう言って早足でその場を立ち去った俺の後ろから「おーい、逃げんなー!」と喚き声が聞こえているが、まあ俺は気にしないことにした。
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やはり自宅の郵便受けには、配達員の残した不在票が入っていた。
不在票に記載されている電話番号に電話をかけた俺は、配達員が到着するまでこのカビ臭い部屋で昼寝をすることにした。
冷蔵庫や布団等は、俺たちが到着する前に車で持ち込まれていたため、ないわけではなかったが、和室ということもあって特に布団を敷く必要を感じなかった俺は、ケータイを充電するとそのまま倒れこむように寝込んだ。
1時間余りで無事に再度届けられた荷物を受け取った俺は、荷物の整理を一通りしてから少し早めの晩御飯に出かけようと決意した。
明日から何かと疲れそうなこともあって、早めに寝ようと思ったからだ。
コンセントに差し込まれた充電器からケータイを取り外してポケットに入れた俺が、抜かりなく財布も持って外へ出ようとして玄関ドアを開けたその時。
ドアが何かにぶつかった。
直後に「い、痛っ」という声がしたのできっと人間だろう。
いったい誰が何をしにここへ来たのか。
友紀くらいしか来客者に心当たりなどない。
来てもせいぜい、何か特別な用のある大家だろう。
玄関ドアを全開にした俺は首を傾げた。
見たこともない少女がおでこを抑えて立っている。
記憶を辿っても、この少女とは本日この街ですれ違ったことさえない。
まさか、隣人が挨拶に来たということもないだろう。だいたいこんなところに、同年齢くらいの少女に一人で住んでいられても、逆に困る。
といったことをだいたい1秒かからない程の時間で考えていると、少女の方から先に口を開いた。
「あのっ…!」
「はい?」
「この財布…」
どの財布かと思って、少女が差し出した財布を見てみると、俺が先ほど拾って交番に届けた財布ではないかということに気づいた。
「あ、あぁ」
「この財布拾ってくれたの、貴方なんですよね?警察の方から聞きました」
「まぁ、そうだな」
「あ、ありがとうございますっ!あっ、ああ、私はえっと桜宮七海と言います」
「別に気にしなくていいよ、当然のことだから。あと、警察の人から聞いたかもしれないけど、俺は桐谷修也ね」
危ない危ない、危うく本名を言うところだった。
「あ、はいっ!あ、でも何かお礼を…」
「お礼なんていいよ」
「そ、そんなわけにはいきません!大切なお財布を拾っていただいて物凄く感謝しているんです!お礼させてください」
「本当に、大丈夫だよ?俺これからちょうど飯に行くところで忙しいし…」
「そ、そうですか…」
「あ、そうだ。じゃあ、お礼にこの辺りで美味しい晩御飯の食べられるお店教えてよ」
「この辺りにあまり詳しくないんですか?」
「今日越してきたばっかりだからね」
「そ、そうだったんですか!」
「だから、美味しいお店教えて?」
「じゃ、じゃあ、こうしましょう!私がご飯を奢ります。ですから夜ご飯をご一緒しませんか?私もこれから夜ご飯を食べに行くつもりだったんです」
「い、いやいいよ!財布を拾ったくらいで、桜宮みたいな女の子に奢らせるわけには…」
「七海でいいですよ?」
「じゃあ、七海みたいな女の子に奢らせるわけにはいかないよ」
「それでもです!そうしないと気がおさまりません!」
「いやいやいやいや、そんなことできないよ」
「お願いします!私とじゃ、ご飯食べたくないですか?」
「…じゃあわかったよ」
「はい!それじゃあ行きましょう」
まぁ、最終的に割り勘にして押し切ればしまえばいいかと思った俺は、美味しいお店の情報を手堅くゲットするためにも、七海の要求を受け入れた。
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