第1話 出発前
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「おいおい、まさか本当に来るとはな…」
「だって、行くって言ったでしょ?」
「冗談で言っただけかと思うだろ。わざわざ電車に乗ってまで、来るメリットないし」
「やる時はやる女なんですよ」
「…はぁ、そうですか」
いや、本当に驚いた。まさか、友紀がここまで来るとは。
説明するとほんの少しだけ長くなる。
俺は学校を辞めさせられて以来、運動不足を解消するべく、家から自転車で20分ほどかかる区営の温水プールへと泳ぎに毎日通っているのだ。
もっとも、学校を辞めてからまだ二週間弱ほどしか経っていないため、日課と呼べるほどのものでもないのだが。
といったわけで、俺は本日もここ区営温水プールへと参上したのだが、到着して自転車置き場へと自転車を置いてからケータイを確認したところメールが一件。
宮坂友紀からだった。
件名なしのメールを開いてみれば、やけに長い本文が書かれていた。
簡単に言えば、『入学手続きがすんだから、良樹からの伝言等も含めて話がある。今から会おう』といった内容。
『今からプールに入ってしまうから、後で電話でもしてくれればいい』といった内容の返事をしたところ、『今からそちらに向かうから、場所を教えてくれ』と友紀は言う。
まぁ冗談だろうと考えた俺は素直に場所を教えたのだが…どうも冗談ではなかったらしく、結果こうしてプール上がりの俺の目の前に立っているわけなのだ。
「そういえば、昨日参事官に車で連れられて学校を見てきたわよ」
「どうだった?」
「特にどうということもないわ。至って普通で、面白味もない」
「…お前って、俺の思ってた第一印象と違って、案外可愛げないよなほんと」
「失礼じゃない?」
「あー悪かったよ」
とりあえず、安い頭を下げておくことにした。
だが考えてもみれば、俺たちが派遣されることになっている学校は愛知県にあるハズだ。
愛知県までの長い距離を車という閉鎖空間の中で良樹のような男と共に移動して、いい思い出になるハズがない。
少なくとも、俺はそう確信している。
それだけではない。
俺たちが行くことになっている弓形市は、俺の知る限りでは決していいイメージがない。
弓形市は、3年前に愛知県に全国で791個目の市として成立したばかりだ。
成立して間もない頃は、児童福祉の充実化など初代市長の掲げた政策が好評を博し、人口の増加率も眼を見張るものがあった。
ところが、初代市長が汚職問題で退任に追い込まれると、政策は頓挫。
5年以内に政令指定都市に制定されると言われていたほどの人気ぶりは急激な下降をみせた。
続く二代目市長は不倫問題で辞任。
現在は三代目市長が在任中だが、技量不足の彼には荷が重すぎたのか、市議会の分裂を免れることはなかった。
他にも、様々な問題を抱えており、俺のイメージでは、一難去ってまた一難という言葉が非常によく似合うという感じだ。
最近では、連続通り魔による殺人が12件も続いたとかで、マスコミに頻繁に取り上げられていた。
通り魔は逮捕されたとのことであり、我々の命に危険が及ぶということはなさそうだが、やはりあまりいい印象はない。
「はい、これどうぞ」
冷たっ…!
頬に何か冷たいものが触れた。
手に取ってみると、缶のオレンジジュースが1本…。
「なぁ、別にお前がオレンジジュース好きだからといって、俺にプッシュしてこなくてもいいぞ」
「べ、別にオレンジジュースが好きなわけでは…」
「まぁ、いいや。いくらだ?」
「別いいよ、これくらい」
「そういうわけにはいかない。いくらだ?」
「いいってば!」
結構頑ななので、俺は財布から取り出した100円玉2枚を無理やり友紀の左手に握らせた。
「130円くらいだろ?70円は手数料でいいから」
「じゃあ、10円足りないよ」
「はっ…?足りない…?」
「増税後なのでこのジュースは140円です。手数料が70円なら、私が受け取るべきは210円でしょ?」
「は、はぁ?!どんだけ図々しいんだお前は」
「わかりました、60円でいいです」
「で、いいですって…」
「早く行きますよ」
「あーはいはいはい」
コポッという心地よい音と共に開いた缶のオレンジジュースを口に含みつつ、俺は友紀と自転車置き場へと向かった。
友紀の大好きな(と思われる)オレンジジュースなので、一応飲むかと聞いてはみたが『そ、それじゃあんたとか、か、か…間接キスになるじゃない!』と存外可愛らしい一面を見せつつ断られたので、自転車に乗るまでに一人で飲みきることにした。
自転車置き場のゴミ箱へ缶ジュースを放り込んだ俺は、自転車にカギを差し込んでからカゴを付けていない荷台に乗るようにと友紀に促した。
「乗っていくだろ?」
「まさか、走ってついて来いと言うの?」
「いやそうじゃないけどさ」
「そうか。ここに置いて行くという手もあるね」
「もう、うるせえな。揚げ足をとるようなマネをしていい気になる暇があったら乗れはやく」
いい加減言い合いにも疲れてきた俺は、友紀を抱き上げて無理やり荷台に乗せることにした。
顔を真っ赤にしてはいたものの、けっこう素直に抱き上げられていたものだ。
自転車は、風を切って滑らかに走った。
プールが面していた大きな幹線道路を脇に曲がり、閑静な住宅街の広がる裏道に入ると、両側に植えられた木々の作り出した木陰が陽の光を程よく遮り、和やかで心地のよいサイクリングコースを演出していた。
行き先は…俺の家だ。
なんでも友紀が『ここから近いのでしょう?秀の家にお邪魔するわ。そこでゆっくり話をしましょう』と言うので、特に断る理由もないため友紀を我が家に招くことにした。
「いつも秀は、ああいう気恥ずかしいマネを、特別親しくもない相手にするの?」
「さっきの”だっこ”のことか?」
「…決まってるじゃん」
「これくらいいいだろ。つーか、親しくないとか言うなよ。これからは2人で協力していくんだから」
「へえ…、案外協調性があるんだ」
「大人数で群れること自体は嫌いだが、協調性がないというわけではないぞ。それに俺はなんだかんだ言ってもお前をなんとなく気に入ってるんだよ」
「それって告白と捉えていいの?」
「飛躍しすぎだ」
「わかってるよ」
「とか言いつつ、文庫本を取り出して読むな読むな」
「なにか不都合でも?」
「普通こういう時って、男の背中にギュッてしがみついたりするんじゃないのか?」
「それって何?プリーズ・ギブ・ミー・胸キュン行動のアピールなの?」
「別にそういうわけじゃないが…」
「いいわ。私も一度こういうことしてみたかったから」
そう言った友紀は突然俺の背中を掴んだと思うと、両手を前の方まで回して、俺を後ろから抱きしめるような形で俺にしがみついた。
フワリと甘い香りが漂ってくる。
それに何と言っても…
「なぁ友紀」
「…なに?」
「あ、えと、あー、む、胸」
「…?」
「む、胸がさ…」
「…あ、あぁ。もしかして、ドキドキしてるのかな?そうだよね、私の胸ってけっこう大きくて弾力もバツグンだし」
「否定しないが、そういうことを口に出すのは、聞いてるこっちとしても恥ずかしいから勘弁してくれ」
「…ふふ。こんなことでそんなに動揺するなんて、私が思ってたより秀はウブなんだね」
まったく、お前も大概ウブだろ。
というのも自分は勿論のことなのだが、背中にビッタリとくっついている友紀も心臓の鼓動が激しくなっているらしかったからだ。
これに限らずどうも見ていると友紀は、切り返しの早い思考や少々捻くれた性格とは別に、顔や口にこそ出そうとしない純真で素直な面も持ち合わせているようである。
鼓動の音がますます激しさを増し、身体の芯が熱くなるような感覚に襲われながらも、またどこか冷静に、俺はこの状況を分析していた。
だいたい出発してから15分ほど経った頃だろうか。
友紀が右手の人差し指で俺の肩をツンツンと刺して、俺に声をかけてきた。
「どうしたんだ?」
「…あそこのコンビニ寄ってくれない?」
「なにか、用があるのか?」
「ア、アイス買いたい…」
「ふぅ。家に着いたら、かき氷くらいは出してやるぞ?」
「…うん。じゃあかき氷でいいよ」
「よし、わかった」
とまぁ、こんな具合にポツリポツリと会話を交わしながら約20分ほど走った辺りで、俺は自転車を止めた。
ようやく家に着いたのだ。
友紀を降ろした俺は、自転車を駐車場に突っ込んでシャッターを下ろした。
「こんな高級住宅街にこの大きさの家を持ってるって、ご両親はなにやってるの?窃盗団?」
「なんで窃盗団って話しになるんだよ。両親は俺が2歳の時に離婚して、親権を持っている母親と2人で暮らしてる」
「そうなんだ」
「母親は元メガバンクの行員だ。ただし、俺を産んだ時に辞めている。今はスーパーでパートをしてるぞ」
「結局今の説明じゃ、この土地の出どころは不明ね。やはり夜は窃盗か…」
「そうではなく母方の祖父が、この辺じゃ有名な宮大工だったんだよ。なんでも当時としてはかなりの富を築いたらしいけど、糖尿病で若くして亡くなったそうだ」
「なるほどね。派手すぎず、しかし所々に趣向の凝らされた趣味のいい外観ね」
「そりゃどうも。まあ寸評はいいからとりあえず入ってくれ」
「おじゃましま〜す」
「母はパートで当分帰ってこないから、ゆっくりくつろいでくれ。廊下をまっすぐ行って、2個目の階段を上ったら、右手にあるのが俺の部屋だ」
「わかったけど、普通一軒家に階段は何個もないからね」
コクリと頷いて前へ前進する友紀の後ろ姿を見ていた、俺は聞きそびれていたことがあったことを思い出した。
「あぁ、そうだ友紀」
「なに?」
「かき氷の味はなにがいい?」
「選べるほどたくさんあるの?」
「まあな」
「…じゃあ!オレンジーーー」
「オレンジはない」
「…何があるの?いや、何ならあるの?」
「まあ、そう怒るな。メロン、いちご、ブルーハワイ、カルピス、ドリアン」
「気いたこともないドリアン味が気にはなるけど、かと言って食べたくはないから、メロンをお願い」
「わかった。すぐ行くから待っててくれ」
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「うぅ〜、頭が痛い」
「急いで食べるからだ」
俺が運んできたメロン味のかき氷を黙々と食べていた友紀は、頭を抑えて側にあったベッドに顔を付けた。
「それで、わざわざウチにかき氷をタダ食いしに来たわけじゃないと言うなら、そろそろ本題に入らないか?」
「では、そうしますかね」
封筒から2〜3枚の紙と、タブレット端末を取り出した友紀は端末の元電源を入れてから紙を俺に一枚ずつ丁寧に見せた。
「なんで、タブレットの元電源切ってんだ?スタンバイモードにしておけばいいだろ」
「それが…昨日充電し忘れて、もう8%しか充電残量が…」
「はぁ…なにやってんだかな」
「うるさいな!これを見なさい」
電源のついたタブレットのロックを解除した友紀は、画面を俺に見せた。
「俺が三週間の間成りすます亡霊のデータか?」
「そうよ、”桐谷修也”くん。呼び名は今まで通り”シュウ”でイケるわね。」
「お前の仮初めの名前は?」
「”赤貝柚木”よ。仮に、いつものクセで呼んでしまっても大丈夫なような名前にしたようね」
「では、いつも通り”ユキ”と呼ばせてもらうぞ。”赤貝”さん」
「それはいいけどシュウ。今からタブレットのデータをあなたに渡すから、誕生日等の個人情報を今から叩き込みなさい」
「わかったよ。しかしまぁ、よくもここまでやるもんだな。どうやったんだ?」
「証人保護プログラムは知ってるわね?」
「アメリカ合衆国で導入されている保護制度だな。公の場で証言等の発言をした人間を保護するために国がパスポートや運転免許証まで作り変え、国家最高機密での居住によって別人としての人生を送ることになるとか何とか」
「そう、それ。それと同じシステムらしいよ」
「日本に証人保護プログラムはないのに?」
「ということになっているわね。実際問題として、日本国内において証人保護プログラムを行使された人間は10人にも満たないんだけど、居ないわけではないのよ。まあもっとも、国民には『日本に証人保護プログラムなどない』という共通認識が浸透している方がより、証人保護プログラムの効力は増すわけだし、ある意味良いやり方なのかもね。ちなみにこれは、参事官談よ」
「で、なんだあれか。俺たちはわざわざこの調査のためにここまでされたって言うのか。もうアレだな。文科相の調査をさせるついでに、証人保護プログラムの精度を上げるための実験台として俺たちは使われているとすら考えられるな」
「あるいはその逆かもよ〜」
「薄気味悪いこと言うなって」
「まぁ、何にせよ。これ程の厳重な工作作業を行ったうえで、さらに愛知県まで出向いての調査なら、調査終了後のトラブル発生確率も限りなくゼロに近づくってものよ」
「俺たちはどこに泊まるんだ?まさかここまでしておいて、シティホテルで〜すなんていう間の抜けたことしないよな」
「だから、シュウも私も汚ったないボロアパートよ。流石に同じアパートにする訳にはいかなかったけど、なるべく情報交換がしやすいように近距離に家を構えたそうよ」
「ボ、ボロアパートか…。ゴキブリとか出ないかな…」
「やめてよ、虫は苦手なんだから」
「同感だ」
「明日の朝の便で、東京からは三週間のお別れです。これが航空券。空港で朝待ち合わせをしましょうね」
「あぁ」
改めて、こうして綿密な打ち合わせをしていると、なんだかんだいって緊張感が出てくるというものだ。
しかし、これがまたとてつもなく楽しい。
今まで、俺は何か一つの目標に向かって努力といった類のものをしたことがなかった。
やれ『これ程優秀な成績を収めるにはかなり努力なさったのではないですか?』だの、『これほど熱心に勉学に励んでいるお子さんをお持ちで羨ましいです』だのと親子共々寝言を言われ続けてきた。
が、俺はそもそも勉強と呼べる勉強をしたことがない。
いや、まあ生きていることが勉強だと言われればしている…がハッキリ言って一度聞いたことは余程嫌いなことか興味がないことでもない限り忘れはしない。
もちろん、人間としての機能がしっかり備わっているため、覚えておきたくもないような忌々しい記憶の類は抑圧によって掻き消される。
しかし、学いうものを努力によって身に付けた覚えがない。
といった具合に努力を経験したことがない。
元々嫌いなことは努力しないタチであるし、人間として生きていくうえで最低限必要な努力である勉学に努力を用いることがなかったのだから当然だ。
だから、苦労というものを経験したことがない。
親からも、『いったいどこの天才の遺伝子を受け継いだんだ』と本気で問われたことが二度や三度ではない。
いや、こっちが聞きてえわ。
だからなのか、人生山あり谷ありという言葉の意味がわからない。
わからないという表現は正しくないのかもしれない。
俺には、一生体験できないことだと思っていた。
今のところ、平野しか歩いていないからだ。
しかし、どうやらこれから俺が成そうとしていることには、山が現れそうだ。
なにせ、特殊な仕事だ。
知識量とかそういうことで片付かない問題も発生しそうで、むしろワクワクしている。
いい加減、予定調和な人生にも飽き飽きしていたところだ。
いや、それだけではない。
どうやら、赤貝柚木…いや、宮坂友紀は俺にとって今までの人生で一番大きな存在になるに違いない。
今まで、俺には頼れる人間など存在しなかった。
自分が頼られる側だったからだ。
自分についてこれる人間などいなかったからだ。
だが、どうやら友紀は今までの人生で俺が出会った人間たちとはいささか違う存在になりそうだ。
今のところ具体的に、友紀に何かを助けてもらった覚えがある訳では…ない。
だが、直感的にわかる。こいつは、頼れる相棒になり得ると。
乗り越えるべき壁と壁を越えるための相棒を人生で初めて手に入れた俺は、果たしてこれからどのような経験をするのか。
この仕事の先に何かを見出すことは出来るのか。
俺は今、初めて生きていることを楽しいと感じているかもしれない。