天寿を全うすると笑いが起きる〔ノンフィクション〕
故人が天寿を全うして亡くなった方であれば、葬儀は泣く者もほとんど無く終始穏やかにお別れの式は進みますが、ここに落とし穴ができるのです。
家族も弔問客も緊張感や悲しみが少なく、緩んでるんですね。
式中は静かにしていなければなりませんから眠くなったりするもので……。
お坊さんのお経が有り難くなってしまって、ぽや~んとしてきます。
マズイ、マズイ!
お経の終盤には、一人づつ焼香しなければなりませんので背筋をピンと伸ばした時でした。
隣りに座っていた殿方の顔が少しこちらに近づいたような?
「あの、カチューシャお似合いですね。とてもよく似合ってます」
内緒話のように囁くバリトンボイス。
へ? 何? あ、黒いカチューシャね。これは髪を結わえるゴムが見当たらなかったので、急遽見つけ出した100均のですが?
あれぃ? も、も、もしかしてーっ!!これってナンパですか?
隣りのおっさん、もとい、殿方いったい誰?顔を横に向ける訳にもいかず、目を動かせば痩せ形40後半のちょっと良い感じではないか。
ありゃ~~、葬儀の後お茶に誘われちゃったらどうしましょう! 久々のドキドキ感にすっかり眠気が吹っ飛びました。
取りあえず、褒められたのですからお礼をば。
「ありがとうございます」
やんわりとモナリザのように微笑む私。うん、気持ち悪い。
案内のお姉さんにご焼香に並ぶように促されまして、未亡人のような気分に浸りながら、後ろにナンパ殿方の視線を勝手に感じて順番待ちをしている最中も、自意識過剰の私は、知り合いが多いこの葬儀で殿方の誘いをどうしようか?などと焼香の列に立ちながら考えていると、故人の遺影と目が合い「すいません」と謝るのでした。
いかんぞ、ドラ!にやけては故人に失礼ではないか、ここはしっかりお別れをせねばっ!
二列になって進みます。
すぐ前の列には親戚の伯父さんがいて、順番が回ってきました。
伯父さんは喪主に頭を下げ、焼香台に進みます。
次に控える私は真顔を取り戻し、お別れの気分を高めます。
シーンと静まりお坊さんの読経だけが会場内を満たす中、場にそぐわない大きな声が響きました。
「あぢっ!!」
伯父さんの右手がバネの如く跳ね上がっています。そうです、煙りの出ている方に指を突っ込んでしまったのです。
一瞬クスッと、あちこちから聞こえましたが、その後は咳払が式場を埋めます。
煙りでむせているのではありません。そう、笑いを我慢すると皆さん咳払いで誤魔化すんですね。
式場内の参列者の多くが風邪をひいてしまったようです。
伯父さんは挙動不審になってしまい、手と足を一緒に出しながら喪主の前まで行きお辞儀をしました。
可哀そうに、喪主さんと奥様は下を向いて苦しそうに顔を歪めています。腹筋が痛いでしょうね。
お笑いのネタでは聞いたことがありますが、本当にやった人を初めて見ましたよ。
絶対に笑っちゃいけない場面で笑いを我慢するのってかなり辛いものがあります。
幸い私はハンカチを握っていましたので口元を隠し、ハンカチの中で歯を出して笑っていました。
そしてナンパの余韻も吹っ飛び葬儀は終わり、ナンパ殿方の姿は跡形もなく、私は後ろを振り返りながら家路に着いたのでした。
不謹慎ですがちょっと残念だったのは、言うまでもありません。