56 慟哭して絶望して
引き続き、白慧のお話。
ああ、何故。何故、彼女は来ない。
何故、何故、小夜。僕はここに、社に居るよ。
君を待ってる。
小夜にばかり負担を掛けている。
小夜の暮らす村より離れた、この社に会いに来て貰うばかりで、こちらから会いに行く事は出来ない。
自分の身勝手な願い、身勝手な望みだと、白慧は分かっていた。
それでも、会いたかった。
会いに来て欲しかった。
「っ……ああ、小夜、会いたいよ」
胸が締め付けられる感覚。
知らなかった感情。
自分はこんなにも……。
白慧は社から、今直ぐ駆け出したい衝動を押し殺し、それでも尚、小夜を待った。
一日、二日、三日、四日────彼女は現れない。
激しい雨の日から、小夜が白慧に会いに来なくなって、一ヶ月の時が過ぎ、ついに、白慧に我慢の限界が訪れる。
小夜、僕が間違ってた。
今から、会いに行くよ。
白慧は社を抜け出し、小夜の村へと駆ける。
祀る神の居なくなった社は、一時的に水神の加護を薄れさせる。
周辺の、水害への抑止力が軽減する。
大丈夫。小夜を一目見たら、直ぐに戻るから。
雨は止んだから。大丈夫。
白慧は自身にそう言い聞かせて、駆ける足を早めた。
木々の隙間を抜けて、ただ彼女の元へ。
暫くして、辿り着いた村は、思ったよりも小さな集落だった。
「小夜っ……! 何処っ?」
村の中を人を探して回る白慧を、村人は時折怪訝そうに見つめるが、別に武器を所持してる訳でもない、丸腰の白慧に取り立てて騒ぐ事もなかった。
白慧は村人達の視線も気にせず、小夜を探す。
「! 小夜っ……!」
ついに視界が愛しい彼女を捉え、その名を呼びながら駆け寄る。
走り回ったせいか、僅かに呼吸が荒いがそんな事は気にしなかった。
白慧が駆け寄ると、小夜は首を傾げて振り返り、白慧を視界に入れる。
「小夜っ! 急に押し掛けてごめんね? でも……どうしても君に会いたかったんだ」
白慧は自分が社を離れられないと言った手前、少々ばつが悪かったが、意を決したように正直な気持ちを告げた。
目の前の小夜は、目を瞬かせ、白慧を見つめる。
そして────
「誰? どちら様、でしょうか?」
ただ首を傾げて、彼女はそう白慧に問い掛けた。
白慧の頭を、鈍器で殴られたような衝撃が走る。
一瞬、意味が分からなかったのだ。
彼女は今、なんと言った?
驚愕に目を見開き、白慧は小夜を凝視し、掛ける言葉を、彼女の真意を確かめられる言葉を探した。
「あの、何処かでお会いした事がありましたか?」
次の言葉を探す白慧に、追い討ちを掛けるように告げられた言葉には、戸惑いが含まれており、それだけで小夜の言葉が、冗談ではない事が分かった。
小夜の言葉が、鉛のように重くのし掛かり、心を沈めてゆく。
「っ……人違い、した、みたいだ。ごめん、ねッ……!」
どうしていいか、なんて白慧にも分からなかった。
ただもう小夜の、自分は知らない誰かだと言う対応を、見ていたくなくて、聞いていたくなくて、白慧は早口に告げ、その場を駆け出した。
後ろから「え、あ、待って!」と引き止める小夜の声に、白慧は聞こえない振りをした。
駆け出す足は、止めない。
早く早く逃げ出したかったのだ。
愛してやまない彼女の口から零れた絶望は、白慧の心をズタズタに引き裂く。
頭は疑問と困惑でぐちゃぐちゃ。
膜を張る瞳は、知らなかった感情を白慧に伝える。
苦しい。胸が苦しい。
痛い。胸が、痛い。
息の仕方さえ忘れてしまったように、引き吊る喉に白慧は辛そうに顔を歪める。
どれくらい走ったかなんて、分からない。
ただ、逃げ出した。
誰もいない、遠くへ。
神と人の恋路など、端から叶う筈もなかった。
何せ、自分は蛇神なのだ。
だから、小夜は自分を忘れてしまったのだろうか。
神として、強すぎる力は、もしかしたら小夜に悪影響を及ぼしたのかもしれない。
だから、小夜は自己防衛的に自分を忘れてしまったのだろうか。
脳内を解決しない自問と、それに伴う自答が巡る。
ただ、分かるのは、何も分からないと言う事だけ。
何故、小夜は自分を忘れてしまったのか。
言い様のない感情に、ぶつけ所のない想いに、白い蛇の神様は、誰にも知られず、ただ孤独に嗚咽した。
そうして、慟哭を癒すように、白慧は一ヶ月と言う期間を、現世から隠れてしまう。
胸中を渦巻く淀みが、己を、周囲を呑み込まないようにと。
それにより、白慧自身が害にはならなかったが、主を失った社は加護を日に日に薄め、間が悪く近隣の村々は水害に襲われた。
現世へと戻ってきた白慧の瞳に映ったのは、人の気配のしない、無惨に壊れた村々。
幸いな事は、とある者による避難誘導により、人的被害がなかった事であろうか。
けれど、あるすれ違いにより、その事実を確認出来なかった白慧は、自らを呪った。
僕は水神だ。
ここらを水害から守る為に、自らの加護で辺りを包み、見守るのが僕の役目だった筈だ。
なのに、僕は何をやっているのだろう。
白慧は虚無感と喪失感に、ただ打ち拉がれる。
止められなくなった感情は、絶望は、更に加護を微弱にし、白慧は忘れられた神様になった。
廃れた社の中で孤独に、ただ一人の少女を想いながら、自らの消失を待つ儚神。
そして、神格が零れ落ちてゆくのを感じながら、白慧は思ってしまった。
「何故、何故、僕はただ……君の傍に居たかっただけだ。ああ、憎い。妬ましい。幸せに笑う、あいつ等が。僕の手に出来なかったものを持っている奴等が……」
初めて知った愛情は、痛みとなり、心に刻まれた。
制御の利かなくなる感情は醜い劣情と化し、幸せな誰かを呪う。
憎みたくとも憎めない彼女の代わりのように、抑えも利かず、激情のままに幸せそうに並ぶ妖怪と人間の仲を引き裂いた。
人間と妖怪が幸せになれる訳ないでしょ?
尤もらしい、言い訳を付け、身勝手な嫉妬も、身勝手な八つ当たりも、隠して。
ああ、この胸の痛みは……誰のものだったか。
止められない憎悪。止まらない憤怒。
こんなもの、知らなかったのに、と自分が自分でなくなるような感覚に囚われながら、白慧は感情に身を任せた。
何もかもが、どうでもいいような気がしたのだ。
全ては身勝手な自分が悪かった。
そんな事、理解している。
けれど、分かっているのと、止められるかは別の話だった。
知らない感情を詰め込まれた、傲慢で嫉妬深い神様の過ち。
これが、白慧が堕ち掛けた経緯であった。
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これにて、白慧メインの追憶が終了です。
次回からまた別の人にスポットライトが向きます。




