55 かなしい追憶
今回は視点変更しまして、白慧のお話になります。
「 神議りに議り給ひて。我が、皇御孫の命は、豊葦原の瑞穂の国を。安国と、平らけく、領ろし召せと、言依さし奉りき」
鎮馬の唱える大祓詞が、何処か凛と響く。
自らの穢れを祓わんと紡がれるその言葉を、白慧は静かに聞いていた。
これが全て、彼女の思い描いていた結末ならば、大したものだ。
そう、白慧は思う。
「あ、ははは……あぁ、あぁ……縁子の言う通り、だったね」
うっすらと開ける瞼。
細目に見つめる夜の空に、あの光り輝く遠くの星に、今ならば手が届くような気がして、白慧は手を伸ばす。
自嘲気味に小さく笑い、彼女との会話を思い出しながら、呟く。
小さく、鎮馬の声に掻き消されるような声で、誰にも気付かれる事なく。
届く筈のない手は、伸ばされたまま、虚空で一瞬停止した後、落ちるように顔を覆う。
穢れが徐々に浄化されてゆくのを感じながら、白慧は追憶した。
「私には貴方を倒すのも、懐柔するのも無理そうだわ」
当時、若く全盛期であった綾部縁子は一度だけ、白慧と対峙した事があった。
その時に、告げられた言葉。
絶望し、後は堕ちるだけの白慧に、植え付けられた希望。
「随分と諦めが早いね、安倍の陰陽師」
数度、得物をぶつけ合い、直ぐに諦めたように言う縁子に、白慧はつまらなさそうに告げる。
「ふふ、いいのよ。だって、きっとね、私の孫が貴方を連れ出すから」
「! 先見の明?」
「どうかしら?」
興味がなくなったように自らを見つめる白慧に、縁子は笑う。
そんな縁子を、白慧は訝しげに見つめたが、縁子は何処吹く風で、そう曖昧に返し、踵を返す。
言葉の真偽を確かめようと、白慧は縁子の後を追ったが、白慧が縁子を引き止める事は出来なかった。
先程まで行っていた攻防が嘘のように、自分が優勢だったのが嘘のように、縁子は捕まらず、素早く、白慧の元を去ったのだ。
「彼女の言う通り……結果的に君は……」
──君が、僕の救いになる。
縁子に、端から仕組まれたような気がして、少々苛立ちを感じはする。
けれど、縁子の言葉を、半信半疑に拐った鎮馬は、確かに白慧の欲しいものを持っていた。
白慧の欲しかったものを与えた。
ずっと、ずっと、止めて欲しかった。
後戻りなんて出来ない程に、汚してきた道をただ進む事しか出来ない自分を。
ただ、否定して欲しかった。
間違いだと気付きながらも、さも正しいように振る舞う自分を。
白慧は憑き物が落ちように、乾いた笑みを零す。
そして、堕ち掛けても尚、完全に堕ちる事を拒み、躊躇した記憶を思い起こした。
縁子と対峙した頃よりも、もっともっと遠い、昔の事を。
自分がこうなる切っ掛けであり、自分が踏み止まった理由。
あれは、酷い雨の日だった、と白慧は記憶している。
道にでも迷ったのか、亜麻色の髪の少女が、森の深くの白慧の社へ雨宿りに来た。
少女は、全身びしょ濡れで社の屋根の下に座り込み、時折身体を震わせては「くしゅっ」と小さくくしゃみをする。
「……傘が、ないの?」
「誰……?」
ほんの気紛れであった。
いつもは、参拝者を遠くから見守っているだけであった白慧は、その日、気紛れに姿を現し、少女に声を掛けた。
少女は不思議そうな表情で、白慧を見つめ、ただ首を傾げる。
「傘がないならあげるよ。僕は使わないから」
白慧は、不思議がる少女を他所に、そう番傘を差し出す。
少女は困惑したように、眉をハの字に下げる。
「頂けません。それでは、貴方の傘がなくなってしまうじゃありませんか」
少女は困惑した表情とは裏腹に、凛とした声で断りを入れる。
受け取って貰えないとは思わず、白慧は目を瞬かせた。
「何故? 君には必要だけど、僕には必要ない物だ。だから、君に上げると言っている。なのに、何故受け取らないの? 僕は濡れないから、構わないよ」
今度は少し強引に、番傘を押し付けるように差し出す。
けれど、やはり少女は受け取らない。
「濡れない訳ありません! こんなに酷い雨なのですよ?」
「濡れないものは濡れない」
「いいえ、濡れます!」
「濡れない」
「濡れます」
「濡れない!」
「濡れます!」
──僕は何をやってるんだ。
互いに一歩も譲らない押し問答に、押し合う番傘。
白慧は自分は何をしている、と何処か馬鹿らしくなって、溜め息を吐いた。
そうして、先に折れたのは白慧。
「勝手にしなよ」
そう言い、自らの紺色の羽織を少女に投げ付け、「傘は置いて行く」と、少女の近くに傘を置き、社の中へと姿を消す。
後ろから「待って」と、少女から声が掛かるも聞こえない振りをした。
翌日、晴天。
再び社を訪れた少女は羽織と番傘を持って、白慧を探していた。
白慧はまた気紛れに姿を現し、それを受け取る。
「ありがとうございました」と、花が咲くように笑った少女に、白慧の気分は不思議と向上した。
その翌日も、何故か少女は社に現れた。
その後も、その後も……。
少女は毎日毎日、白慧の元へと通った。
いつの間にか名を呼び合う仲になり、少女が小夜と言う名である事を、白慧は知った。
互いに、互いを知るように、毎日、他愛のない会話を行う。
互いに惹かれ合うのに、そう時間は掛からなかった。
「白慧さんは、神様なのですか?」
ある日、小夜は白慧に問い掛けた。
毎日、社に居て、社の中に帰って行く白慧に、会話の節々にある違和感に、抱いた疑問。
何処か遠い存在のような、何処か自分とは違う白慧。
何処か神々しくて、眩しくて、本当なら会話すらして貰えないような、手なんて届きそうにない人。
小夜は、白慧にそんな印象を抱いていた。
「そうだよ、だから僕はここを離れられない。僕は蛇神だけど、水神でもあるから。僕が離れて、ここらが水害に合ったらいけない」
「やはり、そうですか。白慧さんって、凄いのですね。あ! 白慧様、って呼んだ方がいいでしょうか……?」
「何、今更……そのままで、呼びやすいように呼べばいいよ」
別段、隠していた訳でもなかった事実を、白慧は至極あっさりと口にした。
小夜は特に驚いた様子もなく、変わらない笑みを浮かべる。
この娘は自分を遠ざけない。
きっと、自分の近くに、側に居てくれる。
根拠のない自信が、白慧の中にはあった。
故に、彼女が離れていく事など、微塵も思わなかった。
微塵も、考えていなかった。
月日は過ぎる。
色付く紅葉。降り積もる白雪。
咲き誇る桜の花。響き渡る蝉の声。
季節は巡ってゆく。
神と人。違う身でありながらも、二人の心は少しずつ距離を縮め、寄り添い合う。
愛を囁く事はなくとも、抱く感情は確かに恋であった。
酷く純粋な情愛。
他愛ない会話に花を咲かせ、笑い合う。
ただ側に居るだけで、二人はそれだけで良かった。
それだけで、幸せだった。
白慧と小夜、二人の逢瀬が、丁度一年を迎える頃、唐突な転機が訪れる。
望む事など、なかった変化。
白慧の心を暗く淀ませ、歪める結果になった出来事。
その日は、白慧と小夜が出会った日と同じ、酷い雨であった。
ザァ、ザァ、ザァ──地面を激しく打ち鳴らす雨音を聞きながら、白慧は一人、社の中で愛しい彼女を待っていた。
毎日、毎日、欠かさずに、動けない自分の代わりに会いに来てくれた彼女。
いつもならば、疾っくに姿を現している時間。
けれど、その日は待てども待てども、小夜は現れなかった。
きっと、雨が酷過ぎるせいだ。
白慧は少々彼女の事が心配になったが、自分の中でそう結論付けると、日が落ちて夜になる様を見つめ、眠るように瞼を閉じた。
翌日。日が上がり、朝になる。
けれど、直ぐに太陽を雨雲が遮り、曇天が大地を見下ろす。
白慧はいつものように縁側に座り、彼女の訪れを待った。
きっと、今日は彼女が会いに来てくれるだろう。
今にも泣き出しそうな空を見上げて、白慧は思う。
「小夜……」
思わず、口からは愛しい彼女の名前が零れ落ちる。
刻々と時間は過ぎてゆき、もう直ぐいつもの時間だ。
白慧はただ彼女を待ちながら、鳥居を見つめる。
「また、降るの。今日も……」
ぽつ、ぽつ、ぽつ──雨が降り始める。
最初は小さく、徐々に大きく、雨音が響く。
白慧は憂鬱げに顔を伏せた。
いっそ、この雨を止ませてしまおうか。
水神たる、この力で。
頭に浮かんでくる思考。
……駄目だ。
妄りに、雨を止ませれば、人の子等が、動物達が、大地の恩寵を得られなくなる。
白慧は自らの脳裏に浮かんだ邪念を振り払うように、頭を振った。
やはり、小夜は現れなかった。
日が落ちて夜になり、日が上り朝になる。
雨は時折小雨になるも、降り続く。
白慧はただ静かに、小夜が現れるのを待ち続けた。
眠る事もなく、休む事もなく、ずっと、冷たいこの縁側で、ひとり。
雨が降り続けて、丁度五日後、やっと雨は止み、晴天が顔を出す。
白慧はやっと彼女に会える、彼女が会いに来てくれる、と期待に胸を膨らませて待った。
……けれど、今日も彼女は現れなかった。
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少し長くなったので、一回切ります。
白慧のお話はもう少しだけ続きます。
そして、この回で明かされましたが……主人公が拐われる切っ掛けはまさかの祖母なのでした(笑)




