51 引き留めるように小さな黒翼は語る
まーさんの背に揺られ、一歩一歩遠ざかる社。
生徒会組と入れ違いになりそうだ、とぼんやり思考する。
そんな中、唐突に鋭い音が鼓膜を震わせた。
「っっな、に……?」
バリィン──何かが弾ける音。
窓硝子に野球ボールでもぶつかり、割れてしまったような、そんな音が脳髄に響く。
「鎮馬、逃げるぞ」
まーさんが警戒を含んだ低い声で言うが早いか、駆け出す。
急速に過ぎ行く景色の中、私は一瞬訳が分からずに、後ろを振り返る。
そして、私は、私の視界は確かに、崩落する透明な壁を捉えた。
硝子の破片のように、ばらばらと宙に散らばり落ちてゆく、結界だったもの。
仄かな月明かりに照らされながら、白蛇神の社の結界が、意図も容易く崩壊した。
生徒会? シナリオ通りに社に来たの?
いや、違う。
これは、外部から壊されたんじゃない。
直感的に、生徒会がした事じゃないと、違うとそう思った。
これは、まるで術者が力を失って壊れたみたい。
術者が何らかの要因から、耐えられずに、結界を維持出来なくなったみたい。
内部からじんわりと侵食されて、少しずつ消えていくような、そんな壊れ方。
まさか、白慧がもう堕ちた……?
こんなにも早く、彼は自らの闇に呑まれたのか。
「っ……随分、気付くのが早ぇじゃねぇかぁ!」
私が壊れた結界に気を取られ、背後ばかり見ていると、前方から新垣先輩の不機嫌そうな声が響き、慌てて顔を向き直す。
構えるように立ち止まった三人の前方に、羽音を立てて小柄な黒が降り立つ。
襟足のみを結んだ、短めの黒い猫っ毛に赤い瞳。
背には烏天狗より幾分か小さな黒の翼があり、何処と無くまだ幼さの残る中性的な面立ち。
格好は、黒の立烏帽子に、水干、 頸かみの緒 、袴、単に、水干の袖括りの緒と菊綴──後者二つのみ赤色だ──。
これに下げ髪と丈長、蝙蝠、 錦包藤巻の太刀を足したら色違いの白拍子衣装になるだろう。
そんな出で立ちの少年が、身の丈程の薙刀を構え、こちらを見据えていた。
彼は、何の妖怪?
ゲームには多分、出てない筈。
私は彼を知らない。
「行かせない。逃がさない。白蛇神には綾部鎮馬が必要」
彼は此方を真っ直ぐに見つめ、そして静かに告げる。
何処か厳かに、凛と。
そんな事言われたって困る。
白慧が今、必要としているのは北条さんであって私じゃない。
私には、白慧の望む答えも、結末も与えられない。
「このままいけば、白蛇神は堕ちて堕ちて、もう戻れない。貴女は、それを望む? 貴女なら変えられる未来を、貴女は放棄する?」
「何を言っておる」
「北條満月か、綾部鎮馬か。その二人だけが、白蛇神に影響を与えられる可能性」
訝しげに睨むまーさんに構わず、彼は続ける。
淡々と紡がれるその言葉は、私の鼓膜を揺らし、脳髄をも揺らす。
今直ぐ逃げ出したかった。
私がここに居ても、何も出来なくて、殺されるだけ。
そう、思っていた。
「けれど、選ばれたのは貴女で、この場に居るのも貴女」
思っていたのに、黒い彼の言葉を聞く度に、心がざわつく。
落ち着かない。落ち着けない。
急激に上がる心拍数。
言い様のない不快感が身体中を駆け巡り、頬を嫌な汗が伝う。
「逃げる? それが、白蛇神を見捨てる選択になっても?」
黒い彼の言葉が、鋭利な刃物のように突き刺さる。
逃げる。見捨てる。
確かに、そうだ。
北條さんの代わりに連れて来られたのは綾部鎮馬で、白蛇神が必死に藻掻いて、手を伸ばしているのを、知っているのも、答えを求められたのも、私だ。
ここには、北條満月は居ない。
居るのは、綾部鎮馬だけ。
──じゃあ、誰があの哀しくも歪んでしまった白い蛇を救うの?
誰がその声を聞いて、誰がその手を掴むの?
「うるっせぇ!! グダグダと意味のわかんねぇ事並べてんじゃねぇよ! 誰かに頼らなきゃ堕ちる神なんざ、さっさと堕ちちまえばいいだろうがぁ!!」
何かを紡ぎたくて、震わせた咽喉は何の言葉も吐き出せなくて、その代わりのように、新垣先輩の怒声が響いた。
自分の事しか考えられなくて、白慧の事なんて想えない頭が、真っ白になる。
考えれば直ぐに分かった事なのに。
「何故、被害者が誘拐犯を救わねばならん。力ある神であるなら、自らの責くらい自らで負え」
「わちき等の優先順位は無論、鎮馬じゃ。白蛇神が堕ちようが、知った事ではない」
まーさん、こーちゃん。
ねぇ、私がここから逃げたら、どうなるんだろう。
白蛇神が堕ちて、そこに生徒会が来て、きっと呪詛を貰うか、穢れに引き摺られるか。
逃げてしまえば、私には何ら影響がない。
死なない。傷付かない。
逆に逃げなければ、私には多大な影響がある。
秘密の露見。死亡フラグ。
「……犬は、吠えるから嫌い」
黒い彼が目を細めたかと思うと、地を蹴り、一瞬で間合いを詰め、新垣先輩に向けて薙刀を振るった。
新垣先輩は寸での所でそれを躱すと、薙刀の柄を握り、カウンター宜しく黒い彼の首元目掛けて回し蹴りを入れる。
その頭と臀部には、ふさふさの耳と尻尾。
攻撃された拍子に妖気を解放したのか、人狼の証が揺れる。
「退け」
黒い彼は薙刀を握る手を片方離し、空いた片手で蹴りを受け止める。
次いで、冷ややかな声と共に、黒い翼を羽ばたかせた。
黒い羽根が、はらはらと舞い落ちる。
あの、羽根……。
新垣先輩が危機でも感じたように、慌てて飛び退く。
黒い彼は「暗闇、惑え」と再び目を細めた。
「テメェ、くっそ……!!」
新垣先輩が忌々しげに吐き捨てると、乱暴に左目の辺りを拭う。
まるで、目にゴミでも入ったような、急に視界不良に陥ったような、そんな感じに。
……ああ、もしかして、黒い彼は──夜雀?
黒い彼に視線を向けると、彼は僅かに口元を上げた。
そして、その闇色の翼を再び羽ばたかせる。
今度はもっと大きく、周囲を自らの領域に塗り替えるが如く。
真っ黒い羽根が、幻想的に舞う。
「忌々しい。お前さん、夜雀か」
「小賢しいのじゃ。炎天連舞」
まーさんが黒い彼を睨み付けると同時、こーちゃんが袖口からまーさんとお揃いの扇子を取り出すと、広げたそれに妖気を灯し、片手に構えて軽やかに回転。
最後に下から上へ、何かを浮き上がらせるように振ると、周囲を舞っていた羽根が燃え上がり、一瞬で灰に変わった。
流石は我が神社の神使様である。
「炎も、嫌い」
「お前さん、何故白蛇神に加担する?」
「全ては、予定調和。必要事項」
まーさんの問いに暈かしたような回答の後、「もう目的は達成。綾部鎮馬を誘導出来なかった代わり、白蛇神の方が来る」と笑った。
瞬間、ぞくりと背筋に悪寒が走り、思わず、まーさんの名を呼ぶ。
「……堕ちかけが」
まーさんは顔顰め、夜雀と後方を警戒するように窺う。
暗く濁った気配が、ゆっくりと此方へ。
空気が澱み、木々がざわめき出す。
前方、行く手には夜雀。
後方には、多分、白い蛇の神様。
「逃がさない」
「ちっ……さっさと退けぇ!!」
夜雀が私達を通せん坊するように、薙刀を構え直す。
今度は新垣先輩が、焦れたように地を蹴る。
濁った白慧の神気は、尚も近付く。
「まーさん、私は」
「鎮馬や、絶対に堕神に関わってはならん」
そうだよね、堕神には関わっちゃいけない。
私はこのまま、逃げるしかないのだ。
死亡フラグを立てない為に、私の正体がバレない為に。
痛いと、心で泣いている白い蛇を置き去りにして。
視界の端で、新垣先輩と夜雀がぶつかる。
先程の失態が利いたのか、新垣先輩は器用に夜雀の羽根を避けながら、交戦していた。
「狼よ! そのまま其奴を抑えて置け! わし等は先に行くぞ!」
「はあぁ?! ふざっけんなよ、狛犬共ぉッッ?!!」
まーさんが「っしょ」と、私を背負い直すと、新垣先輩に言葉を伝える為に叫び、駆け出す。
新垣先輩から抗議の声が上がるも、こーちゃんにより「大真面目なのじゃ! 後は任せたのじゃ!」と良い笑顔で返されていた。
けれど、事はそう簡単にはいかない。
「小眞!」
「失せよ! 紅玉!」
夜雀と新垣先輩の横を通り過ぎた所で、木々を音を立てて揺らし、鎌首をもたげた大蛇が、学校で見た白慧の眷族が二匹、こちら見据えたかと思うと、大口を開けながら、左右から此方へ飛び掛かる。
立ち止まり、僅かに後退しながら、まーさんがこーちゃんを呼ぶ。
こーちゃんは素早く私達の前に躍り出たかと思うと、閉じた扇子で右の大蛇の顎を叩き上げ、蹴り飛ばし、左の大蛇の口の中にバスケットボール大の火球を放り込む。
火球を飲まされた大蛇は、まな板の上の魚のように地面をのた打つ。
「あ……」
木々が揺れる。揺れる。
二匹倒した眷族に続いてもう一匹、もう一匹と何処からともなく、私達の行く手を遮るように現れ始めた大蛇。
白慧の気配が更に近くなる。
「鎮馬や、歩けるか」
「……頑張る」
流石に私を背負ったまま、突破するのは難しいと判断したまーさんが、私を下ろす。
眩暈も身体の痛みもあるが、我慢出来ない程じゃない。
足は動くし、手も片手ならいける。
うん、大丈夫。
「! 伏せろ、綾部鎮馬!!」
三人ではなく、誰よりも早く、何かに気が付いた夜雀の声が飛んだ。
その声に驚愕し、転んだ私を目を見開いたまーさんが「伏せよ! 鎮馬!」と、珍しく狼狽したように、押し倒す形で無理矢理地面へ。
そうして、私の視界がまーさんとお月様に変わった瞬間。
「薙げ」
酷く冷ややかな声が、辺りを支配した。
白慧? 多分、白慧の声。
「蒼刃・円舞」
次いで、更に声が聞こえて、何かが、鋭利な何かが私達の真上を、凄まじい勢いで通過し、周囲、二メートル辺りが開けた。
一瞬見えたあれは、水?
私は視線を僅かにずらす。
切り倒された木々達は地に転がり、辺りには切り口の真新しい切り株だらけ。
主人の攻撃を避けきれなかった数匹の大蛇の切り離された首が、残された胴体が、血飛沫を上げながら、鈍い音を立てて地に落ちる。
白慧がやったの?
眷族ごと、私達を殺そうとした?
そして、視線の先に地に伏せ、様子を窺うこーちゃんに、同様の夜雀と新垣先輩を発見する。
こーちゃん等が無事な事に、思わず安堵の息が洩れた。
けれど、それも束の間。
「ねぇ、何してるの。鎮馬ちゃん、逃がさないよ? 僕から逃げられるなんて本気で思ってる? そんなに僕を失望させたいの? そんなに、死にたいの」
一瞬で、空気が凍てついたような感覚と共に、背筋を言い知れぬ悪寒が這いずる。
社のある方より、澱んだ空気を引き連れて現れたのは、本来白い筈の蛇の神様。
彼は暗い感情に支配されたように、底冷えするような声色で、そう呪詛のように吐き出した。
その金晴眼には、ただ私だけを捉えて。
ああ、頭が痛い。
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再び主人公とけも耳ーズのターンでした!
さて、そろそろ生徒会組が駆け付けるのか……。




