エピローグ
会社のトイレに入り、洗面所の鏡の前に立つと、俺、八月三十一日天仁は早速ネクタイを締め、その形を四苦八苦しながら整える。
――ネクタイは嫌いだ。
昔、俺が小学校に上がる頃に母さんを捨てた親父に、それで首を絞められたことがあったから。
高校の時は、先生に事情を説明して、なんとかネクタイ無しでも過ごせたが、社会人ともなるとそうはいかない。
会社の机でパソコンに向かったり、電話の応対をしたりする分にはまだノーネクタイでも済むが、現場仕事の際にはしっかりネクタイを締めなければならない。
しかも、俺の職業の『現場』というのは社会人にとっては最も正式な場面と言って差し支えのない舞台だ。
だから、普段かけている度入りのサングラスを外し、銀縁の眼鏡に替える。
――本来ならばサングラスをかけていたい。
最もそれは格好を付けたいだとか、サングラスが俺のポリシーだとか、そんな馬鹿げた感情から来るものではなく、単純に眼精疲労持ちで、それ専用のサングラスがないと視界にモノが映るという当たり前のことすらも地獄のように感じるという理由からだ。
さらに、その眼精疲労の所為で、それが無いと常にしかっめ面をしてしまう為、人に不快な印象を与えかねない。
しかし、元々ホストっぽいと顔立ちについて学生の頃から指摘をされていた俺がサングラスなどして正式な場に立っていたらそれこそ不快な印象を与えかねない為、そこは仕方ないと割り切ることにしている。
「おい! 早くしろ天仁ォ! そろそろ行くぞォ!」
――どうやら、ネクタイを締めるのに大分時間がかかってしまったらしく、会社の表の駐車場の方から社長の怒号が飛んできた。
早く行かなければならないと、俺は後ろ髪を適当にヘアゴムで結びトイレを飛び出し、社長が待つ駐車場へと駆け足で向かう。
俺は急いだ。
獅子奮迅の如く急いだ。
自分の身代わりとなったセリヌンティウスの元へと急ぐ、メロスの五割り増しくらいの速度で急いだ。
しかし――駐車場に着き、止めてある黒い軽自動車の側に立つ男――社長の側に寄ると、
「おっせェぞ!! 天仁ォ!!」
社長の怒声が、俺の鼓膜に炸裂した。
煙草を吸っていたのか、怒鳴り声を上げた勢いで、咥えていたそれが口から零れ落ちる。
俺よりも頭一つ分は背が低い中年男性ながら、声がデカイ上、強面で眼光が鋭い為、その迫力たるや凄まじいものがある。
それに気圧され、
「す……すいませんでした……。一社長」
思わず俺は社長に、一五郎さんに、深々と頭を下げる。
「テメェの所為でなぁ、通夜に遅れが出たらどうすんだぁ? タ・ッ・カ・ッ・ヒ・ッ・ロォォォ!?」
「め、面目ないです……」
俺の顔から5cm以内まで社長の顔が近づき、B29の焼夷弾投下の数倍は恐ろしい社長のお説教が、零距離射撃の形となる。
しかし、社長が怒るのは無理もないのかもしれない。
何しろ我が社に、一葬儀社に、馬鹿みたいに費用のかかる葬儀が舞い込んだのだ。
気合が入るのも当然で、それによって俺にとばっちりが来るのも仕方ないと思われる。
……少し理不尽だとも思うが。
「テメェの腹に入る飯も、香ちゃんとのデート代も、全部人がおっ死んで出来る金から出てんだぞ! 人が死ぬことで出来る金で暮らさせて貰ってんだからせめて気合入れろや、ボケェ!」
言い方は少し不謹慎だが、確かに俺や社長は人間にとっての終の行事である葬儀によって日々暮らしているのだ。
人生を全う出来たのか、まだまだ未練があったのかは別にして人死ぬことで発生する金を得る仕事をしている者としては、せめて誠心誠意をもって働くしかないだろう。
「心得ております」
俺のその言葉を聞くと、社長は
「なら良いんだ、ならな」
そう言って俺に頭を上げさせ、
「葉子さんと、他の連中がもう準備始めてる。さっさと行くぞ」
さっさと車に乗り込んだ。
俺も、それに続く。
俺はまだ車の免許を取っていないから、僭越ながら社長の運転である。
俺はシートベルトをつけると、何度も何度も深呼吸をし、覚悟をする。
そして案の定――爆音にも似た酷い空ぶかしと共に、車は発進した。
「ギャァァアアアアァァァア!!」
恐ろしく乱暴な右旋回、もとい右折。
『|富士急ハイランド《静岡が誇るテーマパーク》』の『化け物コースター』のそれを上回るかと錯覚する凄まじいGが俺の体にかかり、絶叫を上げる。
――勿論全て比喩であって、それほど社長の運転がお下手くそということだ。
「一々大袈裟なんだよテメェは!」
「大袈裟じゃないっす……、って、なんつー急加速ゥゥゥッ!?」
「あぁん!? 普通だろ、普通!」
「普通じゃねぇつー……ウワァァァアア!? 急カーブゥ!? ナンデ!? 急カーブナンデ!?」
――兎に角、不安定で危険な運転ではあったがいつも通り暫くして俺はなんとか馴れる。
吐き気もしてきたが。
「しかしよ、天仁」
「な、何ですか? 社長」
頼むから今は話しかけないでくれとも思ったが、社長に対して物申すのもどうかと思うので、なんとか嘔吐を抑えつつ、受け答える。
「お前がネクタイを締めるのに、その決心をするだけでも三十分以上はかかるのはいつものことだが、それにしても今日は長すぎだぞ」
――我ながら、決心だけで三十分、さらに締めるのに三十分かかるのはいくらなんでも長すぎだと思う。
そして理不尽ながら、俺に下らんトラウマ与えた親父死ねとも。
ネクタイを結ぶのに時間かかるのは、社会人としては結構致命的だ。
まぁ、今回はそのトラウマ以外にも色々ウダウダと考えすぎて、さらに二倍近く時間がかかってしまったのだが。
「すいません、社長」
「……なんかあったのか? 天仁」
こんな俺を雇ってくれだけでも感謝以外に術がないというのに、心配までしてくれる社長。
――嬉しさを感じる。
折角心配してくれているのだ。
ならば、言っておくべきだろう。
「今回俺らが葬儀を挙げてやることになった奴、いるじゃないですか」
「桐島瑠貴亜さんだな。この前の猟奇殺人事件でおっ死んだ」
「そいつ、俺にとっちゃ、敵も同然なんですよ」
社長の表情が、微妙に曇るのが見える。
「親友の好きだった人を自殺するまで追い込み続けて。その所為で親友は……」
俺がその先を言うのを躊躇ったので、
「言わなくていい。分かったから」
と、社長は俺を気遣ってくれた。
「俺、そんな敵の葬儀を、どんな気持ちで臨めばいいのか分からなくて……」
その言葉を聞くと社長は、
「普段通り、いっつも人ォ、送る時と同じ気持ちで良いんじゃねぇの?」
と答える。
「少なくとも俺はそうしたよ」
そう付け加えて。
「社長も、そういう経験あるんですか?」
「テメェよりも三十年近く長く生きてんだ。当たり前だ」
そう言いながら社長は、淡々と語り出す。
「俺の場合はカタキも同然だとか、そんなモンじゃねぇ。間違いなくカタキだった」
「あの、それはどういう……」
「葉子さんの昔の男のさ、葬儀をしたのよ。しかも、孕ませた挙句に流産させた最低な奴のな」
「なッ!?」
葉子さんというのは、社長の奥さんのことである。
五十代ながら、相当に美人で、正直社長がこんな俺のことを気にかけてくれるような優しい人でなく、下種チンだったら間違いなく……余談であった。
普段ウチの会社で事務仕事をこなしている葉子さんはいつも明るく、笑顔を絶やさない人であるのだが、まさかそんな過去があろうとは。
「俺が三十六の時だった。その最低の母親が電話で依頼してきたんだが、正直、目の前にいたら絶対殴ってたわァ。いや、しかも可愛い息子の葬儀だから派手にしたいだとか、なんだとか言ってきたもんだから。テメェの汚ねぇ子宮を抉ったろうかと思ったね」
社長は、カカカッと、快活な笑い声を上げてみせたが、目は全く笑っていなかった。
当たり前だ。思い出しただけでも腹立たしいことだろう。
もしこの話を聞いて、『イカれてる』だとか『子宮抉るとか最低』だとかそんな感想しか思いつかない人間は、間違いなく聖人君子気取りの異常者だと思う。
自分にとっての敵が、もしくはその血の繋がりが目の前にいて、怒りの一つもこみ上げないなんてことはあり得ない。
まして、大切な人を傷つけた人間やその血縁に怒りの感情の一つも湧かないのは、人として終わっていると言えるだろう。
「でもその葬儀、ちゃんと引き受けたんですよね? しかも、いつもと同じ気持ちで臨んだんですよね?」
「モチのロン」
「どうして、そうできたんですか?」
俺がそう尋ねると、
「仕事だから。いや、正確には金の為だからかね」
と言った。
「この仕事断ったら、ちゃんとやらんかったら、葉子さんを旅行に連れててやれねぇ。二人の息子の誕生日プレゼントやクリスマスプレゼントを買ってやれねェ。それに、もし引き受けたとしても、ぞんざいにやりゃあ、嫌な噂を立てられて、会社が立ち行かなくなるかもしれん。だもんで、いつも通り気張って引き受けるしかないと、そう思ったわけよ」
なるほど、至極当然の理屈だ。
「そうですよね、社長。いつも通りしかないですよね」
そして、そんな至極当然に対して、あれやこれやと、悩んでいた自分が恥ずかしい。
自分の為に、好きな人の為に必死こいて働こう。
俺が気に入らない奴の葬儀であっても、間違いなく俺の親友が殺した奴の葬式であっても気張ろう。
俺はそう思いつつも、もう一つどうにもしっくりとこないことに思いを馳せようと……したが、その前に窓を開け身を乗り出し、
「ウオェェェエエ!」
と、路上に吐瀉物を投下した。
社長の運転を原因としての、車酔いである。
「おい、犯罪だぞ。それ、多分。そうじゃないとしても品がねぇ」
「す、すいません」
俺は、ポケットにしまっていたティッシュで口元を拭き、車に備えられたゴミ箱に捨てる。
そして、改めてネクタイを締めようとしていた時にもふと考えていた疑問について、式場につくまでの間ずっと考え続けた。
俺の親友は、あの優しき友人は、恐らく凄惨な殺人事件によって桐島達をあの世に叩き落した凶悪犯は、三谷空太は――。
転生者なのだろうか、と……。