第三話 痛みの全てを刹那の合間に
桐島達が今何処にいるのか。
天仁と再会して五日、僕はありとあらゆる手段を使って調べに調べ尽くした。
禄に睡眠もとらず、彼等のフルネームは勿論、考えられる限りの渾名やその他諸々の情報を色々打ち込み、ネットの端から端の隅々まで、分かり得る限りの現在の彼等の情報を。
その結果、非常に嬉しいことに彼等四人全員が鬼松市内の何処かで働いているということが分かった。
更に、その四人のうちの大野に関しては、職場と大体どの辺りに住んでいるかまで割れた。
――自分のブログに職場の名前と、その職場から徒歩で五分の所に自宅があるということを堂々と書いてあったのだ。
大野が大間抜けなお陰で、此方としては大助かりだ。
鬼松市内に、死ぬべき四人がいるので、この間抜けを仕留めるだけで、芋蔓式に皆殺しに出来そうである。
そういうわけで僕はさらに三日間、大野を監視し、さらにその周辺情報を探った。
人間関係、職場から帰宅する際に通る道、また自宅周辺に何があるか等、役に立ちそうな情報、全て。
そういった情報収集に精を出しすぎた結果、僕は三日間と、それに至る前の五日間をほぼ不眠不休で過ごすこととなってしまった。
その疲れが流石に出たのだろうか。
目が覚めたのは、御天道様が一番高い場所にいる頃だった。
カーテンも閉めずに眠ってしまったから、まだ真夏の灼熱を残した日差しを一身に浴びることとなり、酷く寝苦しくなった――つまりは、無理矢理目覚めさせられたが正解であるが。
僕は億劫ながらも、けれど寝る気は疾うに失せていたから、無理矢理上半身を起こし、固い畳の上から頭を離すと、
「暑い」
まず、率直に一言。
神の用意してくれた、狭い部屋に、僕の声だけが、小さく響く。
そして、自分の頭のあった位置にあったスマートフォンに表示された、『13:23』の表示を見て、嘆息を漏らす。
目覚めるのが、正午を過ぎてしまうと、どうにも陰鬱な気分になる。
人生――と、いっても僕の今がそう呼べるかは疑問ではあったが――における限られた貴重な時間を無駄にしてしまったかのような、そんな損をした気になってしまう。
「一服、するかね……」
僕はそう呟き、枕元に置かれた死ぬ程不味い煙草に、僕はコンビニで買ってきたライターで火を点ける。
傷やささくれが激しい畳と、あっちこちに黒い染みや汚れがあり、更には罅が入った壁といったくたびれた雰囲気のするアパートの一室に紫煙が立ち込める。
こういった部屋の壁にもたれ、煙草を吸うというのは――中々に悪くはない。
しかも、頭陀袋みたいな部屋に反して、窓枠に切り取られた、白い雲と青い空は、とてもとても、綺麗であった。
実に、良い。
服や、酒や、音楽が、それに相応しい場所や時が存在するように、煙草にもそれはある。
人生の敗北者的な人間が住むようなこの部屋であったが、この敗北者的な雰囲気が、またそこから見える、しかし、手を伸ばせど伸ばせど届くことはない真っ青な天が――何故だか煙草の旨みを引き立てるように、僕には感ぜられるのだ。
これでこの煙草が、甘ったるくなくもう少し苦味の強い物であったならば尚良いのだが。
元々吸っていた銘柄――『LUCKY STRIKE』も買ったので、それを吸えば良いとも思うのだが、やはり友人がわざわざ気を使ってくれたものなのだから、まずこの『Peace』を先に吸うべきであろう。
それに、『LUCKY STRIKE』は、僕が一番幸せになれるその瞬間に――奴等を蹂躙し尽くしたその後にこそ吸いたいという気持ちがあった。
「そういえば……、これを吸った切っ掛けも涼だったな……」
僕はふとポケットの中から煙草の箱を取り出すと、しみじみと物思いに耽てみた。
それは小学校五年生の時。涼とのデートの時のことだった。
その日は、JR鬼松駅前――鬼松市で最も人が賑わっている場所に、買い物に来たのだ。
そして、買い物に行く途中で立ち寄った『TULLY'S COFFEE』で、涼が、窓際の席に座っていた中年で優雅で色気に満ち溢れた男性を見ていたのだ。
熱い眼差し――のように、当時の僕には映った。
その中年男性は珈琲を飲みながら、煙草を吸っていて……その銘柄が『LUCKY STRIKE』だったわけだ。
ようするに僕はちょっとした嫉妬心で、十一歳にして煙草を始めたわけである。
後々になって気付くことだが、どうやら涼のあの視線の意味は、どうも『大人になったら空ちゃんもこうなるんだろうな……』的なものだったらしい。
しかし、どうも煙草の美味さというもの知ってしまったから今もって尚、吸っているというわけである。
「ふ……ふふ……」
笑おうと、してみた。
今にして思えば、微笑むべき話なのだろうから。
だが、笑うに笑えない。
顔の筋肉の、一本たりとも、動こうとはしない。
もしかしたら、涼の死が、病気だったりしたならば、そういった表情にもなったのかもしれない。
けれど、涼は桐島達に殺されたのだ。
今、僕の思い出の数々は――六道輪廻を一巡しようとも、それ以上美しいものとは出会えないと確信をもって言える天野涼との大事な思い出。
それに彼等の薄汚い笑い顔が、まるでルドンの絵画の一枚に愚かにも何者かが肥えを塗りたくったかのように、べっとりとこびりついてしまっているのだ。
取り払う方法はただの一つだけ。
奴等を殺す。その一点だけ。
「待て……まだだ……早まるな……急ぐな……待つんだ……ッ!」
ガタガタと、『その一点』を求めて震える体を、僕は自ら抱きしめて、押さえ込む。
腕を、手で、爪を立てて、締め付けて、紅蓮の血が指先を染めて、痛みで、僕はなんとか尋常を保つ。
殺したくて、殺したくて、殺したくて、彼奴等の四肢を飛ばして、頭を潰して、肉と血だまりになるまで殴りつけて、腹を切り開き、肝臓を握りつぶして、心臓を串刺しにして、肺を形造る小さな球の一個一個を毟り取って、腸を引き釣り出し、陰茎を裂けるチーズみたいに裂いて……。
兎に角、殺したくて仕方ないのだ。
「けど駄目だ……今は駄目だ……今じゃないんだ……違うんだ……」
そう、今は奴等を殺すのに相応しくはない。
決行は――夜。
†
大野栄流。
年齢十九歳。誕生日十一月二十三日。
身長174cm。体重61kg。血液型O型。
出身は静岡県鬼松市南区遥子町。
最終学歴静岡県立江島高校美術科一年中退。
家族構成は母親のみ。父親とは小学校六年生の時に死別。
現在は鬼松市南区日笠町にある1Kのアパートで、交際期間一年になる鬼松芸術大学に通う一つ年上の女性と同棲中。
職場はそのアパートから五分のところにある鬼松市を発祥とするとある自動車会社の子会社の子会社のさらに子会社くらいに当たる部品の製造会社。
……以上が、僕の調べ上げた忌まわしきいじめっ子の一人についてである。
そして、もう一つ分かったことは、嫌いな人間のことを敢えて探るのはとても苦痛だし、あまり気持ちの良いことではないということである。
というよりも、本当は人を殺すことだってあまり乗り気ではない。
彼奴等が自分達の所為で涼が死んだことや僕を殺したことに対して悔いて、出家でもして心を入れ替えたとしたならば許したかもしれない。
或いは、自分達の犯した罪の大きさに押しつぶされて、動きもせず、何の音も聞かず、どんな色も映さず、焼いていない生の餅と水とだけで辛うじて命を繋ぎ、誰にも関わらず、腹を痛めて生んでくれた母親にさえ疎まれ、自分を叱ってくれる筈の父親には見放される、そんな人生を送っていたならば許せたかもしれない。
僕の怒りだってそれで収まったかもしれないのに。
だのに、桐島と、三戸部と、小阪は何も変わっていなかった。
世間一般的には不良、社会の塵芥、人間の屑。
そう思われるような生き方を彼等はしてきた。
涼と同じような弱者を虐げ、暴力を振るい、他人の迷惑となるような行為をまるで息を吸うかの如く平全と行い、そうやって生きてきた。
大野はより許せない。
というのも、大野は、現在交際中の女性に継続して暴力を振るっているからだ。
たった一人の人を愛することが出来るというのに。僕と違いそれをすることが出来るというのに。
その権利を、或いは義務を。
全て、全て無下にしてしまっているのだ。
僕が、この僕がどれほど渇望しようとも、恋焦がれようとも、永久に彼女が戻ってくることはないから、出来る筈のないことを。
一人の人間が、一人の人間を愛し、その人に愛されるという幸せを。
身勝手な暴力で破壊してしまっているのだ。
許せるだろうか? いや、許せるとしたらそれは人としての尋常を超越した何かだ。
染色体の一本、ミトコンドリアの一つに至るまで、その人間を滅ぼしてやりたいと思うのが普通の感情であろう。
「――涼。僕は、人として、当たり前のことをするよ……」
街頭の光が幽かに照らす人気のない道に、僕の、最愛への人への、届く筈のないメッセージが、僅かに木霊した。
届く筈がない……。
自分でふと思ったその言葉が、どうにも、耐え難い事実で。
それを紛らわそうと、僕は『Peace』の最後の一本に手をつける。
「不味い」
分かり切っていることだが、僕は一呼吸した後、そう感想を漏らした。
全くもって、甘すぎる。僕の人生と違って。
そして、その煙草が、吸い尽くされようかというその時、耳元に、カツンカツンと、硬い音が響いた。
アスファルトの地面を、スニーカーの靴底が叩く音。
それは、どんどん、此方に近づいてきて、靴音の主が姿を現す。
深緑色のつなぎを着た、短めの金髪に、浅黒い肌の男。
そばかすだらけの顔に、腹立たしさを覚える目つき。
忘れもしない。
大野栄流である。
「久しぶりだね、大野くん」
僕は、大野に声を掛ける。
その声に、大野は足を止め、僕の顔をじっと覗き込み、
「誰だ、テメェ?」
顔を顰めた。
僕は、出来る限りの満面の喜色でもって、
「空太だよ」
と、自分の名前を告げると同時。
僕は、右手の人差し指と中指を大野の左脇腹へと、より正確には、左の肺へと、一閃させた。
大野は自分が、何をされたか理解出来ていない。
知覚するのも困難な、それほどの、速度。
大野が痛みを覚え、阿鼻叫喚を上げるその前に!
僕は、突き刺した指を抜きながら、逆側の手を同じような形にして、やはり肺へと突き刺す。
さらに右手を、骨の軋む音が鳴る程固く握りこみ、顎へと横殴りに振り抜く。
体は、素っ飛び、勢いで、肺に突き刺した指が抜ける。
衝撃で仰向けに倒れていく大野に、さらに追い討ちとばかりに、体の位置を替え、首元へと、左の膝蹴りを一回、二回。
そして、右踵を、地面に落ちる途中の、大野の腹へと、叩きつける。
「あ……が……」
地面へと、背中を打ち付けると、大野は小さく呻き声を上げた。
そして、白目を剥き、口からは、涎を垂れ流す。
気を絶したのか、死んだのか。
いずれにせよ、まだ足りない。
「お前の! お前等の所為で!」
僕は、大野の頭を踏みつける。
何度も、何度も、何度も。
「涼は苦しんだんだ!」
頭蓋の砕ける音がした。
でも、やめない。
「涼は死んだんだ!」
血が、しぶきになって、噴出し、僕の顔にかかった。
けれども、やめない。
「僕は……! 僕はッ……!! 悲しんだんだ!」
肉が、弾けるまで、僕は続けた。
そうしなければならなかった。
この世界の全ての汚物をぐちゃぐちゃに混ぜ合わせたような酷い臭いの中で、真緑色に染まって死んだ天野涼。
そんな酷い死に方を選ぶほどに追い詰められていた涼。
そしてそれを目の当たりにした僕。
ともすれば、涼の痛みを、僕の痛みを返さなければならない。
痛みの全てを、寸陰の中に押し込めて、罪深い彼等に伸し返さなければならない。
その為に、僕は蘇ったのだから。
「まず、一人……」
醜い肉の塊に成り果てた、大野を見て僕は呟く。
そして、天を仰ぎ見上げる。
とても綺麗な満月が、そこにあった。
「やったよ、涼」
僕は、この時、間違いなく微笑んだ。