プロローグ
君がもし何かをきっかけに大きく変わったとして。
君がもし誰かをきっかけに大きく歪められたとして。
そうなったら、君の目に映る世界は、間違いなく変貌する。
鼻に伝わる匂いは異様で。
耳に入る音は異質で。
目に映る光は歪――。
元の世界とは乖離したそれを、『異世界』と言わずなんと呼べば良いだろうか?
†
――目が覚めたら、ぼくは教室の、自分の席にいた。
鬼松市立鬼松南部中学の三年二組の教室に。
けれど、そこは確実にぼくの知っている場所ではなかった。
男子達が悪ふざけで書いた後ろの黒板の落書きも、壁に飾られた学級新聞や貼りっぱなしにされた夏の絵画コンクールのポスターや体育大会の表彰も、ぼくの目に映る何もかもに見覚えがあったのに。
――ふと、窓の方を向き、うざったいほど眩しい夕日に顔をしかめると、気付いた。
校庭に誰もいないことを。
時計を見れば時刻は五時十三分。
テスト期間で部活が休みというわけでもないのに、運動部の連中が部活をしている姿が見当たらない。
吹奏楽部の管楽器の音が、いつもはとても五月蝿いくらいなのに、全く聞こえない。
席を立って、教室を見渡しても、いつもなら、教室に残っていつまでも話している女子や、残って勉強をする真面目な人間の一人もいる筈なのにそれもいない。
二十九の席にも当然誰も座っていない。
足音の一つ、息遣いの一つ。
学校から人が完全にいなくなる時間帯でもないのに聞こえない。
人の、気配が、ない。
どうしてか?
どうしてだ?
「そうだ……ぼくは……」
「死んだんだよ」
ぼくが自覚した残酷な現実を、そいつはさらに残酷なことにはっきりと口に出して告げた。
――それはいきなり、前触れも無く、そこにいた。
肩まで伸びた癖毛がかった白い髪、子供のように無垢な瞳、白いTシャツとジーンズといった姿の背の高い男。
「三谷空太くん。五月十三日を以って、ご臨終でございま~す!」
そう言って、そいつは、教卓の前で盛大な笑い声を上げた。
「そ、そんな……」
息が止まる。
もう、止まっているけれど。
思考が出来ない。
考える脳みそも、とっくに死に絶えているけれど。
胸が苦しい。
心臓は動いていないのだろうけれど。
「アアアァァァァアアァァァアッ!!」
絶叫した。
思い知らされたその事実に。
発狂した。
死を確かに自覚して。
思い出してしまった。
ぼくは隣のクラスの、桐島と、三戸部と、大野と、小坂に。
いじめっ子に『川遊び』と称して、溺れさせられたことを。
「アッヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャッ!!」
それを見てそいつは、さらに腹を抱えて、倒れそうになりながら、大笑いを上げる。
「あはは。死亡オメデトウ、三谷空太くん。いじめっ子に川に沈められてものの見事に死んだ君だけど、気分はどうだい?」
この問いに対してぼくは、『最悪に決まっているじゃないか』という月並みな感想を抱いた。
だから、そのままずばり、
「最悪に決まってるじゃないか」
と、答えてやった。
そいつは、どこまで穏やかな笑みで、ぼくの言葉に何度か頷くと、
「2/π点と言ったところかな」
訳の分からないことを言い出した。
「つまらない。つまらない。つまらない。つまらない。繰り返す。その都度計四回だ。それほど君はつまらない」
「そうですか」
つまらない――極めてどうでもいい評価だった。
「というかさ、僕のことが気になったりとか、気になったりとか、はたまた気になったりとか、そういうのはないの?」
目の前まで、白髪男はにじり寄ってきて、ぼくにそう尋ねる。
ハエよりうざったいと、極めて普通の感想が出てきた。
「全く」
こういう輩は調子付かせておくと、どこまでも鬱陶しい。
だからぼくは素っ気なく言い返した。
「聞ィイイてッ驚けェェエエッ!!」
しかし、どうやら男は、ぼくのそんな気持ちなど全く察していないようで。
奇声を上げながら、ぼくの前の席に飛び乗って、左手を前に、体を前傾させたポーズを取る。
歌舞伎役者――と、言われて万人が、まず最初に思い浮かべるであろうポーズ、である。
「私はッ! 神様なのだァァァ!」
ぽぽんと、和鼓の音を自分の口で出しているその様は、なんとも痛々しかった。
「……そうですか」
「リアクション薄くね!?」
「いや、驚けという方が無理がありますよ」
ぼくの反応が自分の予想とは違ったのだろうか。
ちぇと、舌打ちして男は床に降りた。
「てかアレだぜ? 神様だぜ、神様。どこぞの転生モノだったら、『異世界に転生させて下さーい神様ぁ』だとか『チートな特典付けて下さい神様ぁ』だとか『イ・ッ・セ・カ・イ! イ・ッ・セ・カ・イ! チート! ハーレム! イ・ッ・セ・カ・イ!』だとか男の子なら、神様前にしたらみんなそう言うもんだぜ?」
「すこぶるに興味はないです。というか、あなたが本当に神様だと思うわけがない」
自分が死んだ所為も手伝ったのだろうか。
本当にこの男の態度が腹立たしいと思い、ぼくは拳を握りこんでいた。
横っ面を思い切りグーで殴ってやりたくなった。
「ははは。そのリアクション良いね。そういうの好きよ、僕」
――どこまでも人を馬鹿にした、男のその態度についに耐え切れず。
ぼくは、男の顔面へと、右拳を叩きつけようとした。
しかし、
「ドーン」
男のその言葉と同時に、ぼくの右腕が弾けた。
肉と血が花火になって真っ赤に咲き乱れる。
床を、机を、壁を、男の顔を、ぼくを、赤く染める。
「え」
何が起こったのか。
一瞬頭が真っ白になり、すぐさま、
「ウワァァァァァァアアアアッ!!」
激痛が、ぼくの全てを蹂躙した。
その痛みにぼくはその場に蹲り、右腕を抑えた。
痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い。
それしか考えられない。
失神出来ないことが辛い。
いっそ意識を手放すことが出来れば楽なのに出来ない。
辛い。痛い。
「んふっ、美味」
男は、顔にかかったぼくの肉片を舌で舐めとり、くちゃくちゃと音を立て噛んでいた。
「ひぃ……!」
怖い。
ぼくはそれを見て、ただそう思った。
一体ぼくはこの後何をされるのだろうかと、その先を考えたら余計に。
一歩、一歩と男はこちらに近づいてくる。
咄嗟に逃げようと思ったが、足が竦んで、立てない。
男はついにぼくの一寸先に立っていた。
そして――――
…………
……
「にょきーん」
男は突然間抜けな声を上げた。
なんだ? と、ふとぼくはそんなことを思って、気がついた。
痛みが消えているということに。
「腕が……」
元通りに戻っていた。
傷一つ無く、弾ける前と同じように。
「――神様だということを証明するのはとても簡単だ。神様っぽく奇跡を起こせばいい」
きっと驚愕しているであろうぼくの顔を見て、男はにやりと口角を裂いた。
「それでさ、僕ってとっても神様っぽくない?」
――最早、ぼくは疑いはしなかった。
死んでなお、その存在を信じることなんて出来なかったが、ここまで奇跡を見せ付けられれば、間違いない。
この男は、神だ。
「――どうやら信じて貰えたようだね」
ぼくの表情から内面を読んだのか、それとも神だから本当に心の中が分かるのか、喪服男はそう言って、ぼくに手を差し出した。
その手を素直に借りて、ぼくは立ち上がる。
そして、神は今度は、いきなり教卓の上に腰掛けていて、
「さて、それでは本題に映ろうか」
と、話始めた。
「率直に聞こう。君は異世界への転生を望むかい?」
ぼくは答えた。
本心で以って。
「望みません。生きる意味がありませんから」
そうはっきりと。
「生きる意味がないって、君、本気で言ってるのかい?」
「はい本気です。ぼくには生きなければならない理由も、生きたいという意志もありません。むしろ、本気で死にたいと思っています」
「どんな世界であっても転生したくないかい?」
「どんな世界であっても……です」
そうぼくが言い返すと、神はため息をついた。
そして、
「例えば、こんな世界でもかい?」
と、説明をし始めた。
「――え?」
まるでおとぎ話を小さな子供に話すかのように、大げさに話したその内容は、ぼくを驚愕させるに足りた。
提示された異世界の内容と、そこで僕が出来ること。
全てが魅力的過ぎた。
「――それでも、君は転生しないと言うのかい?」
愚問であった。
答えは決まりきっている。
「……します」
「聞こえない。もう一度言え」
わざとらしく手に耳をつける素振りをする神。
ぼくはもう一度声を張り上げた。
「転生したいッ! ぼくはッ! 転生したい!」
その言葉を聞くと、神は、いやらしく微笑んだ。