事件(上)
私こと橘健太郎は、脇腹を刺されて重傷を負い、救急車で運ばれていた。
…痛い。ほんと痛い。冗談じゃなく痛い。
例によって話は数時間前にさかのぼる…。
私はその日、午前の授業を終えて、中庭でコーヒーを飲みつつのんびりと過ごしていた。
途中、中庭を仲間たちと通り過ぎていく伊藤さんに出会った。
私の方を向くと、笑顔で軽く会釈してくれるので、私も笑顔でそれに返す。
合コンの時は陰鬱で無謀な飲み方をする女性だと思ったが、酒が入っていないときは、やはり明るくてかわいい。
合コンの件で、彼女から唐突に謝罪のメールが来たことには、正直驚いた。
しかし、そのあとに直接会って謝ってくれたことにはもっと驚いた。
顔も出しにくかっただろうに、立派なことである。彼女の友達の小野さんもそれはいい人だったから、きっと彼女も普段はそんな風に素敵な女性なのだろう。
その後、特に彼女と何かあったわけではないが、不思議と彼女とは大学構内ですれ違うことが多くなった。
前々からすれ違ったりはしていたのかもしれない。しかし、やはりそれでも彼女とすれ違う回数が増えている気がするのは、私が彼女を意識しているせいなのだろうか?
さて、合コンのことに引き続いて、なんとなく石川のことを思い浮かべる。
数週間前の合コン以降、どうやら石川は相当に白川さんと気があったらしく、彼女の運営するミステリ同好会に加入したようである。
石川の恋路の行方はひどく気になる。ただ、なんとなく下世話な気がして、なるべくフラグメーカーを使わないようにしていた。しかしある時、どうしても気になって、石川の赤い糸を盗みみてしまった。
この前は薄くて、よく見ないとわからないような細いつながりだった。
しかし、今では、太いとは言わないまでも、それなりにしっかりとした糸になっていた。
しかも、どうやらこの糸、一方的なものではなく、弱いながらも白川さんから石川へも向かってきているようなのだ。
(…うまくやっているみたいじゃないか)
私はほんのりと笑って、フラグメーカーの電源を切った。
しかし、中庭に座って、戯れにフラグメーカーを起動しながら世の中を見てみると、本当に糸にあふれている。
あちらにも糸。こちらにも糸。
そんなつながりの世界の中で、私一人が糸もなく孤立しているようで、なぜだか少しさみしくなってくる。
ずっと糸のなかった石川にも、糸のつながりができた。私にもそろそろつながりの一つや二つできてもおかしくはないのではなかろうか?
そこまで考えて苦笑する。なにを考えているのやら。私は万年わき役の『いい人』
恋の舞台の主役を演じるなんて柄じゃない。
ちょっと周りに恋愛があふれてて勘違いしてしまっているな…。
私は苦笑してフラグメーカーの電源をきった後、深々とため息をつき、そしてまたゆっくりとコーヒーをすすった。
コーヒーのパックを捨て、中庭を出ようとするところで、今度は白川さんに出会った。
「あら?橘さん。こんにちは」
「ああ、白川さん。どうもこんにちは」
相変わらずとぼけた話し方をする人である。
「石川がミステリ同好会入ったって聞きましたけど、うまくやってますか?」
「ええ、彼とは少しセンスやとらえ方が違いますけど、それがまたなかなか面白くって。やはりミステリはいろいろな解釈が入ったほうが面白いので、考え方の違う人が入ってくれると、刺激を受けますね」
…おぉ、石川さんなんだか高評価ですよ。
私は顔がニヤけそうになるのを抑えつつ、彼女と会話しながら歩いた。
私はふと、石川の話をしている彼女から、どんな糸が伸びているのか気になった。
誰かの話をしているその時、その人の気持ちは、話している対象にだけ向かっている。
それなら、石川の話をしている彼女の気持ちも、当然糸として、はっきり見えるはずではないだろうか?
………下世話だ。下世話すぎる。
そう思いながらもしかし、私は衝動に負けて、フラグメーカーを起動した。
そして、私は目撃する。
彼女から細く伸びていく、双方向の赤い糸と、
…彼女に向かって一方的に伸びる、赤黒い一本の糸の存在を。
私は赤黒い糸の先を視線でたどる。
…30m先で糸は表示範囲から外れており、末端は見えない。
「橘さん?」
「…あ、いえ、ゴメンナサイ。ちょっとぼーっとしてました」
「いえ、こちらこそ内輪のミステリ話ばかりで退屈させてしまって…あっ!!ゴメンナサイ!!午後の講義の前にレポートを印刷してこないと。すみません。こちらから話しかけておいてバタバタして。ちょっと行ってきますね」
「…あっ、はい。それではまた」
彼女はパタパタと駆け足で去っていく。
私はさっき見た赤黒い糸の正体について考える。
…これは、まずいかもしれない。