一人と一人(1)
「ウソをつきましたね?」
狭いプレハブの部屋の中、パイプ椅子に腰をかけながら文庫本に視線を落としていた一人の男が、唐突に声を出した。
「何のことでしょうか?」
窓際のソファーに腰掛けながらハードカバーを開いていた清楚な雰囲気を持った女性が、それに答えた。
「白川さん、あなた、ウソをついた」
男は文庫本に目線を落としたまま、同じ意味の言葉をつづけた。
「ですから、何のことでしょうか?」
同じようにハードカバーに目線を落としていた女性は、そのまま目線をあげずに、同じ言葉を繰り返した。
「最後の実験」
男が一言。
女性はピクリと反応する。
「最後の実験だけは、『実験』ではなかった」
男の言葉に反応はない。聞いているのかどうかも定かではない。しかし、男は続ける。
「オレにも推測をさせてください。あなたの言う通り、あなたは橘を使って実験を行うことを最初であきらめていた。あなたが合理的な思考回路を持っているのは知っているつもりですから」
やはり女性は反応を示さず、本のページをめくっている。
「だとしたら、やはり最後の実験だけは異質だ。おかしい。だって、あなたが一度理解をあきらめた実験材料に、再び目を向けるなんてそんなことありえない」
ここまで聞いて、いまだに本に目を落としながら、女性は笑顔を浮かべた。心底愉快そうに。
「つまり何が言いたいんですか?石川君?」
「あなたが見舞いに行ったのは、『実験』なんて関係なく、単なる『あなたの意志』なのではないかと、オレは思っています」
女性はより一層楽しげに微笑むばかり。
「それはなぜ?」
試すような口調。
「オレの知っているあなたなら、きっとこう思う。あなたは自分自身の実験を大切に、そして重要に思っている。それゆえに、自分の実験の不備があることは認められない」
女性はパタンと本を閉じて、男の言葉に耳を傾けている。
「だから、ストーカーを利用した2つ目の実験で、橘を巻き込んで怪我させたという『不備』に、あなたは実験のマスターとして責任感を感じているはずだ」
女性の目は「その先は?」と問いかけている。
「そこまで考えると、伊藤さんを利用しての最後の実験なんて言うのは後付けの『ウソ』で、もともとは本当に謝罪の意味をこめて見舞いに行っていたんじゃないかとオレは推測します。ゆえに橘と伊藤さんの関係を確認してからは、二人の恋の障害として立ちふさがる『フリ』をしながら、伊藤さんの気持ちを固めさせて、ある程度まで彼女の気持ちが固まったところで、邪魔にならないように見舞いに行かなくなった。ある意味、橘と伊藤さんの関係は、あなたが謝罪のオプションとしてプロデュースしたと言えなくもない」
「仮にその推測が正しいとします。それならなぜ、私はそんなめんどくさい真似をしておきながら、あえてそんな『ウソ』を付かなければならなかったというんですか?」
「斉藤を追い詰めないため」
男の答えは明瞭だった。
「斉藤は恐らく一度、橘と伊藤さんをひきはがそうとしている…そうあなたは予測していた。斉藤が引きはがそうとした2人を、斉藤にとっては憎むべき存在であるあなたが、再び引き合わせて、今の幸せをプロデュースした。そう知ったら、斉藤はどう思うでしょうか?」
女性は「続けて?」というように目配せをする。
「自分が悪と思って問い詰めた、憎むべきはずの敵が、自分が引きはがした二人を幸せにした。斉藤は…あいつは器用に見えて不器用だから、そんな状態になったら、責める相手を見つけられずに自分のことばかりを責めるはずだ。他に責める対象がなくなって、憎しみの矢が全部自分に突き刺さって、のたうちまわることになる」
男は視線を落として言った。
「そして、あいつはたぶんそれに耐えられるような強い心を持っていない。だからあなたは、自分が矢面に立って、すべて自分が悪いかのような体裁を整えて、斉藤への独白を行い、斉藤の罪の軽減を図った。違いますか?」
彼女は微笑みを強い苦笑に変えて言った。
「それではあまりに私のことを美化しすぎじゃありませんか?」
「最初に言いました。これは推測だと。いや、推測というより、オレの望みなのかもしれません。だって、オレの知っている『白川真琴』は、目的のためには非情で、それでもその非情さに誇りを持っている、そんな人だから」
男はそこで止めて息を吸う。そして、言った。
「…そんなあなたを好きになってしまったんだから」
一瞬の空気の硬直の後、心持頬を赤らめた女性が答えた。
「ほめても何も出ませんよ。最後に言ったでしょう。『次の観察対象』ができたって。私はただ、次の観察対象の斉藤さんにつぶれてもらっては困るから、その場を取り繕っただけです。それに、前2つの歪みきった実験は確かに私の発案なんです。『マッドサイエンティスト』に恋をしたって、ろくな結末は待っていませんよ?」
そんなふうに言って笑う女性の笑顔は、優しかった。
「でも、それでも、そんな人を好きになってしまったんだから、仕方ないんですよ。あきらめて好かれてください」
これは武士のような潔さを持った男らしい言葉ともいえるし、骨抜きにされた愚かな男の言葉ともいえた。
オレの言葉を受けた後の彼女はらしくもなく赤面した。
そのあとに出た照れ隠しの笑顔は、これまで見たことがないほど人間らしくて、ステキなものだった。