クレバス(上)
私こと橘健太郎は…泣いていた。
らしくもなく、泣いていた。こんなに泣いたのは久しぶりだ。
その手をぎゅっと、一人の女性が握ってくれていた。
温かくて、やわらかい、優しい手だ…。
入院から1ヶ月弱、来週にも退院できるというころになっていた。
その日も、伊藤かえでというかわいい後輩は見舞いに来ていた。
そう、彼女は毎日のように見舞いに来ていた。
時に花束を持ち、時に果物やおやつを持ち、時に暇つぶし用の雑誌や小説を持ち、やってきた。
私はこんなに彼女に気にかけてもらうほどのことを何かしてあげただろうか?わからない。
「こんなによくしてもらって…ありがとう。退院したら、何かお礼、させてくれないか?」
「私が来たくて来てるんだから、いいんですよ。前に言いませんでしたっけ?」
彼女はそんな風にしてニッコリと笑う。
…どきっとする。
彼女に最初に出会ったとき、こんな感じはなかった。今は…ときどき、しばしば、いや、しょっちゅう、「どきっ」とさせられる。
この気持ちは…なんだろうか。特別な気持ちには違いない。
これが…恋か?
「…でもそれじゃあ僕の気がすまないよ。何か、お礼させてほしい」
再びのお願い。
「それじゃあ…私にお酒おごってください。それで貸し借りなしってことにしましょう」
私は思い出していた。
壮絶な滝ゲロを浴びたあの夜のことを…。
ついでに思い出していた。彼女のやわらかい胸の感触………私は何を考えているんだ!!
「…あっ。…えっと、それでよければ、…うん。わかった」
なぜかしどろもどろな私に、彼女は一瞬「?」というような顔をしたが、その後にうれしそうにうなずいた。
「はい!うれしいです!これで、私が一回先輩におごって、先輩が私におごってくれて…先輩と2回もお酒のみにいけますね!!」
…はて、なぜ伊藤さんが私に一回おごってくれるのだろうか?
私の中にはそんな疑問が浮かんでくる。少し記憶をさかのぼって、思い至る。
ああ、そういえば、そんな約束もしたような気がする。
たしか、伊藤さんから私に謝罪のメールが来たのだ。「気にしていないよ」という意味もこめて、「もう一度お酒のみに行きましょう。そのときはおごってください」と返信した気がする。
「いや、あの約束は、今回のお見舞いで十分返してもらったから、僕がおごるだけでいい。伊藤さんは気にしなくていいよ」
私の答えに、伊藤さんは心外そうに答える。
「いえ、約束は約束です。一回は絶対に私がおごらせてもらいますから。…それとも私と2回も飲みに行くのはいやですか?」
上目遣いで、その言い方は…ずるい。何も言い返せなくなる。
「いやじゃないよ。うれしい」
彼女の顔がぱっと明るくなる。
でもこのままじゃ主導権を握られっぱなしだ…!
私はそんなちっぽけな悔しさをこめてこの言葉を付け加えた。
「…大暴れしなければね」
彼女は数秒固まった後、困りきったような笑顔でうなずいた。
昼下がり、ふとコーヒーが飲みたくなった。
もう自分歩くこともできるので、リハビリがてら、病院の売店まで買いに行こうと思ったら、「私が行ってきますから!」といって、伊藤さんが走っていった。
病院の廊下は走っちゃいけませんよ~。
そんな風に心の中で思いながら苦笑する。
そういえば、前はこの時間帯によく白川さんが見舞いに来てくれていた。
最初はまるで、伊藤さんと張り合うように来ていたけれど、最近はあまり見かけていない。
伊藤さんと私に気を使っている…?
…いやいやまさか、そんな。伊藤さんと私はそんな関係ではないし、きっと伊藤さんもそんな風に思っていない。
しかしながら、私は気がついていた。
思考をとめる予防線。これは期待の裏返しだ。伊藤さんとの恋愛関係への期待の裏返し。
期待して、期待して、そしてその期待が覆されることを恐れるが故の予防線。
私はどうしたらいいんだろうか?
きっと、イケメン斉藤なら、「さらっといっちゃえよ!」なんて、言うだろう。
しかし、万年脇役の私が、恋の舞台に出て行くというのは…強い覚悟のいることだ。
「…はぁ」
知らずため息が出る。このため息は何のため息なのか、今の私にはよくわからない。
…がらがら。
病室のドアの開く音がする。
伊藤さんかと思って見てみると、そこにたっていたのは、男だった。
「橘。話がある。ついてきてくれるか?」
そこにたっていたのは、「武士」というイメージがしっくりくる、生真面目そうな男だった。