序幕 第一章「黒点と絨毯」
「私は正義を信条としますが、正義よりも先に母を守ります」
――アルベール・カミュ
霧雨が舞っていた。
六月にしては少し肌寒いその夜は、霧雨が舞っていた。灰色と黒の入り混じった煙のような雲が、月を覆い隠す。時折できる雲の隙間より、その月は七割ほど満ちているという事がわかる。
霧雨の舞う中、全身に水滴を浴びながら、彼らは走っていた。黒、紺、茶、まとう外套は色とりどりだが、夜の闇に紛れたそれらは、全て黒に見える。止まることなく続く足の反復作業で泥水がはね上がり、そのせいか、彼らの足元だけが白く輝いているようにも見えた。
彼らの息遣いに耳を澄ませば、彼らの中には男性もいれば女性もいた。初老の男性がいたが、子供はいないようだ。
彼らはある場所を目指していた。時に馬車や荷車の轍、無数の人の往来が作り上げた道を行き、時に木を分け草を分け、道なき道を進んだ。
彼らの脚がこれ以上にないほど泥にまみれ、また外套に木の葉や蜘蛛の巣が嫌というほどまとわりつく頃、彼らは城の小さな裏門の前に立っていた。
彼らの中の一人がひときわ前に進むと、赤銅色の鍵を取り出した。それを鍵穴に差し込み、軽く右に回す。音を立てないよう扉を静かに開けると、その中に慎重に顔を差し出して様子を窺った。彼らが招かれざる客であるという事は、誰の目にも明らかだった。
彼らはみな、自らの外套にまとわりつく木の葉や蜘蛛の巣を気にも留めず、扉の中に吸い込まれていった。
まだ霧雨が舞っていた。
序幕 第一話「黒点と絨毯」
扉の奥は廊下だった。燭台が等間隔に配置され、それぞれの蝋燭には小さな灯がともる。それでも夜の闇を克服するには不充分だが、かろうじて足元は見えていた。
足元に広がるのは真紅の絨毯。ほんの僅かに黄色がかった壁と相まって、ほどよく華々しく、品位がただよっている。曇り一つない、とまでは言えないが綺麗に磨かれた窓からは、外の森がよく見えていた。
かくして、真紅の絨毯に黒点は打ち込まれていく。
彼らの泥まみれの無数の靴は、燃えるような真紅の絨毯を無慈悲なまでに踏みにじりながら、ひたすら回廊を打ちつけていった。彼らの動きに迷いはなかった。なぜなら彼らはことごとく、目をつぶって歩けるほど、城の中の事をよく知っていたからだ。
退屈そうに、気だるそうに巡回している兵に背後から忍び寄り、短剣を突きつける。兵は二度驚いた。まずは知らず知らずのうちに、自分の命が侵入者の手中に落ちた時。そして、侵入者が誰なのかを知った時。
「まさか、どうしてあなたが……」
それは恐らく、侵入者達こそが知りたい事である。答えられるはずもない。
兵士は隙あらばその場から脱出しようと考えていたが、侵入者の正体を知り、また彼らがこれから何をしようとしているのか悟った時、抵抗する気を完全に失った。それどころか、侵入者達に加担しようという 気すら覚えていたのだ。
その兵士の心情を察するかのように、侵入者の一人は、丁寧に整えられた口髭を動かした。
「我々と共に来てくれないか」
この言葉こそが、侵入者を一人、また一人と増やしていく。そして必ず、侵入者となった元兵士はこう言うのだ。
「いよいよなのですね、王の首を……!」
説得のような脅迫、脅迫のような説得は必ずしも成功するものではなく、あくまで職務に忠実な兵士によって、異常が城内に知れ渡るのに時間は掛からなかった。
退路はすでに封じられ、王の元へ通じる廊下にも近衛兵が踊り出ており、侵入者側にも少しずつ被害が出始めたが、口髭の男は恐れなかった。いや、恐れているのなら、初めからこのような真似には出ないだろう。
その覚悟が叶い、侵入者達は謁見の間の扉へとたどり着く事ができた。
しかし彼らは、その扉を躊躇なくくぐる事はできなかった。なぜなら、扉は初めから開け放たれていたからだ。迂闊に飛び込むのは危険だと考えるのは当然である。
間もなく、奥より怒声が放たれる。
「どうした、ブラックモア! 私が怖いのか!」
口髭の男は目を見開いた。身の安全の為に慎重な選択を取る事を「怖いのか」と罵られるのは、少なくとも嬉しい事ではない。ブラックモアと呼ばれた口髭の男も例外ではなかった。
しかし、その場でじっとしていれば、それはそれで追い立てられ、本懐を遂げられないだろう。そう考えると、怒声による挑発に乗らざるを得ない。
ブラックモアは、敢えて挑発に乗る事とした。
まだ霧雨が舞っているかどうかはわからない。しかしすでに靴の泥は乾き、いつの間にか、真紅の絨毯に黒点はつかなくなっていた。