第72話 【違和感のない違和感】
六月の雨は、人の気力を静かに削る。
榊真司は車のワイパーが左右に動く様子を眺めながら、小さくため息をついた。
フロントガラスの向こうには、大きな建物が見えている。
白い外壁。
手入れされた花壇。
玄関前には送迎車が並び、スタッフらしき職員が車椅子の高齢者と談笑していた。
施設名は――
『ナーシングホーム結の杜』
全国展開する株式会社が運営する住宅型有料老人ホームだった。
助手席に座る同僚が資料をめくる。
「今回の相談内容、読みました?」
「一応」
「内部告発ですよね」
「ああ」
榊は短く答えた。
資料には一文だけ記載されていた。
この施設は不正請求を行っています。
匿名。
差出人不明。
証拠なし。
それでもメディカルリンクは調査を行う。
依頼主は大手保険者団体だった。
「でも、評判は良いみたいですね」
同僚がスマホ画面を見せる。
口コミサイト。
家族の評価。
職員の評価。
どれも高い。
驚くほど高い。
「利用者満足度も高いらしいです」
「そうか」
「離職率も低い」
「珍しいな」
「給与も地域相場よりかなり高いです」
榊は少しだけ眉をひそめた。
介護業界で、
利用者満足度が高い。
職員満足度も高い。
離職率も低い。
給与も高い。
そんな施設は存在しないわけではない。
だが、あまりにも条件が揃いすぎている。
「何かあります?」
同僚が聞いた。
「いや」
榊は窓の外を見た。
「違和感がない」
「え?」
「違和感がないのが違和感だ」
玄関を入ると、明るい声が響いた。
「いらっしゃいませ!」
受付職員が笑顔で頭を下げる。
施設内は清潔だった。
消毒液の臭いよりもコーヒーの香りがする。
ロビーには家族連れ。
談笑する利用者。
スタッフは忙しそうに動いているが、表情に余裕がある。
怒号もない。
険しい顔もない。
誰も疲れていない。
榊は少し戸惑った。
これまで見てきた施設とはあまりに違う。
そこには、
疲弊も、
諦めも、
憎しみもなかった。
「榊さん?」
振り返る。
聞き覚えのある声だった。
眼鏡をかけた男性が立っている。
紺色のポロシャツ。
名札。
背筋は伸びている。
肌艶も良い。
表情も穏やかだ。
しかし榊はすぐに気付かなかった。
「……西田?」
「お久しぶりです」
男は笑った。
あの西田だった。
かつての西田は疲れていた。
いつも眠そうで、
髭も剃れておらず、
服もくたびれていた。
だが今は違う。
別人のようだった。
「ここで働いてるのか」
「ええ」
西田は笑う。
「良い職場ですよ」
その言葉には実感があった。
作り笑いではない。
本心だった。
「そう見える」
「利用者さんも良い人ばかりです」
「そうか」
「給料も前の施設よりずっと良いですし」
榊は返事をしなかった。
西田は続ける。
「俺、ここに来て初めて介護の仕事が好きになれました」
榊は施設の奥を見る。
利用者が笑っている。
家族も笑っている。
職員も笑っている。
そこには確かに幸福があった。
少なくとも今、この場所には。
しかし。
ポケットの中の資料が重い。
そこには確かに書かれていた。
この施設は不正請求を行っています。
榊は西田を見る。
西田は穏やかな表情のまま言った。
「どうかしました?」
「いや」
榊は答える。
「まだ何も」
だが胸の奥に、小さな棘が刺さっていた。
誰も困っていない。
誰も不幸じゃない。
それなのに――
なぜ内部告発があったのか。
雨音だけが静かに響いていた。




