第58話 【決められない】
春子がむせた。
また。
夕食時。
一口。
二口。
そして激しく咳き込む。
ゴホッ。
ゴホッ。
ゴホッ。
顔が赤くなる。
涙が出る。
美月が背中をさする。
春子は苦しそうに息を整えた。
「大丈夫ですか。」
春子は頷いた。
しかし。
誰の目にも分かった。
もう限界が近い。
翌週。
相談室。
浩一が呼ばれた。
大森。
相談員。
美月。
机の上には書類。
人生会議。
ACP。
浩一はその文字を見る。
説明は受けたことがある。
だが。
本気で考えたことはない。
「もし急変した場合ですが。」
相談員が話し始める。
「救急搬送を希望されますか。」
浩一は黙る。
「延命治療については。」
黙る。
「点滴。」
「経管栄養。」
「心肺蘇生。」
言葉だけが並ぶ。
どれも現実味がない。
母はまだ生きている。
目を開ける。
話もする。
ありがとうも言う。
なのに。
なぜ最期の話をするのか。
浩一は苦しくなった。
「決められません。」
小さな声だった。
「・・・。」
「そんなの。」
「決められません。」
大森は頷く。
何百回も聞いた言葉。
そして。
自分も同じだと思った。
もし母だったら。
決められる自信はない。
会議終了後。
浩一は春子の部屋へ向かった。
春子は起きていた。
窓の外を見ている。
「母さん。」
春子が振り返る。
「来たの。」
いつもの笑顔。
浩一は椅子に座った。
しばらく無言。
何を話せばいいのか分からない。
仕事の話か。
孫の話か。
天気の話か。
違う。
本当は聞きたいことがある。
でも聞けない。
怖いから。
春子が先に言った。
「疲れてるね。」
浩一は笑った。
「仕事だから。」
「そう。」
春子は頷く。
そして。
「無理しちゃ駄目だよ。」
浩一は俯いた。
まただ。
また母は自分の心配をしている。
死に向かっているかもしれないのに。
最後まで親だった。
帰り際。
浩一は部屋の前で立ち止まった。
振り返る。
春子が眠っている。
いや。
眠っているように見える。
胸が小さく上下している。
それを見て。
なぜか急に怖くなった。
もし。
これが最後だったら。
その夜。
美月は実家へ電話した。
久しぶりだった。
母が出る。
「どうしたの。」
「いや。」
「なんとなく。」
電話の向こうで笑う声。
他愛ない会話。
五分。
十分。
それだけだった。
だが。
電話を切った後。
美月は泣いていた。
春子のおかげだった。
春子がいなければ、
今日も電話していなかった。
一方。
大森は夜勤者から報告を受けていた。
「春子さん。」
「呼吸浅いです。」
「SpO2 85%です。」
大森は記録を見る。
85%。
いよいよだ。
長年の経験が告げる。
身体が、
静かに閉じ始めている。
その時。
大森の携帯が鳴った。
母からだった。
珍しい。
大森は出る。
「もしもし。」
母の声。
少し弱々しい。
「ごめんね。」
「どうしたの。」
「最近。」
「転びやすくて。」
大森の表情が変わる。
「病院行った?」
「まだ。」
「行って。」
「忙しいんでしょ。」
春子と同じことを言った。
大森は言葉を失う。
そして初めて。
自分の母も、
老いていることを実感した。
春子だけじゃない。
他人事じゃない。
その現実が、
ゆっくりと大森へ迫り始めていた。




