第54話 【ありがとう】
春子の長男。
小林浩一。
五十八歳。
会社員。
妻あり。
子ども二人。
住宅ローンあり。
どこにでもいる男だった。
月一回。
欠かさず面会に来る。
職員から見れば良い家族。
クレームもない。
暴言もない。
無理な要求もしない。
だから誰も知らなかった。
彼がどれだけ苦しんでいるかを。
その週末。
浩一は母の面会に来た。
春子はベッドに横になっていた。
以前より痩せている。
顔も小さくなった。
「母さん。」
春子は目を開ける。
そして微笑んだ。
「浩ちゃん・・・」
浩一も笑う。
だが。
その笑顔はすぐ消えた。
腕。
細い。
あまりにも細い。
以前こんなだったか。
面会後。
浩一は相談員へ聞いた。
「体重って減ってますか。」
相談員は記録を見る。
「多少ですね。」
「年齢相応かと。」
笑顔。
悪意はない。
だが。
浩一の不安は消えなかった。
帰宅後。
夕食。
妻が聞く。
「お母さんどうだった?」
浩一は答えない。
しばらくして。
「痩せた気がする。」
妻は箸を止める。
「施設に聞いた?」
「大丈夫らしい。」
「なら大丈夫なんじゃない?」
浩一は頷く。
だが。
胸の奥に何か残る。
翌週。
春子の状態はさらに落ちた。
食事量低下。
覚醒時間低下。
酸素飽和度87%。
だが記録は。
【経過観察】
【状態安定】
【様子観察】
いつも通りだった。
その夜。
夜勤。
美月が訪室する。
春子は起きていた。
天井を見ている。
「眠れないですか。」
春子は首を振った。
しばらく沈黙。
そして。
「ありがとうね。」
美月は固まる。
「え?」
「ご飯・・・」
「・・・。」
「ゆっくり食べさせてくれて。」
美月の胸が痛む。
春子は続ける。
「みんな・・・忙しいから。」
まただ。
誰も責めていない。
春子自身が。
職員を庇っている。
「春子さん。」
「うん?」
「何か困ってることありませんか。」
しばらく考えて。
春子は小さく言った。
「ないよ。」
「・・・。」
「ここは優しいから。」
美月は俯く。
優しい。
確かに優しい。
誰も殴らない。
誰も怒鳴らない。
虐待もない。
だが。
十分な時間もない。
翌朝。
榊は春子の過去を調べていた。
元教師。
夫は十年前に死亡。
一人暮らし。
認知症進行。
施設入所。
特別な人生ではない。
どこにでもいる高齢者。
だからこそ。
日本中にいる。
春子が。
その日の午後。
浩一から再び電話。
「母の体重を教えてください。」
相談員は答える。
「三十八キロです。」
電話の向こう。
沈黙。
「以前は?」
相談員は記録を見る。
「四十三キロです。」
再び沈黙。
五キロ。
高齢者の五キロは大きい。
浩一にも分かった。
何かがおかしい。
電話を切った後。
浩一は会社の駐車場で一人立っていた。
仕事。
子どもの学費。
住宅ローン。
介護。
全部抱えている。
本当は分かっていた。
母を自宅で見られないことを。
だから施設へ預けた。
だから職員を信じた。
信じるしかなかった。
そして初めて。
浩一は口に出した。
「母さん・・・」
誰もいない駐車場。
震える声。
「俺、ちゃんと見てやれてるかな・・・」
その頃。
施設では。
春子が夕食中に激しくむせ込んでいた。
ゴホッ。
ゴホッ。
ゴホッ。
美月が駆け寄る。
顔色不良。
涙目。
呼吸苦。
そして。
大森が呟く。
「そろそろか・・・」
美月は聞き返す。
「何がですか。」
大森は答えない。
ただ。
長年現場にいる人間だけが知る顔をしていた。
食べられなくなる。
むせる。
痩せる。
眠る時間が増える。
そして。
静かに最期へ向かう。
誰にも気付かれないまま。




