第37話 【帰れない家】
榊がグリーンヒルズなごみに来てから三日が過ぎていた。
業務改善アドバイザー。
表向きの肩書きは立派だ。
だが実際は現場観察だった。
問題職員。
不満分子。
告発者候補。
それらを見つけ出し、組織にとって都合の良い形へ導く。
それが榊の仕事だった。
午後二時。
二階フロア。
田中義雄は今日も落ち着かなかった。
車椅子から立ち上がる。
玄関へ向かう。
職員が止める。
怒鳴る。
また止める。
怒鳴る。
その繰り返しだった。
「家に帰るんだ。」
「妻が待ってる。」
榊は記録を見た。
妻。
三年前に死亡。
それでも田中の中では生きている。
認知症によくあることだった。
「奥さんはもう亡くなっていますよ。」
新人職員が言った。
田中の顔が歪む。
「嘘つけ。」
次の瞬間。
テーブルがひっくり返った。
職員たちが駆け寄る。
利用者が怯える。
フロアが騒然となる。
その様子を遠くから見ていた榊は、大森へ尋ねた。
「毎日ですか。」
大森は苦笑した。
「毎日です。」
「大変ですね。」
「正直?」
大森は少し考えた。
「もう限界です。」
その言葉には重みがあった。
翌日。
施設長室。
田中の長男が呼び出されていた。
四十代後半。
スーツ姿。
疲れた顔。
目の下の隈。
施設長の佐久間が切り出す。
「お父様の状態ですが……」
長男は黙って聞いていた。
「正直、このままでは他利用者への影響も大きいです。」
「はい。」
「職員への暴力もあります。」
「はい。」
「転倒事故のリスクもあります。」
長男は黙っていた。
施設長は言葉を選ぶ。
「在宅介護もご検討いただけないでしょうか。」
沈黙。
長男が笑った。
乾いた笑いだった。
「無理ですよ。」
施設長は何も言わない。
「父を家に連れて帰れってことですか。」
「・・・。」
「私は朝六時に家を出て帰るのは夜九時です。」
「・・・。」
「妻も働いてます。」
「・・・。」
「子供は高校生と中学生です。」
長男の声が少し震えた。
「介護なんてできません。」
「・・・。」
「だからここにお願いしたんです。」
施設長は何も返せなかった。
長男は続けた。
「施設も無理。」
「家も無理。」
「じゃあ父はどこへ行けばいいんですか。」
その夜。
榊は職員休憩室の前を通った。
中から声が聞こえる。
「また田中さん?」
「今日もだよ。」
「もう睡眠薬増やしてほしい。」
「家族もそう言ってるらしいよ。」
「そりゃそうだろ。」
「こっちだって限界。」
榊は立ち止まった。
誰も笑っていない。
誰も利用者を憎んでいるわけでもない。
ただ疲れていた。
心の底から。
深夜零時。
「帰る!」
再び田中の声が響く。
コール。
離床センサー。
怒鳴り声。
その中で佐藤美月だけが田中の隣に座っていた。
「お家に帰りたいんですね。」
田中は泣いていた。
「帰りたい。」
「妻に会いたい。」
「帰りたいんだ。」
認知症による問題行動。
そう記録される言葉の裏側にある感情。
美月はそれを見ていた。
そして翌朝。
彼女は業務改善提案書を書いた。
・夜勤人数の増員
・認知症ケア研修
・精神科医との連携
・薬剤調整の再検討
提出先。
施設長。
その提案書は三分後にはゴミ箱へ捨てられた。
榊は偶然、その様子を見ていた。
施設長は呟く。
「理想論だ。」
榊は黙っていた。
しかし、なぜだろう。
問題職員のはずの佐藤美月より、
提案書を捨てた施設長の方に違和感を覚えていた。
そして数日後。
田中義雄の処方内容が変更される。
まだ誰も知らない。
それが取り返しのつかない始まりになることを。




