九話
三蕗を出た二人は街道へ向けて北を目指していた。目標である娃昌は街道沿いのため、まずは街道に出てから向かおうと事前に決めていたのだ。
見るとも無しに周囲を見渡していた颯天が不意に呟いた。
「俺はてっきり連れて行くんだと思ったぜ」
燈霞は思わず眉をひそめる。正気かと思ったのだ。
「死刑囚の呪いを解く旅に子どもを同行させると思うの?」
「だって引き取るわけでもない……けど、面倒は見るって言うからよ」
拗ねたような声だ。金の瞳は気にしたように背後――今しがた出てきたばかりの三蕗の街を見た。なにも街が名残惜しいわけではない。颯天は、燈霞たちとは反対――南の方角へと進んでいる幼い兄弟を追いかけたのだ。
つられて燈霞も振り返る。今ごろ寄り合い馬車で街を出ただろう二人を思った。
そして慌ただしかったこの数時間を思い返した。
惟次の案内で辿り着いた廃屋での燈霞の問いかけに、二人は意味を図りかねてはいたものの詳しく訊ねていくとさして思い入れも特別な郷愁があるわけでもないと答えた。
そこで燈霞は、自分の上司の伝手で子どもでも出来る仕事を斡旋することが可能だと提案したのだ。そのためには三蕗を出て梧澄に行かねばならない。
阿是は一にも二にもなく声を張り上げて乗ってきた。
惟次も話半分ながらに好条件だと察したのか、キラキラした目をしていた。
そこからはもう忙しかった。
まずは身支度だと泊まっていた宿場に頼んで風呂を貸してもらい、ついで四人で食事も済ませた。さすがにこんな子ども二人を徒歩で行かせるわけもなく、寄り合い馬車の御者に金銭を積んで二人の移動手段を確保した。
「この手紙と証しを見せれば庁舎のなかに入れてもらえるから」
速攻でしたためた向こうの官吏宛の手紙と、燈霞の身分証であり常に官服の帯にくくりつけている官吏証を合わせて阿是の荷物に詰め込む。
適当に買ってきた鞄だったが、阿是は身体の前でぎゅっと大事そうに抱きしめて何度も頷いて見せた。
緊張しているのがよく分かる顔だ。兄につられて惟次もどこか表情が固い。
「大丈夫。信頼できる上司にさっき手紙を送ったから、きっと出迎えてくれると思うわ」
懍葉宛の手紙はすでに呪法で向こうに飛ばしてある。
心配するなと二人の頭を撫でた。風呂に入ったからか、昨日よりも柔らかくさらさらした手触りに燈霞はひっそりと満足感を覚えた。
出来るだけ早く着くに越したことはない。日が暮れてしまうからと二人を急かすと、阿是はなにか言いたげにもじもじと言葉を探していた。
「あの、どうしてここまでしてくれるんですか……?」
僕たちはなにも返せないのに、なんておそるおそる言うものだから、つい手が出てしまった。
燈霞の指先が阿是の額を小突く。
「梧澄は小さな街だから人手はいくらあっても足りないの。それにあなたたちがなにも返せないなんてことはないわ」
首を傾げる子どもたちを手招きで呼び寄せた。
「懍葉さんに会ったら、『ご飯食べ過ぎました。ごめんなさい』って私が反省してたよって伝えておいてくれる?」
「そんなにいっぱい食べたの?」
惟次の問いに神妙な顔で頷く。颯天のことでむしゃくしゃしてそれはもう経費で食べまくった。
「あれより?」
「あれより」
さっきの昼餉で燈霞の食べっぷりに驚いていた惟次は、それ以上と聞いて信じられないとばかりの迫真の表情だった。
「本当に? 本当に?」と小鳥のようにずっと鳴いている子どもを馬車の荷台に載せてやる。ついで阿是もと思ったが、燈霞が手を伸ばすよりも早く颯天がひょいと抱えて乗せてくれた。そうして二人は子どもたちを見送ってから三蕗を出てきたのだ。
梧澄は大きな港があるわけでもない小さな岬だ。地元民が助け合って暮らすいいところである。懍葉はあの街に配属されて長いのでいろんな人に顔がきく。だから子どもでも出来る仕事を探すことなど朝飯前だろう。
「私なんかが引き取って保護者をやるよりも、あの子たちだって自分の手で働いてお金を作るほうが気楽でしょ」
さっきの準備のバタバタでだって阿是は喜びつつ燈霞が金を出すことに萎縮していたぐらいだ。これで養い親にでもなろうものなら、それこそ縮み上がって死んでしまいそうだった。
(あんな調子だから財布掏るときも躊躇したんだろうなあ)
さらに小さな惟次が隠れて逃げおおせたぐらいだ。阿是も本気で逃げれば振り払えただろうに、あんな調子だからきっと捕まってしまったのだろう。
人が良いと言えば聞こえはいいが、生きづらい性格だと思う。
(私だったら自分が生きるか死ぬかだったら躊躇ったりしないのに)
見ず知らずの人間なんて、所詮自分や家族に比べれば路肩の石ころのようなものだ。積極的に悪事を働くつもりはもちろんない。けれど、燈霞は自分が情の薄い人間だという自覚があった。
生きるためなら、自分の大事な人のためなら簡単に他人を蹴落とせる人間なのだ。
いつもだったらこんなことを考えたって気にはしないのだが、無垢な幼い良心というものを見たからかずいぶん自分が薄情で冷酷に思えた。
それで沈んだりはしないが、少々感傷的になってしまったのだろう。街を出てからぼんやりと歩いていると、不意に颯天が呼びかけてきた。
「なあ、燈霞」
「なに」
応えてから名前を呼ばれたのは初めてだと気づいた。思わず立ち止まる。
「あなた、今――」
振り返った燈霞は言葉を忘れてしまった。
颯天は笑っていた。いつものような皮肉を含ませたものでも、混ぜっ返すようなものでもない。心の底から不意に湧き出たような、そんな素直な感情の片鱗を思わせるような柔らかい微笑みだった。
「あんたさ、いいやつだな」
しみじみとした声が穏やかな風に運ばれてきた。一緒に春の萌えた草の匂いも鼻を掠めていって、むずむずするような不思議な心地になる。
「あいつらは一人じゃないし、それだけでも恵まれてるって思ったけど燈霞みたいな人に会えたのも幸運だったな」
独り言みたいな口ぶりだ。燈霞への感心と、兄弟への祝福。ほっと心を落ち着けたような声音なのに、どうしてかそこに一筋の切なさが混ざっているように思えた。
――どうして、そんな顔をするの。
「……あなただって親切な人に拾われたって言ってなかった?」
「ああ……まあな。小さな村だったよ。全員が家族みたいに温かくて、俺みたいなよそ者にもみんな優しかった」
なら、二人の境遇も颯天も変わらないはずだ。そんな羨むような目をしなくたっていい。
金の虹彩に懐かしむ色が浮かびはしたが、その奥にある冷えた切なさは消えなかった。
いつも掴みどころのない男の不意の弱さに、つい燈霞は昨夜のことを思い出した。
――ごめんなさい。ごめんなさい。
魘された声が、今も耳に焼き付いている。
(ああ、もう……)
つくづく困ってしまう。
「良かったじゃない、優しい人に拾ってもらえたのなら」
一度自分の中の欲求に餌を与えたせいか、どうにも慰めたくてうずうずしてしまう。本当は手を伸ばして愛らしいその顔を撫でたかった。だが、そんな心情を抑え込んで、燈霞は一言だけ告げて早足になった。
不思議そうに颯天はそのあとに続く。そしてしばらくしてから言った。
「……うん。いい人たちだったよ。本当に」
幸運だったと笑った声を、春の風は傍迷惑なことに燈霞のもとまで運んできた。
振り返りたい衝動が一瞬駆け巡って、進む足に力を込めてそれをやり過ごした。
今振り返って、もし……もし淋しく笑う少女を――いや、彼を見てしまったら、自分が引いた一線を越えてしまいそうな恐ろしい予感がしたのだ。