八話
あてもなく走り出した燈霞だったが――。
「おい! どこに隠れた! 出てこい!」
まるで見つけてくれと言わんばかりの大きな怒声に、そう走らずとも男を見つけることが出来た。惟次は上手く隠れているらしく、姿は見えない。
男の顔は怒りのせいか真っ赤になっていた。ふらついた足取りを見るに今日も酒を飲んでいるようだ。
(颯天が言うように、本当にろくな仕事をしていなさそうね)
苛立った男はそばに立てかけられていた角材を思い切り蹴飛ばした。倒れたそれを避けつつ、燈霞は呼びかける。
「あなた」
「ん? なんだ昨日の女じゃねえか」
「昨日の子は財布を返したはずよ。それなのにまた追いかけ回すなんてひどいんじゃない?」
重たい足取りで近づいてきた男を、燈霞は怯みもせずに見上げて言った。
キリッとした真っ直ぐな深紅の双眼に、男の片眉がひくりと跳ねる。生意気な若い女の態度はさらに機嫌を損ねたようだ。
「あいつらが俺の財布を掏ったから金をなくした。だからその罰は受けさせるべきだろう?」
「それなら街の警備官に突き出せばいいじゃない」
「それだと俺の気分がおさまらないだろうが!」
吠えるような声はひどく酒臭い。咄嗟に鼻を摘まむと、男はさらに怒りを募らせて片頬をひくひくと痙攣させ始めた。
(真っ当な断罪手段を選ばずに自分の憂さ晴らしを選ぶっていうのなら、多少痛い目見たってしょうがないわよね)
なにより燈霞は、こうやって弱い人間に居丈高に振る舞う人間が大嫌いなのだ。ついつい男を見る目は厳しくなる。
「おいおいなんだその態度は。昨日の女といい、おまえら俺をなめてるのか?」
「馬鹿にはしてないわ。昼間から酒を飲んでそれだけ子どもを追いかけ回せるんだから暇なのねって思っただけで」
「なんだとッ!?」
襟元を乱暴に掴まれた。だが、あくまで燈霞は冷静だった。
抵抗するように男の手を押さえる振りをして、懐から取り出した白紙の札を男へ貼り付ける。すると――。
「いでえっ! な、なんだこれ!」
札を貼り付けられた腕は独りでに男の背後へと回った。重心を崩された男は身を乗り出すように赤らんだ顔を地面と衝突させる羽目になる。両膝と頬を地面に押しつける姿勢は、まるで背後から誰かに抑え込まれているかのようだ。
「お、おい、どうなってんだよ、これ!」
自由な片腕をついて起き上がろうとするが、比例してもう一方の腕が強く背中側へ引っ張られるものだから上手く起き上がることができない。
結果、ジタバタと見苦しい動きをすることしか出来なくなった。
これが人相手であれば、男は腕力にものをいわせて拘束を解けたかもしれないが、なんせ相手は呪法である。
男の腕に貼り付けられた札には呪師にしか見えない文字で「拘束」の効果が描かれていた。といっても、獄舎で颯天にかけられていたようなただ枷としての役割ではない。もっと複雑で鮮明に条件付けされたものだ。
しばらく抵抗を続けていた男も、無理な姿勢と腕を引かれる痛みで抵抗をやめた。やめざるを得なかったというべきか。
尻を突き出すような姿勢で頬を地面に擦り付けながら、肩を大きく上下する。ふと、男の目が燈霞を見上げた。
薄暗い路地に立つ燈霞の目は、赤い虹彩が爛々と輝いて見える。いっそ毒々しくも見える赤と目が合うと、男は喉を引きつらせた。
「お、お前いったい何者なんだ! なあ! 金ならやるから、」
「だったら昨日あの子がばらまいてなくしたお金のことはもう忘れなさい。今後あの子たちを見かけても関わらないで」
「わ、わかった。金のことは忘れる」
だから腕を治してくれ! と懇願する男を鼻白んだ目で見下ろす。
無理矢理頭を下げさせているような姿勢は拘束には最適だが、燈霞自身も嫌な気分になる。
鼻に皺を刻みながらパチンと指を鳴らす。と、札が剥がれて男は一度倒れ込んでから震える両手で身体を起こすやいなや怯えた目で燈霞を気にしながら逃げていった。
ひらりと独りでに戻ってきた札を受け止めながら男の背中にふんと鼻を鳴らした。それを合図のように背後からはわざとらしい少女の声が上がったものだ。
「ひゅー! かぁっこいいねー!」
「……あなた着いてきたの?」
「やだなあ。忘れちゃったの? ワタシタチは離れられないでしょ?」
ふざけた人間がふざけた声でなにかを言っている。
言い返す気もなく、ひとまず颯天は放っておいて惟次を探すことにした。
「惟次、いるんでしょう! もう大丈夫よ!」
何度か呼びかけて応答を待つ。しばらくして、奥の家の藪ががさりと揺れて惟次が顔を出した。
「……昨日のお姉ちゃんたち?」
「そうよ。昨日ぶりね。怪我はしてない?」
とことことやって来た子どもを見渡してみるが怪我はしていなさそうだ。衣服についた木の葉を払ってやると、惟次は「ありがとう」と安心した顔で言う。燈霞の背中から颯天がひょこりと顔を出した。
「兄貴はどうしてるんだ?」
「家で寝てる。僕は兄ちゃんにご飯食べさせてあげたくて出てきたんだけど……」
「それであの男に見つかっちゃったのね」
こくりと頷きが返ってきた。居心地悪そうな横顔を見るに、昨日颯天に気をつけろと言われたことは覚えているようだ。
それでも怪我をした兄になにか食べさせてやりたかったのだろう。しかもお金が手に入ったばかりで、気分も浮いていたはずだ。
庇護者を失ってどれだけ経つのかは分からないが、すれたところもなくずいぶん良い子なものだ。
改めて燈霞の決意が定まった。
「惟次、私をお兄ちゃんのところに案内してくれない?」
視線を合わせて訊ねると、惟次と颯天が揃って首を傾げた。
「なあ、二人に会ってどうするつもりなんだよ」
耳打ちしてきた颯天を燈霞は一瞥だけして惟次の背中を追う。
「なあってば……まじで引き取って育てるつもりじゃないよな?」
「なに。心配でもしてくれてるの?」
ずいぶん弱々しい口ぶりだ。自分の言葉が燈霞を煽ったとみて不安になったのだろうか。
さすがに十代の女に子ども二人を引き取らせるのは忍びないと考えているらしい。
本当はこのまま気を揉ませていてもいいのだが、あいにくと颯天は誰が見ても振り返る美少女である。そんな少女が不安そうに眉や口角を垂れ下げていては、どうにも胸がちくちくしてしまう。はあ、とため息が零れる。
「言っておくけど、なにも私が引き取るってわけじゃないわ」
「じゃあなんでわざわざ兄貴と一緒に話をするんだよ。……しかもさっき面倒見ればいいんでしょなんて啖呵切ってたし」
「あ~~もううるさい! ついてきてれば分かるから黙ってて!」
ぐちぐちと耳許で言われては我慢ならない。ピシャンと叱りつければ、これまた素直に颯天は押し黙った。
静かになった颯天とともに惟次を追いかけて少し歩いた頃だ。
人の多い居住区をずいぶん通り越し、人影がまばらになって荒れた家が目立ち始めたころに惟次は一本の路地の指さした。
「ここの奥にある小屋だよ。今は誰も使ってないからそこで兄ちゃんと一緒に住んでるんだ」
案内されたのは住宅地の隅にあった小屋だ。本来は納屋かなにかとして使われていたような小さなもので、燈霞たちが泊まった宿の部屋二つ分ぐらいの広さしかない。
しかも人の手が入らなくなって長いのか、壁には蔦が這い、柱は朽ち始めている。屋根だってまばらに穴が空いていて、まず人が住めるような場所ではない。それでも、野ざらしで寝るよりはたしかにマシなのだろう。見た颯天も「へえいい場所見つけたな」なんて感心していた。
穴が空いてなくて雨が入ってこない一角に藁が敷き詰められ、阿是はそこに横になっていた。昨日の手当てが効いたのか少しばかり腫れも穏やかになったようだ。
人の気配でぱちりと目が開き、大人の影にビクリとしつつも燈霞たちだと分かるときょとりとしばたたいていた。
「兄ちゃん、今日もお姉ちゃんたちが助けてくれたんだよ」
興奮した様子で惟次が事細かに語る。と、すぐさま跳ね起きた阿是は弟の身体を隅から隅まで確認してどっと安堵した。
「馬鹿……勝手にどこか行くなよ」
「ごめんなさい」
「お姉さんたちも、今日も弟を助けてくれてありがとうございます」
ぺこりと下がる頭を、怪我人だからと制止する。そして、さっそくとばかりに燈霞は言った。
「あなたたち、この街に未練はある?」