三十五話
燈霞はよほど疲れていたらしい。
次に目を覚ましたのはあの妓楼崩落の日から一週間以上が過ぎていた。
颯天曰く、ときどき目を開けていたらしい。けれど、燈霞の記憶にはないので半分寝ているような不確かなものだったのだろう。
「あーあ。俺が匙で一口ずつ粥を口に運んでやってるときのオネエチャンてば可愛かったのになあ~」
壁に背中を預けて寝台に座る燈霞の横で、颯天は肘を立てて嘆いていた。
窓からさす陽差しが傾いているところを見るに夕方に近いようだ。濃く照らされる空気は生ぬるい。夏が近づいている気配をひしひしと感じていた。
「なのに起きたらそんなひどい目で俺のこと見るんだもんなあ~。一週間以上負ぶって健気に看病してたのは俺なのになあ。意識落ちかけてるのに粥が足りないって言われたときはどうしようかと思ったのに~」
「颯天」
「てっきり褒めてくれると思ったのに起きて早々そんなに怒るなんてひどいオネエチャンだよなあ~」
「――颯天」
一際低い声に、さすがの颯天も口を噤むことを選んだ。
はぐらかす気が満々だったようだが、これ以上は逆撫でするだけだと気づいたらしい。
「もちろん運んでくれたのも世話をしてくれたのもありがたいと思ってる」
ああ、それは本心だ。さすがに現場に残ってやってきた警備隊に引き留められるのも面倒だったし、場所を移してくれたのはありがたい。目を覚ますまで世話をしてくれたのだって面倒をかけたと思う。
(私だって素直に礼を言いたかった)
目覚めたのがここじゃなければ、燈霞はもっと純粋に謝辞を述べられたはずだ。
意識が戻った燈霞がここを認識したときの衝撃なんて、きっとこの男には分からないだろう。
「……どうして。なんで三蕗に戻ってきたの」
押し殺したかったけれど、どうにもならない感情が声を震わせた。
そう。燈霞たちは今、三蕗の宿にいるのだ。
「だって呪いは解けたんだ。なら、帰る場所なんて一個しかないだろ?」
だらけた姿勢を直した颯天が肩を竦める。
芝居がかった声音に余計腹が立った。が、よく考えたら燈霞は自身の逃亡計画についてなにも伝えてはいなかったのだと思い出した。
「……分かった。そうね。たしかにあなたに伝えてなかったもんね」
独りごちれば美しき青年は首を捻った。その両肩を掴んで迫る。少女のときよりも厚みのある、知らない感触だ。
「颯天。私はあなたに生きていて欲しい。だからこのまま逃げたいと思ってる。というか逃げるつもりでいる」
「は――」
言葉を失うとはまさにこのこと。体現するように颯天は綺麗に呆けた。
「何その顔。あなた私が好きだったって言ったの忘れてるの?」
「いや。覚えてる。覚えてるよ……忘れるわけない」
「じゃあなんだってそう意外そうなのよ」
「いや……だって」
「だって――?」
鼻先を突き合わせる。眼前で金の瞳は右往左往して渋々白状した。
「俺、男に戻ったけど……それでもちゃんとまだ好きでいてくれてんだって思って」
じんわりと白磁の肌に熱が灯る。
はあ――? と今度は燈霞が言葉を無くす番だった。
この男、私の言葉を忘れたわけじゃあるまいに信じていなかったということか!
男でも女でも、ドムでもサブでも関係ないのだと、あれだけ真摯に伝えたというのに!
言葉が出てこずとも表情は雄弁だ。怒ってることを正確に感じ取った颯天の弁明が続く。
「だって口では言っても、実際にそうなると変わるかもしんないだろ! こんなに風貌だって変わってるんだぞ!? あんたが可愛い女の子が好きだった可能性だってあるんだし!」
「私の気持ちは一縷も変わってない。例え男でも女でも杏颯天である限り愛してるわ」
「あ、お、お前……よくそんなことを真顔で言えるな」
沸騰したように真っ赤な男は、負け惜しみのように言った。
まるでこちらが悪いとでも言う態度に釈然としない。気持ちを素直に言うことのなにがいけないのか。
遠い昔の母とのやり取りを思い返す。好きも愛してるも惜しんだことはなかった。
人間関係が乏しいのはお互い様。しかし燈霞には母がいて、颯天にはいなかった。優しさという慈愛は知っていても、唯一の存在だとひたむきな愛情を向けられたことのない颯天にとって、自分の言葉がどれだけ重いのか燈霞には想像がついていなかった。
(そもそもこんなに変わったっていうけど、面影はあるし)
黒い艶のある長髪も、金の虹彩の輝きも変わりない。たしかに体格や印象の違いはあれど、一目見て彼の内面に変わりはないのだと判断できる。そんななかでむしろどうやって気持ちを離れさせろと言うのか。しかも今は可愛くないとでも言うような口ぶりだが、普通に燈霞には可愛く見える。
「私の気持ちはよく分かったでしょ? だから獄舎には行かずに二人で旅にでも出ましょう。ひとまず国境は越えたいわね」
まだ本調子ではないが、このまま二、三日で問題なく動けるようになるはずだ。
そうしたらさっさと旅支度を調えて街を出なくてはいけない。
まずは服に食料、ちゃんと術の解除も考えておかなくては。あれこれ算段をつける燈霞を、切ない眼差しが見る。
「ごめん燈霞……それは無理だよ」
「……もちろんあなたの心情を優先してあげたい。でも、そんな人たちのためにあなたを奪われるのが許せないの」
死ななくてはならない。罰を受けなくてはならない。
彼の心情はよく知っている。それを望んでいるのも。だが、目の前にいるのにやすやす見送るようなことは燈霞には出来ない。
「違うんだ。いや、違くはないけど……三蕗に来たのは三日前のことだ。俺は宿をとってすぐに手紙を出した」
返事が来たのは今朝方だと、颯天はそばの卓の上から手紙をとって見せてきた。ついでとばかりに蝋燭に火を灯す。そこで初めて、暗くなり始めていることに燈霞は気づいた。日没だ。
蝋燭の明かりで照らされた文面はよく見える。送り主の名は、函神獄舎の亥裕洵。その文字が、燈霞には強く主張するように浮き上がって見えた。
「……なに、これ」
「獄舎には呪いが解けたことも、三蕗まで戻ってきてることも伝えてある。本当なら猶予もなく強制帰還だろうけど、せめて燈霞が目を覚ますまではって頼んで、承諾してもらった」
受け入れたくない。目を逸らしたい。
でも、深紅の瞳はずいぶん必死に文面を追いかけた。裕洵らしい丸みのある文字だ。目を覚まし次第帰還して処刑を受けるのだと文字にそぐわぬ冷たい現実を突きつけてくる。
拘束の術を上書きしたそうで、期日――燈霞の目が覚め、次の日没時になると強制的に帰還の転移がされるらしい。
(術を書き換えた? まさか遠隔で?)
しかも燈霞の目が覚めたときだなんて条件付けは可能なのか? ――いや、仙師なら出来る。それこそ仙法なのだから。出来ないことなどないだろう。
やはり功篤は仙師なのだ。そんな仙師の術がこの手首にある限り、燈霞と颯天は絶対に逃げ切ることはできないだろう。
するりと手紙が滑り落ちた。絶望感に打ちひしがれる。投げ出された燈霞の手に、不意に颯天がそっと重ねてきた。
「ごめん燈霞。燈霞の気持ちは嬉しい。でも、罪は償わなきゃ」
達観した瞳がちらと外を見た。薄暗くなった外を――。
(日没――!)
燈霞の目が覚めた次の日没。
(私が起きたのは正確には何時? 陽はどうだった?)
どっと冷や汗をかいた。めまぐるしい焦燥が頭を巡る。
――この日没が刻限なのでは……?
反射的に手を強く握り返した。こちらの心情を見透かしたように颯天がはにかむ。
「はは。なんかそんなに必死になってるの見るの悪くないな」
こっちはそれどころじゃないってのに、なんだってこの男はこんなに綺麗に笑うのだ。
見惚れるどころかいっそ憎たらしいと思った。
そして日が完全に沈みきる瞬間、ふと颯天の姿がぶれた気がして、燈霞はどうにか一緒に行けやしないかと駄目元で腕に縋り付く。
それが功を成したのか、ふっと一瞬の浮遊感の後、二人は三蕗と砂漠の境界に立っていた。
いきなりだったので足に力が入らず崩れ落ちる。すんでのところで颯天に支えられた。
「まさかここから歩いて帰ってこいってことか? ひでえことするな。こうとくのじいさんも。――でも、こうしてお別れの時間ができて良かった」
ひしと強い眼差しが燈霞を見た。
街との境界付近に住居は少なく、明かりはずいぶん遠い。始まったばかりの夜の暗さの中でも、星も強く颯天の金の輝きはよく見えた。
中途半端な体勢からゆっくり地面に座らせられた燈霞は、離れて行かないようにその袖口を手繰り寄せた。
「颯天、お願い考え直して。一緒に逃げよう? 私は官吏に未練はないし、そりゃ仕事はしなくちゃだけどお金に困らせたりしないから。食べ物もできるだけ好きなもの好きなだけ食べさせてあげるし、服だって、装飾品だってそう。不自由させたりしない」
こんなに頭を使ったのなんて生まれて初めてかもしれない。こんなに焦ったのも。自分で認識するよりも前にぺらぺらと言葉が出てくる。どうにかこうにか引き留めようと必死だった。
チカチカと脳裏が明滅するようだ。血に濡れた母の姿がちらつく。
(いやだ。もう失いたくない――!)
それなのにこんなときに身体はろくに動かないし、こうして縋ってみせることしかできない。情けなかった。
「も、もし好きな人が出来たって私は応援する。あなたの幸せを邪魔したりしない。本当よ。だって私、あなたが生きててくれるだけでいい」
想いを返してもらえないことより、永遠に失うことのほうがよほど恐ろしいのだ。
震えるほど強く握りしめていた手をとられた。慰めるように、冷たくなった手を柔らかく包まれる。
ふと昔に見た書物の一節を思い出した。
花のように笑うとはよく言ったものだと思う。まさに颯天はそれを体現していた。
至上の幸福を前にしたとき、人はもしかしたらこんなふうに笑うのかもしれない。と、目を奪われながら思う。
「な、んで笑ってるの」
こっちがどんな気持ちで言ってるのか分からないわけじゃないだろうに。
「悪かったよ。燈霞が馬鹿なこと言うから……そういえば言ってなかったなって思って」
「なにが」
恨みがましく訊くと、手は繋がったままもう一方の手が頬に伸びた。
「俺も燈霞のこと好きだよ」
それは初めて聞く声音だった。甘ったるくて、いつまでも耳に奥に残っていそうな――芳醇な香りを嗅いだときのようにくらりと目眩がした。
焦燥も悲しみも苛立ちも全部ふきとんで、頭の中が真っ白になった。
頬を離れた手が風に遊ばれた深紅の髪を取り、そっと耳にかけてきた。指先が耳朶を掠め、背筋がゾクリとする。
咄嗟にその手をとって引き留めた。
「颯天――『一緒に』」
一緒に逃げよう。
叫びかけたコマンドは、凍り付いた喉のおかげで発揮されることはなかった。
一緒に逃げる。もちろんそれを望んでいる。心の底から。
だが、汐燈霞はそれをコマンドには出来ない。出来ないのだ。サブの意志をねじ曲げるようなことは、燈霞には出来ない。
蘇るのは蹲って青ざめた母の姿。けれど、それをはね除けるように強く切実な願い。
「あっ……あ……」
土気色の顔で口を震わせるだけの間抜けな女にも、颯天は変わらず笑っていた。なにをそんなに喜ぶことがあるのだ。
「――そ、颯天」
「うん」
「あ……あの、……だ、『抱きしめて』」
「――うんっ」
弾むような返答だった。なにを言おうとしていたか分かってるくせに、まるで最初から燈霞がそうできないと知ってたような余裕ぶりに腹が立つ。腹が立ちすぎて涙が出てきた。
「俺もこうしたいって思ってたんだ。本当に燈霞はすごいな。俺がしたいこと、なんで分かるんだよ」
「知らない。なんでかなんて分かんないわよ」
体格が違うから今はすっぽり燈霞が颯天の腕の中だ。男に戻って力が増したのか、骨が軋むほど強く抱きしめられる。
おかげでもっと涙が出てきてしまう。
意趣返しに顔を颯天の衣にすり寄せた。せいぜいびしょ濡れになって困れば良い。
思い知れ、と思った。
その濡れた衣を見て燈霞を思い出せ。そうして思い知ってくれ。あなたの死をそれだけ泣いて拒絶する人間がいるのだと。それだけあなたを想う人間を、置いていくのだと。
最期の瞬間、少しでも苦くこの男の心に残れば良いと思った。
燈霞はそんな恨みがましいことを思っているのに、それなのに死にに行く当の本人ときたら……。涙をはらりと零しつつも、なにも未練はないような幸福な顔ですっきりと笑っているから。だから、あんまり憎らしくて燈霞は彼の胸ぐらを掴んで――。
「……私、一生あなたをことを思い出して泣くから」
一瞬だけの唇の熱とともに燈霞はそう教えてやった。そうして彼が答えるよりも早く、二人は街の外れから再び飛んだ。
片や泊まっていた宿の寝台に。片や獄舎の牢屋の中に。
飛ばされた燈霞はままならない身体を引きずり、夜の街を這うようにして砂漠まで戻ったにもかかわらず、そんなことお見通しだったろう仙師のせいで砂漠に入ることは叶わなかった。
侵入を拒む透明な壁をどれだけ叩いてみせても、術を使っても、爪先さえ入ることは出来なかった。結局一晩中粘ったが朝日と共に身体が保たずにぶっ倒れた。
運良く通りかかった人によってそのまま医院に運ばれることとなったのだ。
あと一話+番外編で完結します……!




