三十四話
小さくなる二人の影。しかし、風蓮の目には燈霞の深紅の揺らめきがしっかりと認められた。そんな彼女を離さないとばかりに懸命に抱きしめる颯天の姿も。そして、自分に向けて燈霞の手が必死に伸ばされているのも、はっきり目にした。
風蓮は思わず笑った。
つい返すように手を伸ばしかけ、けれど思うようにいかない身体に苦笑する。
あれだけ求めた人が遠ざかっていく。
淋しさはある。けれど、それを上回るような幸福感や満足感があった。
つい先刻まではどろどろと身の内で燻っていたおどろおどろしいなにかが綺麗さっぱりだった。
もう終わるのだという達観のせいか。いや、それだけじゃこうも自分はスッキリと受け入れることは出来なかったろうと思う。
「……ありがとう。燈霞」
女のドムというものを、風蓮は初めて見た。こういう店にいたのだから当然だが、今まで男のドムしか見たことがなかったのだ。
触れてくれた指先を、自分の手で慰めるように撫でる。ぐずぐずになった肌でろくに感覚なんて働いてはいないが、それでもあの瞬間、たしかに風蓮は彼女の体温に癒やされた。風蓮が怯えながらも小さな信頼を見せたことだけで嬉しいという言葉に胸が熱くなった。
一縷の躊躇も戸惑いもなく、自分のこの手をとってくれたことに泣きたくなった。
あの瞬間、風蓮は人生で初めてサブとしての本当の幸福を感じたのだ。
痛みと強制的な服従しか与えられなかった自分の人生が、報われたような気さえした。
「ありがとう。燈霞」
最期にあなたに会えて良かった。
「……颯天がちょっぴり羨ましいかも」
いいなあ。あんなドムがそばにいて。
同じサブと嫉妬してしまう。けれど、颯天があんなに砕けた態度で接する女性は初めてだった。だからだろうか。すっきりした羨望しかなかった。
いっそ良かったね、とすら思えてしまうのだ。颯天へ向けた愛はたしかに歪んでいたかもしれないけれど、たしかに愛はあったのだと実感する。
幸福感と満足感、そしてちょっぴりの羨望。
自分の今までの人生を見てまず想像が出来ないほど穏やかで、幸せな最期だと風蓮は笑った。邪気のない、子供じみた屈託のなさだった。
そして風蓮は笑いながら妓楼とともに崩れ落ちていった。
◇
燈霞の予想に反し、なぜか被害は比翼のみに限られた。といっても娃昌でも大規模の妓楼だ。そこら一体が更地かというほどぺしゃんこになった瓦礫で埋め尽くされていた。
近隣の妓楼たちも避難は完了していたらしく、これだけの騒ぎであっても人影はない。避難した人も、まだ怖がってこちらに戻ってはこない。
そんな中、燈霞はとうとうまともに動かなくなった身体を抱えてもらい、颯天とともに現場に戻ってきた。
「……風蓮を探したいの」
「わかった」
応えたのは、ずっと聞いてきたものよりも低い男の声だ。
身を預ける胸元に柔らかな乳房はなく、今は固い胸板が燈霞を受け入れていた。
(……たしかに言うだけのことはあるわ)
男に戻った颯天をチラリと見る。その面差しは思わずため息が漏れそうなほど美しかった。
女性だったときの円やかな頬はすっきりとした輪郭に変わり。丸く愛らしかった瞳は、今は細長く緩やかな弧を描いている。
もちろん体格も様変わりしていた。余計な肉のない細みな体型だが、あの怪力に見合う――とはいかないまでもしっかり筋肉がついている。抱えられたって以前のような不安感はなかった。
建物の崩れた余波で吹き飛ばされた二人だったが、颯天が庇ってくれたおかげで燈霞は地面との激突を避けられた。束の間意識を飛ばした二人だったが、起きたらすでに颯天は男に戻っていたのだ。
よくよく見ると確かに女の頃の面影がある。妓女たちが兄妹だと勘違いするのも納得だった。服が少女だったときの丈に合わせてあるせいで不格好でなければ、もっと様になっていただろうと思う。
こんな状況でなければ「やっぱりたいして身長変わらないわね」なんて憎まれ口を叩いたところだが、ことがことだ。
広大な敷地の中、ある程度部屋があったろう地点に予測をつける。
「部屋の位置からするとこの辺りだと思うけど」
「……うん」
「あ、おい。立って大丈夫なのかよ」
身を乗り出せば意図を汲んだ颯天は心配しつつ下ろしてくれた。差し出された手と背中に回った手を支えに、不安定な足場を歩いて行く。
これだけ建物がぐしゃぐしゃなのだ。生きているとは思っていなかった。
そもそもこうならなかったとしても、風蓮はあの状態では長くはなかったろう。
(ああ、もう……! 目がかすんできた)
ままならない身体が腹立たしい。この状態を回復するには休むことが一番だとは経験談で承知してるが、そんな余裕はないのだ。あまりちんたらしていれば人が戻ってきてしまう。その前に風蓮を見つけたい。
「燈霞……あれ」
顎をしゃくった先に目を向ける。離れた瓦礫の隙間から、血の滲む包帯が見えた。
思わず駆け出そうとして再び颯天に抱えられる。近づいていくとよりハッキリ分かる。そして、不意に颯天が燈霞の目を隠した。
「……見ないほうがいい」
「せめて手の届く距離まで行って欲しいの」
気乗りしなさそうではあったが颯天は叶えてくれた。立ち止まった途端、燈霞は身じろいで颯天の目隠しを外した。
「あ、おい!」
「いいから……気にしないで」
遺体なら見たことがある。顔に穴が空いただけの、綺麗なものではあったが。
瓦礫もあって風蓮の全貌をしっかり見ることは叶わなかった。けれど、その身体がほとんど原型を留めてないことはやすやすと理解出来た。
というより、ほとんど血痕しか残ってなかったといったほうが良いかもしれない。
辛うじて瓦礫の隙間に見えた指先に触れる。
颯天は制止しかけ、けれど結局は口を閉じた。燈霞の隣で屈み込み、心痛に耐える顔で手を合わせた。
燈霞は触れた彼女の指先を灰にした。それを自分の裾を使って作った小さな巾着にまとめ入れる。
それを大事に大事に懐に入れてから、残った血痕も綺麗にした。
変に遺体でも残れば、きっと楼主や他の人にひどい目にあうだろう。その前に弔いが出来て良かった。
「……風蓮があんなふうになってたのって法術……呪いのせいだよな?」
「うん」
「俺が適当な慰めなんて言わなきゃ、こんなふうに俺なんかに執着したりしなかったろうに」
歯を食いしばる男の鼻頭を、燈霞はぎゅっと強く摘まんだ。
「自分を責めないで。あなたの言葉は、たしかに彼女にとってとても大きな転換点になっただろうし、悪い方に足を入れてしまったかもしれない。でも、救いでもあったはずだから」
ここでの生活を地獄のように思っていた風蓮にとって、この美しき男から与えられた言葉は、不意に暗闇に入り込んできた一筋の光だったろうと思うのだ。
「だから……自分を、責め、過ぎないで……」
「あっ! おい! 燈霞!」
大丈夫かと叫ぶ声に、休めば治ると伝えた。
狼狽える颯天も、本人が言うならと苦渋の顔でひとまず燈霞を背負ってここを離れることにした。
安心感のある背中に身体を預けながら、燈霞は眠りに落ちたのだ。




