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法呪解仙~下っ端官吏のはずが、死刑囚の監視人になりました!?~  作者: 瀬川香夜子


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三十三話



 

 颯天を探していた燈霞は全神経を研ぎ澄まして部屋の中を注視していた。そして、わずかな――本当に微かな気配の揺らぎを感じ取った。


 ――燈霞!


 直接頭に語りかけられたような声に、弾かれたように燈霞は鏡台へ掴みかかる。飛びかかってぶつけた足が痛むが知ったことではない。そんなことに構ってはいられなかった。


「颯天!!」


 覗く鏡面の向こう側に望んでいた彼がいた。思わず深紅に涙の膜が張られた。見たところ怪我もなにもない。無事だった。それがどれだけ燈霞を安堵させたことか。

 鏡面越しに手を合わせる。触れ合えない距離がもどかしかった。


「燈霞! 向かいの比翼の風蓮――いや、風嵐だ!」

「え?」

「俺に呪いをかけたやつ! あいつだったんだ! ここにもそいつのせいで閉じ込められた!」


 後ろを気にしたように颯天が振り向く。まさか一緒にいるのか。

 ゾワリと怒りが心臓を撫でた気がした。


「なあ、どうやってここから出ればいい?」

「待って。術が解けるか試してみるから」


 颯天越しに見ると奥は鏡の中は真っ暗な空間が広がっている。これが別の場所に通じているというのならまだ理解は出来たが、これは明らかな空間の創造である。

 無から有を生み出すのは、一般的には仙法しかあり得ない。


(一介の妓女がそんな高度な技を……?)


 燈霞とてそんな真似は出来ない。いや、自分が半端に足を突っ込んだ分際だからだろうが、ならばその妓女はなんだというのか。

 繰り返し感じていた鏡からの法術の気配はその風蓮だろう。

 あれはこちらへと完璧に繋がる前だから容易に拒絶できたが、こうして相手の術が綺麗に発動して形となってからでは破るのは難易度が上がる。

 無理に術を破ろうとすればそこにいる颯天の身が危ない。


(颯天一人だけこちらに通す? いや、私が()()()ほうが早い――!)


 そばにいられれば守る手段は格段に増える。

 方針を変更し、燈霞は術の抜け穴を探った。その間も颯天はハラハラした様子で背後と燈霞とを交互に見やるので安心させるように「大丈夫」だと何度も呟いた。

 ゆっくりゆっくり。触れている手元から自分の気を相手の術の中に溶け込ませていく。

 遠くで女の泣き声が聞こえた。風蓮だろうか。

 どうしてどうしてと嘆く声が、少しずつ近づいてくる。比例して、目の前の颯天の焦燥が強くなっていく。


(もう少し……もう少し……)


 それにしても一体風蓮はどうやってこんな力をつけたのだろう。

 仙師に劣るとは言っても燈霞は自分が一介の呪師より優れている自覚はある。そんな燈霞の苦戦する法術など考えられなかった。

 なにか特別なこと――それこそ禁忌にでも手を出さなければ成し遂げられないと、実際に術に触れた燈霞は思うのだ。


 考える内にも少しずつ気は馴染んでいった。

 このぐらいならば燈霞が侵入しても拒まれはしないだろう。そう見極め、鏡面に触れる手にゆっくりと力をこめた。

 あれだけ頑強だった鏡面が嘘のようだ。とぷり、と水に沈むように指先からゆっくり真っ暗な世界に入り込む。

 真っ先に通り抜けた腕を、颯天が逸るように握りしめた。そうして腕の次は上半身――遮るものなく真っ直ぐ二人の瞳が絡み合った。


「燈霞!」

「颯天!」


 喜びの声が上がる。あとは足だけというところで突然女の声が頭上から雷鳴のように降り注いだのだ。


「入ってこないでええっ――!」


 それこそ雷に打たれたような痛みが全身を突き抜けた。


「うっ――!」


 衝撃で後方に弾き飛ばされ、板の間で身体を打った燈霞は痛みに呻く。

 颯天と手を離してしまった。すぐさま顔を上げたが、そこにあの黒い世界も颯天もなかった。


「どこ、ここ……?」


 どこかの部屋だ。二人が鴛鴦で与えられていた部屋より一回りは優に大きい。一人部屋だろう。隅に積まれた布団は一式だけだった。

 広いはずなのに御簾で部屋を分断されているし、所狭しと大小様々な鏡が敷き詰められていてずいぶん閉塞感を覚える部屋だ。


(弾き出されたんだ! 颯天は……!?)


 気づいた風蓮が無理矢理燈霞を拒んだのだ。無茶をしたからあの空間自体に亀裂の入る気がした。颯天もどこかに弾き出されているかも知れない。

 ひとまず彼を探さないといけない。立ち上がろうと手をつけば、乾いた感触が触れた。


「……紙? なにこの文様」


 床には見覚えのない文様がつめこまれた紙が一面に広がっていた。

 呪法のときに使う儀式の文様に似ているが意味は理解出来ない。しかし、本能的に危険なものだと警告が鳴る。黒い墨で書かれた文様を塗りつぶすように赤いなにかがまき散らされていて、黒ずんだその赤にゾッと背筋が粟立った。


「これ、まさか血……?」


 咄嗟に手を離した。気づいてしまうと、途端に血の匂いが鼻につく気がした。鼻腔の奥でぐるりと渦巻くようなそんな気分の悪い匂いだ。


(まるで呪いの現場みたい)


 そうだ。呪いだ。まさかここは――と燈霞が気づいたとき、ふと背後で呻き声が上がった。


「だれ――!?」


 振り向いた先には女がうずくまっていた。女だと分かったのはその長い黒髪と線の細い体格からだ。しかし、それだけしか分からなかった。

 乱れた黒髪の隙間から見える顔は、血の滲む包帯でグルグル巻きにされていて容貌を見るどころではない。

 分かるのは瞳だけだが、その目も閉めきった暗い部屋に浮き上がるように爛々と輝いていて狂気を感じてしまう。


「あ、あなた……あなたのせいで、颯天が……!」

「……まさか風蓮?」


 今は風嵐と名乗っている彼女はたしか人気の妓女のはず。なのに、この幽鬼よりも恐ろしい風貌はなんだ。


「あんなに、あんなに優しかったのに! なのに、変わっちゃった! お前のせいだ! そうじゃなきゃ颯天があんな……男みたいに乱暴してくるわけない!」


 口ぶりは禍々しいのにその細い肢体は怯えるように片腕を抱いて震えていた。女の抱く腕にはうっすらと手形が残っていた。

 風蓮の風貌に恐怖を感じていた燈霞も、そんな小さく蹲る女を怖がりつつけるほど肝の小さな女ではない。なにより聞き捨てならない言葉に苛立ちを覚えた。


「颯天が乱暴……?」


 乱暴とはきっとあの手形のことを言ってるのだろう。

 たしかにあの男は人離れした怪力を持っている。しかし誰かを傷つけるために使うだなんて思えない。


(自分の家族への復讐にだって罪悪感を覚えるような男なのよ?)


 ということは、彼女が颯天の逆鱗に触れるようなことをしたのではないか。

 あの颯天が女の細腕を考え無しに掴んで跡を残すような――そんな暴挙に出ざるを得なかった、それほどのことを。


「颯天になにをしたの」

「ないもしてない! 私は女の子の颯天とずっと一緒にいて欲しかっただけ!」


 なのに断わられた、と風蓮は泣きながら喚いた。


「言ったの! 彼はサブは愛されるために生まれてきたんだって。でも男もドムも嫌い……誰も本当に私のことなんて愛してくれないもん。、だから、優しい颯天ならって思ってたのに! だから女の子にしたのに!」


 癇癪を起こしたように両手が板の間を叩く。まるで子どもの地団駄だ。

 冷めた眼で見下ろす燈霞の胸中には、ふつふつと憤怒の炎がくすぶり始めていた。

 これで怒らない者がいるだろうか。自分の好いた者が、他人に求められる。それだけならば嫉妬はするが腹は立たない。だが、まるで消去法のように選択され、あまつさえ本人の意志も無視して都合良く扱われて怒らずにいられる人がいるだろうか。


(男もドムもいやだった? だからサブの颯天を女にして一緒にいようって?)


 ふざけたことを言うな。

 頭が焼かれているようだった。心臓が炙られているようだ。無意識にグレアが漏れ出た。気づいた風蓮はあれだけ喉を枯らして泣いていたのにたちまち青ざめて静かになった。


「あ、あなた……ドム……?」

「そうよ。あなたの嫌いなドムよ」


 意識的にグレアを強くして風蓮に向ければ、彼女は瞳を恐怖で揺らした。


「ご、ごめんなさい。ごめんなさい。べつにあなたを否定したわけじゃなくて……! だから、だからお仕置きは……許してくださいっ!」


 板の間にゴツンと音が鳴るほど額を押し当て、風蓮は燈霞に許しを請う。

 勢いよくぶつけたせいで傷が開いたのかこめかみの包帯にじわりと血が滲む。それでも土下座を辞めずに震える身体で許しを請い続ける姿に、燈霞は冷水を浴びせられたように血の気が引いた。

 さっきまでの怒りがみるみる引いていって、残るのは自分への嫌悪だけだ。


(ああ……最低だ。グレアで思い通りにしようなんて……)


 自分は今、憎い男たちとおなじことをしたのだ。逆らえないだろうと、サブをわざと萎縮させるためにグレアを向けた。

 自己嫌悪でどうにかなりそうだ。

 いくら怒っていたってその辺りの区別はつけるべきだった。

 グレアをしまい、冷静になった燈霞はまず頭を上げさせようと風蓮の前に膝をついた。

 ねえ――呼びかける寸前、風蓮の様子がおかしいことに気づく。


「はっ、はは……やっぱり私たちサブは、こうして脅かされ続けるのよ。はっ、はっ……ほんとふざけた世界……!」

「……風蓮?」


 怯え泣いているかと思えば、聞こえたのは嗤い声。しかも短い呼吸音が少しずつ早くなっていく。――まずい。


「風蓮顔を上げて。もうグレアはだしてない。あなたにお仕置きもしない」


 早口で言い切ったがだめだった。

 むくりと起き上がった目は、すでに焦点が定まらず燈霞を見てはいなかった。肩を揺らすような荒い呼吸が喘ぐような呻きに変わり、そうして――。


「もういや――! 死んじゃえ! ドムも、男も! みんな死んでよ!!」


 長い爪が風蓮自身の身体を掻き下し、その血がぼとぼと床に広がった紙に落ちた。紙の文様はまるで血を吸い上げるように赤黒く色を変え、風蓮の叫びに呼応するように鈍い輝きを放つ。

 途端、建物が悲鳴を上げるようにミシミシと軋む音を立て始めた。


(まずい。崩れる……!)


 ここが風蓮の私室であるなら、ここは娃昌でも一、二を争う妓楼のはずだ。夜に比べれば少ないだろうが人の出がある。ここで暮らす妓女だって大勢いる。


「風蓮! 落ち着いて!」


 彼女の望みに従うように、嫌な記憶の染みついた妓楼が壊れようとしているのだ。

 なにより恐ろしいのが術の発動範囲がこの妓楼一つだけではなく、もっと広いということ。一体どれだけの妓楼が、人々が犠牲になるか。さすがに看過できない。

 彼女の身体を揺さぶり、必死に声をかけるがすでにサブドロップを引き起こした風蓮にまともな意識はない。

 覗く瞳から滂沱の涙を溢れさせ、なのに口許は嗤っていた。

 爪がガリガリと彼女の顔を引っ掻いて血が出るので、見ていられず両手を掴んで止める。そうするとようやく抵抗らしい抵抗をみせた。ゆるく腕を引き抜こうとする弱いものだが、まだこちらへ向ける意識があると言うことは希望だ。


「風蓮! 私の声を聞いて! お願い!」


 颯天や母のときのようにコマンドをこなしてもらって精神の安定を測りたいところだが、彼女相手ではそれは悪手になるだろう。だから普通に言葉を向けるしかない。

 どんどん建物の軋みが大きくなっていく。焦りとともに燈霞の声も切迫していく。


「風蓮! 今壊したってあなたが憎い男も、ドムもほとんどいない! 死ぬのはあなたと同じ妓女ばかりよ!」


 どうせ壊したいのなら、復讐したいのなら、せめてその憎い相手にやってやれ。

 燈霞が呼びかけていると、不意に御簾の向こうの扉が乱暴に開けられた。


「風嵐! いったいなんだってんだ! お前いったいなにを――ひ、ひいっ! な、なんだお前は!」


 ここの楼主だろう男は肩を怒らせてズカズカ入り込んできたと思えば、包帯を巻かれた血まみれの風蓮に悲鳴を上げて腰を抜かした。

 化け物と叫びながら尻を引きずって距離をとる。


「や、やっぱり化け物だったんだ! サブなら上客がつくだろうと思って入れてやったのろくに客とプレイもしねえで! この恩知らずが!」

「――黙れ!」


 気づけば怒鳴り返していた。


「サブだからなんだっていうの! 従いたくもない命令に頭を下げて従順にしろとでも!? お前たちはサブをなんだと思ってる! なぜひどい行いを受け入れなくちゃいけない!? なんで痛めつけられなくちゃいけない!? 彼女たちだって人なのに! それなのになんで理不尽を受け入れて当然だと思う!?」


 そんな愚かな考えが、母を、颯天を、風蓮を――数多のサブをどれだけ傷つけてきたものか。

 燈霞の積年の怒りは男を萎縮させるには十分だった。そして風蓮の意識を惹きつけるのにも。


「この建物は――この辺り一帯は今すぐ崩れてもおかしくない。さっさと出て行ってほかの人たちを避難させて!」

「お、お前だれ――」

「早く行け!」

「ひいっ!」


 燈霞の声に弾かれたように楼主は外へ飛び出ていった。逃げろ逃げろと男が繰り返し叫んでいるのが聞こえる。


(これで少しでも被害が少なくなれば……)


 ひとえに崩壊が始まっていないのは燈霞がどうにか押しとどめているからである。しかし、血液という代償を得たこの術は威力が高く、また術師である風蓮の切実さ故に強大だ。

 解法でどうにか端から徐々に解除していってるがきりがないほど大きな術だ。いや、呪いといっても間違いはないだろう。

 どうする。どうする。このままじゃ娃昌が終わる。

 これは解法では完全に封じることは出来ない。それが分かっているだけに、燈霞の焦りもすさまじいものだった。


「……あなたドムじゃないの?」


 頭がいっぱいになっていた燈霞に落ちた呟き。おぼつかず、子どものような無垢さがあった。

 顔を上げると、解けかかった包帯から覗く瞳がひしと燈霞を見ていた。

 あれだけ荒れ狂っていたのが嘘のように静かで凪いだ目をしている。


「あなたドムでしょ?」

「……うん」

「なんで、あんなこと言うの」


 あんなというのは楼主への言葉だろう。

 こてりと首が傾げられた。心底不思議とばかりな無垢な仕草だ。いや、本当に無垢すぎる。風蓮には燈霞(ドム)があんなことを言うなんて信じられないのだ。

 ドムが人を痛めつけ、傷つけ、尊厳を踏みにじってくるものだと疑いすらしていない。全てがそうなのだと、彼女は信じ切っている。いや、彼女の世界は正しくそうやって成り立っていたのだ。

 やるせない思いが燈霞にわき上がった。


「私のお母さん、サブでずっとずっとひどい目にあってた。あいつらに従って、お母さんが泣く姿が嫌いだったの。あんなやつらのことなんか無視して笑ってて欲しかった」

「でも、サブなら従わなきゃ」

「違う。全部従わなくていい。あなたたちは無条件に頭を下げる存在じゃない。嫌なことは嫌だと言ってもいい。ドムにはそれを受け入れる義務がある」


 表面的なドムとサブの生態ばかりが広がっているが、本来プレイとはそういうものなのだ。

 あくまで双方の気持ちを満たすための交流であり、ドムにもサブにも拒否する権利がある。そして相手の意志を受け入れるのもまたプレイをするうえでの義務なのだ。


「嫌だって言ったら怒られるもの」

「怒らない」

「……痛い思いは嫌」

「痛い思いだってしない。させない」


 ふと燈霞は風蓮の手元を見た。

 板の間を殴っていた衝撃で腕の包帯は緩んでいた。てっきり全身に傷でもあるのかと思ったが違った。

 人気の妓女だったというからにはきっと綺麗な肌をしていたはずだ。なのに、今の風蓮の肌はふやけたように柔らかくなっていた。見る影もないとはこのことだろう。


(……腐り始めてる)


 きっと血を代償にして繰り返し術を使っていた弊害だ。血を与えすぎて、血液だけでなく風蓮の存在――身体そのものが媒介となってしまったのだ。

 全身に包帯を巻いているからには、おそらく同じような症状が身体全体に出ているのだろう。


(これが全身に……)


 であれば、残念なことだが彼女はもう――。


「……風蓮『手を出して』」


 意図的にとコマンドを出した。ビクリと大きく震えても、風蓮はおそるおそる手を差し出してくれた。

 恐怖が大半だったろうに、それでも彼女の目には一欠片の好奇心があった。

 腐って柔らかくなり始めた皮膚を崩さないようにそっと手をとり、さっき頬を掻き下していた血で濡れた指を綺麗にしていく。

 手ぬぐいはすぐに血だけでなく腐った肉の汁でぐしょ濡れになった。

 それでもまだ爪が汚れているから、燈霞は自分の裾を乱暴に裂いて使った。

 優しく。優しく。肉を崩さないように。もう二度と風蓮が痛みなんて覚えないように、とにかく優しく爪や指先を綺麗に拭いた。

 風蓮はされるがままだった。恐怖故か、それとも別の思惑があるのか瞬きの刹那さえ惜しむようにじっと燈霞を見ていた。


「私はこれだけで嬉しい」

「これだけ?」

「そう。あなたが怖い目に合うかもしれないって怯えながら、それでもこうして私の言うとおりにしてくれたことが満足なの」


 自分を信頼してくれているようで、たまらない気持ちになる。


「……変なの」

「うん。変だよ……でも、いつかこれが変じゃなくなる日が来て欲しいと思う」


 風蓮が息を詰めたのが分かった。彼女の視線は変わらずこちらを焼き付けるように突き刺さる。


「……はっ」


 呻きそうになる声を咄嗟に抑えた。


(……まずい。そろそろ抑えておくのも限界)


 目眩がひどくなってきた。座っているのすら辛い。身体が異常なまでに重たくてすぐにでも横になりたい気分だ。

 商人の記憶をいじった疲労のせいもあるだろう。そこに大規模な術の抑制をしているからこそ余計だ。


 ……そろそろみんな建物から離れただろうか。


 気づけば額には脂汗が滲んでいた。

 風蓮は綺麗になった手元をじっと眺め、そうしてそうっと撫でてみた。今しがた触れてもらった感触を反芻するように。

 それから燈霞をまじまじと見る。


「彼が言ってたのは、やっぱりあなたのことね……」

「え?」


 小さい声だった。訊き返すと、ゆるゆると首を振られてしまう。


「もう少し早く、あなたみたいなドムに会いたかったな」

「風蓮……?」


 包帯の下――ぐずぐずになった肉の隙間から覗く目が、燈霞を見て柔らかくなった。そこに狂気も恨みもない。ただただ、春の陽差しのような柔らかな温もりだけが、燈霞を見ていた。


「あなた、名前は?」

「燈霞。汐燈霞」

「そう。燈霞」


 舌に馴染ませるように、風蓮は口の中で何度も呟いた。手元にある宝物を何度も確かめるような慎重さで。

 ついさっきまで髪を振り乱していたのと同一人物とは思えぬ穏やかさだ。急な様変わりが疑問だったが、いまは時間がない。落ち着いてくれたのならなによりだった。


「風蓮私たちもここを離れましょう。そのあと颯天も見つけて三人で話を――」


 引っ張り起こそうとした手がすり抜けた。燈霞が失敗したんじゃない。風蓮がわざと離れたのだ。

 力の行き場をなくして体勢が崩れる。立て直す余力も燈霞にはなかった。倒れ込む燈霞を、窓からの侵入者が抱き留めた。


「燈霞、無事か!?」

「颯天! あなたこそ無事だったのね!」

「ああ。気づいたら鴛鴦の部屋で。急いでお前を探しに来たんだ。……怪我、してないか?」

「うん。私は大丈夫。あなた――も大丈夫そうね」


 見渡しても怪我は確認できない。

 ほっとしたのも束の間、建物全体がガタガタと細かく振動を始めた。足場がぐらつき、よろめいたところを改めて颯天に支えられる。


「もう保たない……颯天、今すぐ三人で避難しましょう。ここら辺でほかに人を見た?」

「なんか男が逃げろって騒いでて、この揺れでみんな走って逃げてってるぞ。それよりも三人て――」


 と、颯天の目が座り込む風蓮を見た。

 包帯と血にまみれた女の姿に、動揺が走る。


「風蓮よ。……私の法術で留めながらどうにか距離を稼ぎましょう。とにかくここから離れなきゃ」


 言った傍から揺れが大きくなった。柱や壁に大きな亀裂が入った。まるで重たいなにかで押しつぶされようとしているように柱が軋む音とともに湾曲し始める。妓楼は倒壊寸前だ。燈霞の力でどうにか形を保っているが長く保たない。というかもう限界なのだ。

 燈霞の額には隠しきれない汗が滲んでいたし、息も荒い。


「風蓮! あなたも早く!」


 迎えに行こうとしたところで、足元の紙片に刻まれていた文様が淡く光を灯した。

 危険の兆候かと颯天が素早く燈霞を抱え上げて抱き寄せる


「風蓮っ!?」


 見ると、風蓮の指から出血があった。どこに隠し持っていたのか短刀で指を切ったようだ。

 たとえ少量の血であっても、彼女の身体を贄と判断しているこの術たちは過剰に反応して風蓮の身体を蝕む。


(なんのために!?)


 やはりこの街ごと消し去りたいのか。それにしては術の範囲も強度も変わりはない。ならば一体彼女はなんのためにあの術に餌を与えたのだ――!?

 答えはすぐだ。

 ふと二人――颯天と燈霞の身体がまるで足元から風に舞い上げられたように浮かんだ。あっと思った瞬間には、強風と共に二人の身体が窓の外へと放り出された。離れまいと颯天は燈霞を強く抱え直す。


「ダメ颯天! 彼女も一緒に――」


 瞬く間に小さくなっていく風蓮に、身を乗り出した燈霞が手を伸ばす。しかし、言い切る前に比翼の妓楼は見る影もなく押しつぶされたように崩壊した。


 


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